今回は、伊和大神の足跡の番外編、播磨國風土記の「オオナムチ」についての考察です[an error occurred while processing this directive]

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宍粟郡一宮町を中心に、伊和大神はますます勢力を広げていった。主として揖保川の流域に地名説話が残されているので、川の道にそって勢力の移動、拡張が行われたと考えてもいいだろう。 さて、今回は少し話しが逸れるが伊和大神の時代からちょっと遡ってみようと思う。

なぜかというと、播磨国風土記にはもう一柱、出雲の大国主と同一神と考えられている神が登場するからである。

まず「オオナムチとホアカリの子捨て神話」なるものを紹介させていただこう。


【大国主といえば出雲を思い浮かべるが、播磨の国にも大国主の物語は残されている。

オオナムチ(大国主)は子神の「火明命」とともに船に乗って播磨灘にやってきた。

積荷は稲穂や琴、箱、櫛箱、箕、甕、兜、蚕、錨、鹿、葛の綱、犬などである。

船は八丈岩山という山に辿りついた。

オオナムチ(大国主)は、火明命に山の清水を汲んでくるように命じる。

火明命が山に昇って涌き水を組んで戻ってくると、オオナムチの船はもうそこにはいなかったた。

普段から性格が乱暴でオオナムチの言う事を聞かない火明命は八丈岩山に捨てられたのだった。

捨てられたことに気がついた火明命は怒り狂い、暴風雨を巻き起こした。オオナムチの船は、暴風雨に飲まれあっという間に難破してしまった。

難破した船や、積荷が全て播磨平野に点在する丘になったと伝えられている。

例えば、船は船丘、稲穂は稲牟礼丘(稲岡山)、琴は琴が丘、蚕は日女道丘といった具合の地名説話になっている。】


ここに登場する「オオナムチ」について少し考察してみよう。播磨風土記のオオナムチは子捨て神話以外にもスクナヒコナと対になって現れる。オオナムチスクナヒコナといえば出雲でもタッグを組み国造りを行った神である。私は伊和大神よりもこの神の方が古い時代の神だと思っている。

つまりオオナムチと伊和大神は別人であるということだ。 おそらく、オオナムチこそ出雲の大国主であり、伊和大神はその一族にあたる神なのであろう。 オオナムチは、まずホアカリとともに船で出雲からやってくる。このあたりは、山を越えて播磨入りした伊和大神よりも、海洋航海を主として日本列島各地に交易地と勢力を築いていったであろう大国主の姿を彷彿とさせるではないか?(参照「出雲から世界へ」)

ホアカリを大倭大物主のモデルの一人ではないだろうか?と考えると、その理由が見えてくる。

スクナヒコナの亡きあと、出雲に船に乗ってやってきた大物主(大国主の幸魂ともいう)は出雲大国主にたいして「我を三輪山に祀れ」ということを条件にスクナヒコナにかわって大国主の国造りを手伝うこととなる。この話は、古墳時代の始まる前に出雲から畿内、三輪山周辺へとの勢力の移動があったことを示唆しているように思う。おそらく出雲の海岸から西の列島の沿岸を巡り、瀬戸内にはいり播磨灘をとおって河内に入ったのであろう。瀬戸内という穏やかなこのコースが最も安全でかつ大量の移住が可能なルートのように思う。このルートの始発点はおそらく宍道湖の周辺の港であろう。

そして出雲からの航海の終着点は河内の池上曽根遺跡の周辺ではないかと思う。 ここで注意したいのは、大和へと移動したのは出雲の勢力だけではないということだ。

「神武東遷神話」が指し示すように九州や吉備地方からも流入している。記紀神話を代表とする様々な神話を総合すれば出雲を出身地とする勢力がまず最初に大和入りしたのでは?と私は思っている。 銅鐸祭祀圏の移動と拡散がそれを匂わせている。

ホアカリ≒大物主だからこそ、オオナムチ≒大国主と同じ船に乗れてしかも喧嘩別れすることができたのだ。つまり大国主と大物主も別人(といってもここでは親子関係であるが)なのである。いずれにせよこの喧嘩でホアカリは畿内に、オオナムチは中国にと分かれることになったのではないだろうか?

このような西日本各地の動きは弥生後期の倭国大乱の前段階ではなかったか? 大国主の御子ホアカリに率いられた銅鐸祭祀の出雲人入植者たちは、奈良盆地の三輪山周辺に居を構えた。九州や出雲に遅れをとっていた奈良盆地にも弥生時代がやってきたのである。

ヤマト地方の古代最初の王権は出雲や九州、吉備の連合という形でスタートしたのではないだろうか? 何故大和に新都ができたのだろう?

それは「新しいクニ」の成立に邪魔となるような勢力がいなかった。というのは先住の有力な勢力があるところを連合勢力の中央とするには権益の面で問題が生じるのではないだろうか?と私は思うからである。九州に都を立てれば九州在地の勢力がどうしても優位になる。そういうことを避け、新しい勢力を形作るために大和の唐古や河内の池上ではなく磯城纒向という土地が選択されたのではないだろうか?

そして、西日本一帯を統一された瀬戸内経済圏として見ると、その商売相手となる東国にも近いという東西交流の拠点になりうる地域であったからではないだろうか?しかも大和は盆地であり守るには易い。このような諸条件が大和に新都を建設させることになったのではないだろうか?

さて、本題の播磨のオオナムチの話にもどろう。 オオナムチとスクナヒコナの二柱の神は播磨の地にやってきて稲作をはじめ養蚕など産業を広めた。交易相手を確保するためである。何しろ交易は相手がいないと成り立たないのである。交易の旅はまさに国造りの旅といえよう。二柱の神は、船でやってきたのかもしれないが、陸路川筋を通ってやってきた可能性も否めない。山陰城崎と直接つながっている(水源が同じという意味、水源は後に秀吉が争奪戦を繰り広げた但馬の生野銀山の周辺青倉山というところにある。銀山があるところにスクナヒコナの足跡。スクナヒコナが鉱山を探しにきたインド人だという説も捨てがたい。そこから播磨灘に向かって流れる川を市川、日本海に向かって流れる川を円山川という。船を使わない山の民などは山陰と山陽の連絡に使っていたであろう川筋であり、この川沿いには今も播但連絡道という自動車道が走っている。この川筋を通ると、山陰海岸と播磨灘の海岸の距離はおよそ75キロとなる。)播州平野のほぼ中央を流れる「市川」沿いの里に二柱の神がのんきな話をしながら歩いている場面が登場する。

神前の郡 埴岡の里


【オオナムチとスクナヒコナが互いに言い争いをした。

「埴(粘土)を担いで遠くまで行くのと、糞をしないで遠くまで行くのとどちらが簡単か?」と、二柱の神はとんでもない下品な話をしていたのだ。

結局、オオナムチが屎を我慢し、スクナヒコナが埴を担ぐことになって、お互いが我慢をして数日の道のりを歩いた。

オオナムチの方が先にこらえきれなくなり、しゃがみこんで屎をたれてしまった。それを見たスクナヒコナも笑いながらギブアップしてしまった。

そしてもっていた埴を近くの岡にほうり投げたのでこの岡を埴岡という。】


以上が、オオナムチスクナヒコナコンビの播磨第一歩である。この話から推測すると、正直播磨灘からきたのか山陰方面からきたのかまるでわからない。が、しかしこの後オオナムチとスクナヒコナは「日女道丘の女神」と結婚する。ということは山陰からやってきたのか?結局のところ場所が大河内町というどちらからも中間くらいの距離なので海陸どちらを通って播磨入りしたかは判然としない。

飾磨の郡 枚野(ひらの)の里 新羅訓(しらくに)の村・筥岡(はこおか)


【新羅訓(しらくに)というのは、新羅人がこの地に留まっていたという伝説があったからである。

大汝少日子根命(オオナムチスクナヒコネノミコト)が日女道丘の女神と日を決めて会う約束(婚姻を結ぶ約束?つまりは出雲からの入植を認めた?さらに妄想を高めれば日女道丘周辺の部族の出雲王への服属儀礼か?)をした時に、日女道丘の女神は筥岡の食物や筥、土器、祭器などを並べて準備した。】


「日女道丘」とは、後に天下の名城白鷺城こと姫路城が建てられる姫丘のことである。火明の子別れの際の暴風雨で「ヒメコ」つまり「蚕」が落ちたから「ヒメ」と名づけられたという地名起源説話をもつ丘である。

ヒメコといえば卑彌呼に発音が似ている。ここからさらにトンデモ的妄想を広めよう。 蚕は言うまでもなく絹糸のもとである。魏志倭人伝の邪馬台国の風俗にも「蚕桑」があること、絹織物を生産していることが記されている。卑彌呼の「卑彌呼」とは「ヒメコの王」つまり「蚕の王」、つまり「倭女王卑彌呼」とは「倭の絹の女王」を指し示しているのではないだろうか? 邪馬台国という集団が、倭の他勢力を凌駕した理由の一つには独占的な利益をあげる品目を生産していたからではないかと思う。その独占的かつ利益があがる品物こそ「絹」ではなかったか?養蚕そして絹織物の生産技術を独占していたのが邪馬台国であったのではなかろうか?

そう考えれば、三世紀中葉の遺跡からある程度の規模以上の絹布や養蚕の跡がある遺跡が出た地域が邪馬台国ではないのだろうか?(といっても、私には絹糸や絹布の出土状況など皆目わからないのですが(笑)) 神話においてアマテラスに比定されるオオヒルメムチも織物を生業にしていたのは偶然であろうか? 蚕(ヒメコ)>アマテラス>卑彌呼と想像させようとする奈良時代の人間の罠かもしれない(爆)


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