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713年の官命により715年頃に成立したとされている

伊和神社の森
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現存する『五風土記』の中でも地名説話中心で
播磨の神々の生き生きとした雰囲気が漂う
播磨国風土記についての考察集です。
風土記コラム2
kitunoの空より
現存している風土記は、
「常陸風土記」
「播磨風土記」
「出雲風土記」
「肥前風土記」
「豊後風土記」
の五つだけであり、諸国の風土記はその逸文が『釈日本紀』その他の古典に残されているのみです。現存の五風土記の中で完全に近いものは「出雲風土記」だけです。
『風土記』編纂の時期は、律令制の施行に全勢力が注がれていた時期で、律令制定の中心人物であった藤原不比等が、右大臣として政治をとっていた時代でした。
『風土記』に土地の有様や産物を詳しく記せと命じたのも、地方の実態を把握したかったからです。
『風土記』に関わった人物を調べてみると、不比等の政策を支えていた新進官僚群の多いことに気づかされます。
『風土記』編纂の第一のグル−プが、養老三年(719)に任じられた按察使(あぜち) の人々です。按察使とは臨時に地方行政を訪ね視察することを職掌とした令外官のことです。この按察使の中に藤原宇合(『常陸風土記』に詳述)、多治比真人県守(たじひのまひとたあがたもり)などがいます。
多治比真人県守は『出雲風土記』の編纂に関わっていると見られています。というのは、天平四年(732)に山陰道の節度使として派遣されているのですが、その任期中、天平五年(733)に『出雲風土記』が撰進されているからです。
また、藤原宇合は天平四年(732)に西海道の節度使に任じられており、この任期中に 『豊後国風土記』『肥前国風土記』が完成されたといいます。これらの風土記にも地方の地名由来伝承などが含まれていますが、各郡の記事ははなはだ不完全で内容的にも面白さに欠くようです。『風土記』の中では『出雲風土記』『常陸風土記』は極めて特徴的な性格を有しています。
*参照:
『出雲風土記』
・祖先という概念が比較的乏しく、徹底した地名列記集である。
・出雲在住の豪族達の古くから伝えてきた神話や伝承が多く見られ、『記紀』との掲載と異なる点が少なくない。
・国津神の活躍が生き生きと記されている。
『播磨風土記』
・全体から見て地方説話集
・徹底した地名伝説集


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