河合メンタルクリニック


親の背中

 子供たちにとって特権である夏休みの季節となりました。彼らはどのようにこの夏を過ごすのでしょうか。

 親は夏休みを楽しんでいる子供をみて懐かしいあの時代を振り返ります。一方、子供は夏休みの間も汗水流して毎日働いている親の背中をみて何かをそれなりに感じているのかもしれません。

 ここに子供が中学三年の時に書いたもので、学校の作品集に載ったものがあります。果たして親の背中は何を語りかけていたのでしょう。


精神科医になった父

 

[1] はじめに

 普通、「医者」というと内科医や外科医などを想像する人が多い。しかし、僕の父である河合真は精神科医だ。精神科は、いわば「心の病」を治療する診療科である。その医療の中でも特殊な分野に父が関わることになった経緯を調べてみた。

 僕が父を取り上げることにした理由の一つは、父が最も身近な「仕事人」だからだ。身近だからこそ、詳しく話を聞くことができる。今までに聞いたことのないような話も出てきた。

 もう一つ、父を取り上げた理由がある。父は日頃から、自分の正しいと思ったことはたとえ反対を受けても実行している。また、様々なことを実践し、成果を上げている。僕はそのような父を尊敬しているが、父がなぜそのようになったのか、またなぜ精神科医という職業を選んだのか知りたかった。この機会にそのことについても調べることにした。

 作業は次のように進めた。まず、父に中学・高校時代から現在までの経歴や、学生時代の生活歴のようなものを紙に書いてもらった。それは、父が物事を深く考える時は、口で言うよりも手で書くほうが考えやすいからだ。そして、できたメモを元にしてインタビューをすることによってまとめたのが以下の文章である。

 

[2] 現在の父

 父は大学病院で20年間勤めた後、現在は、横浜市内で開業し、診療を行っている。大学でも、非常勤講師として、外来診療を続けている。精神科の診療では、聴診器などの道具は使わない。診療のほぼすべてが言語によるものである。そこが内科や外科などの診療と異なる。

 患者さんに対しては、まず、症状が身体疾患によるものか精神疾患によるものかの鑑別を行う。もし身体疾患の治療が優先される場合には、それに対応する医療機関に送らなければならない。精神疾患がメインの場合には、治療を開始する。父は、こう記している。

 心の悩みの治療とは、一言で表わすとすると、患者の心に寄り添うことに尽きるかもしれない。言い換えれば、それは言語的コミュニケーション、非言語的コミュニケーションによって聴き入ること、共感すること、支えること、時に指示することもあるかもしれない。それは広く精神療法と称せられるものである。私の場合はフロイトの精神分析の方法論に拠っている。それは、患者の無意識を探っていくものである。必要に応じて、薬を処方する薬物療法も併用することになる。

 このように、精神科の治療は患者さんの心理を理解し、精神疾患の原因となっているものを取り除くことである。父は様々な症状の患者さんに対して、この方法を基本とした治療を行っている。

 一方、父は音楽療法にも関わっている。音楽療法とは、文字どおり音楽によって治療を行うことである。父は主に老人病棟および老人ホームでの音楽療法を実践している。

 週に1度、父は5時起きで茨城県にある老人ホームへ行く。そこでは、老人フィルハーモニーオーケストラが結成されており、父もソリストとしてバイオリンを弾く。お年寄の多くは打楽器で参加する。このアンサンブルは、年1回市民ホールでオリジナル曲を発表している。

 お年寄に対するセッションでは、アンサンブルの練習だけでなく、空オケやリズム体操も行われる。入所しているお年寄の多くが、生き生きとセッションに参加している。

 父は、このようなお年寄のQOL(Quality Of Life = 生活の質)の統計解析に関する共同研究を東京工業大学の教授と行うなど、様々な観点から音楽療法の研究・実践をしている。

 現在の父の仕事はこのようなものである。実際に父の仕事の内容をまとめてみると、実に様々な分野に携わっていることがわかった。しかも、それぞれの分野を長期間にわたって研究し、その研究成果をまとめることで実証している。

 では、父はなぜそのような職業を選ぶことになったのか、ここからは父の中学・高校時代について書いていく。

 

[3] 中学・高校時代の父

 中学時代、国立大付属の学校に通っていた父は、1クラスに一人ずつの図書委員に選ばれて、図書室に入り浸たることが多かった。何巻本もの「十八史略物語」、「水滸伝」、「三国志」を読みふけった。他にヘルマンヘッセ、芥川龍之介、太宰治などの作品も読んでいた。

 また、父の祖父(僕からみれば曾祖父)が自宅に独立した家屋の書庫を持っていたので、戦前に出版された石川啄木の本や、西田幾太郎、三木清の哲学書、杜甫、李白の漢詩の本をわからないながらも読む機会もあった。本人曰く“文学少年”であったそうだ。

 一方、父は社会問題にも興味があり、当時10円のニュース映画を渋谷の東急文化会館の地下によく観に行っていた。また、父の父親(僕の祖父)が仕事の関係上、主要新聞5紙を購読していたので、父も毎朝学校にいく前に目を通していたそうだ。

 このように、中学時代の父は文学や社会に興味を持っていた。この時点では、父はまだ自分が医者になるとは想像もしていなかったことだろう。実際、父は、それなりに企業人として頑張っていた父親や祖父と同様のコースを自分も辿るだろうと思っていたそうだ。

 さて、その後、父は兄(僕の伯父)と同じ都立高校に進んだ。その高校は当時いわゆる「進学校」であったにもかかわらず、「岩波新書で『高校生』という本を出版した国語教師が毎回グループ討議のユニークな授業をしたり、数学も受験数学でなく、すべてプリントの、大学の教養過程で出てくる、数学本来の面白さを喚起してくれるような授業だった」そうだ。どこか僕の学校に似ているような気もする。そのなかで父が感じたことがある。

 小・中とほぼ一貫校で、国立大付属という環境で、あらゆる意味で当時としては公立中に比べ“出来た教育”を施されてきたのではないかと都立高に入学して思い知らされた。制服一つとっても、小学生は制服、中学生はその上ネクタイ着用ということに何の疑問も持たず、ある意味で飼いならされてきたという反省があった。確かに、中学も1学年3クラスと小さくまとまり、高校が10クラスなのに比べて、良くも悪くもまとまりを示していた。
 いじめも校内暴力もない代りに、都立高に入学して感じた真の意味での自由な雰囲気は無かったと今にして思う。そこ(中学)には、“余りに見事に統制された生徒の自治活動”があったような気がした。全てが温室の中の“理想環境”であった。
 以上のことに関して中学の時は露ほどにも気がつかないでいただけに、その意識落差は大きかった。
 また、その気づきの後も残ったと考えられる無意識のわだかまりが、高校時代及びその後の人生に長く尾をひいていることを感じていた。

 父は、この体験が、自分が“精神分析”という無意識の世界を探る学問に関わるきっかけになったのではないか、と書いている。しかし、高校に入った段階では、父はまだ精神科医になろうとは全く想像さえしていなかったようだ。

 高校時代の父は「バンカラ」で、制服・制帽を指定されていたにもかかわらず、黒のカーディガンで通し、時に反抗精神から下駄をはいて行ったりしたという。この父の反抗精神は今なお健在で、もしかしたら、他人に何といわれようとも自分の正しいと思ったとおりにする父の行動力の源なのかもしれない。

 一方で、父は高校時代も“文学青年”であった。文学部にも属し、ロシアのドストエフスキーやフランスのマルタン・デュ・ガールなどの長編を愛読していた。作品名を聞いてみると、僕の聞いたこともない名のものばかりだった。

 そのような中で、父が進路についてどのように考えていたのかをメモから引用する。

 高校生になるにつれて、文学・社会科学の洗礼をそれなりに受け、心理学とか社会科学の方面にも進みたいと思うようになった。
 文学に関しては、この分野は才能が不可欠だと最初からあきらめていた。今にして思えば、どの分野にしろ才能と努力と運が不可欠だと謙虚に反省している。

 またこの頃、父は教育行政をやりたいとも考えていたそうだ。「自分が反抗した制度としての教育を教育行政の側面から改革したい」と思ったこともあるというが、本人にも本当の理由はあまりわからないらしい。

 いずれにしろ、父が目指していた進路は文科系だった。父の両祖父も父も兄も文科系だったので、父が文科系に行くのはある意味で当り前のように思われた。

 しかし、父は高校三年の秋になって急遽、理科系に進路を変えた。その後、父がものすごい努力をしたのはいうまでもない。そして父は結局、東京大学教養学部基礎科学科に進学した。

 では、父はなぜ突然理系に進路を変えたのか。次は、その理由を含めて父が現在の職業を選ぶに至った経緯を書く。

 

[4] 現在の職業を選ぶまでの父

 父が理系に進路を変えた理由は、本人でもよくわからないという。父曰く、「運命とはそのようなものだ」。しかし、もともと父は理科的なものにも興味を持っていたようだ。

 小学校時代、父は理科委員をしていて、百葉箱の温度・湿度の観察記録をとっていた。また、「子供の科学」、「模型とラジオ」という雑誌も愛読し、鉱石ラジオのキットを買ってもらって組み立てたりすることに興味を持っていたという。中学時代も、うそ発見器や化学実験のキットを買ってもらっていたりした。このような理科への興味があったからこそ、父は理系に進路を変えられたのだろう。

 ここで、大学に入った後の父について少し書いておく。

 入学してまもなく大学のストライキに巻き込まれ、講義が一年近く中断した。父も「社会問題に対する関与を否応無しに迫られた」という。ストライキの影響もあって、一時は中学校の教師になることも考えたそうだ。しかし、結局父は東京大学を中退し、群馬大学医学部に移った。そして、2年間谷川岳のふもとの山小屋で“晴耕雨読の生活”を送りながら、前橋まで通った。そして、医学部を卒業し、精神科医になった。

 父が精神科医になるきっかけは、やはり高校入学後の「無意識の世界」に気づいた体験だったのではないか。その後、父は心理学にも興味を持つようになったからである。また精神科が、医学の中でも最も文学的なセンスが必要な診療科であることも、“文学青年”だった父が精神科医になった理由の一つだったと思う。

 さて、ここで父が音楽療法に関わるようになった理由についても書いておく。父は、小学校時代の担任が図工の教師だったことが、その理由の根底にあるという。

 図工の教師で、卒業の際、サイン帳に学問を象徴する“ミネルバのフクロウ”を描いてもらった。彼は、その後は管理職への道を選ばず、自らの専門に没頭して母校の大学の美術科教育の教授に成り、定年後の今も制作に励み個展を開いている。図工に関してクラスで二人だけの“名誉ある”2の評価をもらったが、毎年個展に参上して、会場で茶碗酒をくみかわしては昔話にふけっている。
 私は小学校時代、学級代表も務めたこともあったが、担任の教師(この登場した恩師)に対しても、自分が正しいと思うことは最後まで譲らないことで有名であり、卒業式の当日、クラスで父兄全員のいる前で「君と僕とは仇同士だったな」と笑いながら握手されたのも今は良い思い出である。
 現在“音楽療法”に関わっているのも、この恩師の芸術に対するひたむきな姿勢の一端でも自己に取り入れたいという願望からきているとも思う。

 父は、このように小学校時代の恩師に強い影響を受けている。高校や大学の頃に、教育に関わりたいと思ったのも、このためだという。

 こうして、父は精神科医になり、音楽療法にも関わるようになったのだった。

 

[5] おわりに

 父の中学・高校時代について書くつもりが、中学の頃のことはあまりなく、むしろ小学校から大学までの学校生活の話になってしまった。実際に父が精神科医を志すようになったのは大学に入ってからのことだったから、中学のことが少ないのは仕方ないのかもしれない。しかし、父の小・中学校時代の経験も後の父に大きな影響を及ぼしていることは書いてきたとおりである。

 考えてみれば、現在の父の行動力も、中学・高校時代から「反抗精神」として現れていた。また、様々なことに興味を示し実践するというのも、学生時代に文学・社会問題・理科と様々な分野に興味をもっていたことからもわかるように、父の元からの性格だった。このように、現在の父の性格は中学・高校時代から変わっていない。

 こうして父の学生時代をまとめてみると、何となく今の自分に似ているところもあるように思えた。僕は父ほど文学にひたっていないが、社会問題や理科など様々なことに興味をもっていることは父と共通である。もしかしたら、僕も父のような「仕事人」になるのかもしれない。

 最後に、もう一つ父と僕の共通点ともいえることをあげておく。父は、高三の秋に進路を変えた後、ものすごい努力をした。父曰く、「最後は努力だ」そうだ。その意味では、この原稿も「最後の努力」で書かれたものである。8月の終わりから書き始め、始業式の前日に書き上げた。この点でも僕は父と似ているのかもしれない。


 一方、親の立場からすると子育てはどのように捉えられるものでしょうか。以下のものは子供の親がその想いを童謡に託して書いたものです。

 

 人は親になった時、記憶の底に封じ込めていた子守唄や童謡にもう一度出会い、幼児期を追体験します。それらもまた、苦しみや悲しみを乗り越える助けとなるのです。

 ここで一つの古い記憶がよみがえってきます。松本清張のある作品をテレビドラマ化したもののラストシーンです。ヒロインが、長いあいだ音信不通で今や追われる身となった父親を、寂しい海岸でようやく捜し出します。そして原作にあるのかテレビの脚色によるのかが確かめられなかったのですが、どちらからともなく共通の思い出に残る「七つの子」を歌いはじめるのです。

  からす、なぜ鳴くの、からすは山に・・・

 二人は唱和しながら互いに親子であることを確認し、互いの思いをこの古い歌に託しながら名乗ることなく和解し、別れを告げるのでした。

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