[701] 富氏の伝承 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/04(Wed) 13:39
出雲族が蛇を奉じているという件は

吉田大洋氏著『謎の出雲帝国』にあるところの
天之穂日族以前の出雲族である
大国主系の出雲族の子孫と称する富氏の口伝承に明確に記されています。

これによりますと
大国主系の出雲族の祖は蛇龍族であると断言されています。
つまり
出雲国の中核部族と推定される大国主系の出雲族は蛇を奉じているといえます。

口伝による系譜は
トミノナガスネヒコはこの系統です。

しかし、この系譜を見る限り
神武はニギハヤヒより前の人物になっています。
更に、
神武妃の兄の子孫がトミノナガスネヒコとなっており
伊勢風土記の神武の命によるアメノヒワケによる伊勢征討の
伊勢津彦はトミノナガスネヒコの弟とされています。
ちなみに
ニギハヤヒ妃はトミノナガスネヒコの妹となっており
この辺りは、天孫本紀、紀と一致しています。

この辺りがよくわかりません。
詳しい詳細の系譜があれば検証も出来るのですが
抜粋系譜しかわからないため、確認のしようが無いというのが現状です。

富氏の伝承については、吉田氏が7時間程度という短い時間
インタビューした話を纏めたものであり
口伝の一部しか表していないと思われますが
吉田氏の著書は一次資料と言えると思われます。

とりあえず、富氏伝承をもとにしますと

原・出雲族による大和進出は
出雲から山陰ルートで移動してきたトミ族が
まず、生駒山地の大和側に土着します。
ここから、カモ族が分れて、葛城へ移動
トミ族の一部が三輪へ移動して、土着します。
これが原・出雲族による大和進出の状況となります。

ただ
富氏と類似の口伝系の
宇佐家の古伝によりますと
ヤマトの地は物部族と和邇族が支配していたあり
出雲族の記述はありません。
しかし、物部氏と和邇氏の侵入以前は
猿田族という記述があり、これが出雲族に類するかもしれませんが
その出自は出雲ではなく、元々は越から来た部族とされます。

続いて
三郡誌も出雲族とはなっていません。
但し、三郡誌は2説あり
1つ目は、三毛族の支配となっており
この三毛族は越から来た部族です。
2つ目は、伊勢の山間部出自の部族がヤマトに進出し
これが強大化したというものです。

上記、ホムツタエ等は記紀同様で意味合いが少し違いますから
大国主系のヤマト進出の件は
これを明確に主張しているのは富氏だけとなります。

しかし、スサノオ系の進出の伝承もあり
これについては、紀伊・大和等に伝承と痕跡があります。
これを持って、出雲の進出の証拠とすることもできます。
スサノオ系の出雲族が近畿地方を制圧した後
物部・和邇氏の進出で中央部を分断されて
紀伊や大和南部に出雲族の痕跡が残ったとすることは可能です。
ただ、これを出雲国の出雲と同一視するかが問題となります。
スサノオ系の出雲は、大国主系の出雲と毛色が違います。

[748] Re: 富氏の伝承 投稿者:SM 投稿日:03/06/08(Sun) 05:57 <URL>
> 口伝による系譜は
> トミノナガスネヒコはこの系統です。

富氏、トミノナガスネヒコは、現在の地名、「富雄」に関係があるようですね。
この系統が出雲の蛇を信じる大国主であるとは、全く、知りませんでした。

> ただ、これを出雲国の出雲と同一視するかが問題となります。
> スサノオ系の出雲は、大国主系の出雲と毛色が違います。


猿田族、スサノオ系、三毛族、越が紀伊、伊勢、大和、出雲で繋がっているとは大変面白いです。
猿田(サタ)彦は出雲の佐田(サタ)大神と一致し、佐田大神はスサノオと一致するようです。

彼らは、鹿児島の佐多半島から、太平洋側と日本海側に分かれ、
太平洋側では、猿田彦となり、日本海側では、佐田大神・スサノオとなり、サタ半島の地名も太平洋側のサダ岬(足摺岬)、出雲の島根半島の中央部には狭田(さた)の国、佐田町、鹿児島の地名も、太平洋側の鹿島神宮、加島、出雲の佐田大神を祀る佐陀神社のある鹿島町に繋がっているようです。

この流れが、越と黒潮に繋がれば、沖縄、台湾にも繋がり、ここに一貫した蛇信仰にも繋がるようです。

いかがでしょうか。

[751] Re^2: 富氏の伝承 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/09(Mon) 00:24
> 富氏、トミノナガスネヒコは、現在の地名、「富雄」に関係があるようですね。

トミだけなら、玉手丘陵と桜井市の鳥見山周辺の2箇所があります。
最有力は玉手丘陵です。

> この系統が出雲の蛇を信じる大国主であるとは、全く、知りませんでした。

あくまでも富氏の古伝を元にした場合です。
これが正しいかどうかはわかりません。
その点をご理解下さい。
これを持って正しいと絶対に思わないで下さい。
そのような伝えもあるという感じで捉えてください。

> 猿田族、スサノオ系、三毛族、越が紀伊、伊勢、大和、出雲で繋がっているとは大変面白いです。

ですから
宇佐家の古伝、富氏の古伝、三群誌等のいろいろな伝承を
1つとして捉えないで下さい。
共通点はありますが
それぞれを明確に区分している点もあるのです。
これを1つとしてまとめて捉えるのはかなり難解です。

猿田彦は出雲だけではなく、九州、畿内など各地に伝承があります。
これを出雲として捉えて良いのか

> 猿田(サタ)彦は出雲の佐田(サタ)大神と一致し、佐田大神はスサノオと一致するようです。

このように猿田彦と佐田大神、スサノオをリンクされていますが
例えば
猿田彦自体が1人なのか疑問な点があるのです。
各地の全く別の猿田彦が集まり、1人の猿田彦となった可能性もある
或いは
猿田族を猿田彦に擬されたという可能性もある。
単純に捉えないで下さい。

> 彼らは、鹿児島の佐多半島から、太平洋側と日本海側に分かれ、
> 太平洋側では、猿田彦となり、日本海側では、佐田大神・スサノオとなり、サタ半島の地名も太平洋側のサダ岬(足摺岬)、出雲の島根半島の中央部には狭田(さた)の国、佐田町、鹿児島の地名も、太平洋側の鹿島神宮、加島、出雲の佐田大神を祀る佐陀神社のある鹿島町に繋がっているようです。

猿田彦は蛇というより天狗です。
正しくは、天狗ではなく、天狗に擬された人達です。
宇佐家の古伝を見る限り
天狗族が猿田族のようです。
ただ、地域により違う性質もあるでしょう。
先述したように、複数の人物や集団の集合体が猿田彦ならそうなります。

> この流れが、越と黒潮に繋がれば、沖縄、台湾にも繋がり、ここに一貫した蛇信仰にも繋がるようです。
> いかがでしょうか。

この当りが自分にはよくわかりません。

[754] Re^3: 富氏の伝承 投稿者:SM 投稿日:03/06/09(Mon) 03:45 <URL>
> > 富氏、トミノナガスネヒコは、現在の地名、「富雄」に関係があるようですね。

「富雄」は、現在の生駒市の東隣、現在の奈良市の西北端ですが、ここはナガスネヒコがあるという説は読んだことがあります。
富氏はここと関係がありますか。
>

>
> 猿田彦は蛇というより天狗です。
> 正しくは、天狗ではなく、天狗に擬された人達です。
> 宇佐家の古伝を見る限り
> 天狗族が猿田族のようです。
> ただ、地域により違う性質もあるでしょう。
> 先述したように、複数の人物や集団の集合体が猿田彦ならそうなります。

猿田彦は天狗に擬された人達であるとのことは、そうでしょう。

出雲神楽、石見神楽でも天狗がでます。
そして、蛇が主役でなくても、主題です。

というわけで、猿田彦と出雲、蛇との関係も匂うことが出来ると思うのですが。

それに、猿田彦は大柄の人であり、出雲は相撲の発祥地でもあり、
何か、現在の日本の相撲の横綱がハワイ出身者であることを、古代の出雲に見えるような気もするのです。

暴走でしょうか。

[756] Re^4: 富氏の伝承 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/09(Mon) 04:43
>「富雄」は、現在の生駒市の東隣、現在の奈良市の西北端ですが、ここはナガスネヒコがあるという説は読んだことがあります。

富雄のあたりはナガスネヒコの本拠地の候補の有力候補です。

> 富氏はここと関係がありますか。

わかりません。

何故なら
富氏とは個人を指します。
そして
ナガスネヒコは少なくとも今から2千年ぐらい前の人であり
富氏とナガスネヒコの間の系譜はわかりません。
いちおう、富氏はナガスネヒコの直系らしいですが

これも
富氏の伝承によると
富氏の連なる一族
即ち、トミ族の祖先のあたる人達の1人に
ナガスネヒコらしい人物の名が見えるだけであり
正確なところはわかりません。

何度も言っていますように
富氏の伝承と言いますが
吉田氏が富氏からインタビューしたものであり
その時間はわずか7時間です。
これでは概要しか聞き取れなかったはずであり
詳しいことはわかりません。
多分、聞き取りを行なった吉田氏に聞いてもわからないでしょう。
富氏に直接聞く事も多分無理です。
本来富氏の伝承は門外不出のモノです。
これは富氏の気まぐれで聞き取りが出来たものと推測されます。
再度、これを詳細に聞き取るのは難しいでしょう。
また
富氏は現在もしご健在なら90歳近いはずです。
更に、子孫の方がおられても
これを聞き取るのは無理と思われます。

[740] Re: 富氏の伝承 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/08(Sun) 00:56 <URL>
> 原・出雲族による大和進出は
> 出雲から山陰ルートで移動してきたトミ族が
> まず、生駒山地の大和側に土着します。
> ここから、カモ族が分れて、葛城へ移動
> トミ族の一部が三輪へ移動して、土着します。
> これが原・出雲族による大和進出の状況となります。

ほう、これも初めてしりました。
出雲のひさしさんからも面白いと聞いていたのですが、絶版だそうですね。

> スサノオ系の出雲は、大国主系の出雲と毛色が違います。

経路も違いそう。。。。失礼しました寒冷前線ギャグです(爆)

[752] Re^2: 富氏の伝承 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/09(Mon) 00:30
> ほう、これも初めてしりました。
> 出雲のひさしさんからも面白いと聞いていたのですが、絶版だそうですね。

う〜ん

ですが
あんまりお勧めできません。

ちと、客観的な視点で書いているのか疑問に思える点が見られます。
7時間程度のインタビューでどれだけのことが聞き出せたか疑問ですし
著者の妄想部分が相当加わっている可能性が高いです。

但し、重要な史料の1つであることは事実と認識しています。
客観的に資料として使える部分だけを使うには良いと思います。

[717] 越族 投稿者:SM 投稿日:03/06/05(Thu) 22:21
出雲の蛇信仰はベトナム、中国福建省の越族につながるのでしょうか。

これは台湾、沖縄の蛇信仰にもつながるのでしょうか。

日本列島北陸の越も越族につながるのでしょうか。

呉族と越族の呉越同舟は日本列島でもなされたのでしょうか。

[720] 全く わからん(^^; 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/05(Thu) 22:51
> 出雲の蛇信仰はベトナム、中国福建省の越族につながるのでしょうか。

ヴェトナムの件はわかりません。

何故、ここに福建省の越族が出てくるのですか?
つながるとは?

一体、何を質問されているのかわかりません。
申し訳ありませんが、もう少し具体的にお願いします。

> これは台湾、沖縄の蛇信仰にもつながるのでしょうか。

蛇なのか、越なのか一体どっち?

> 日本列島北陸の越も越族につながるのでしょうか。

北陸の越はわかりますが、越族とはどの越族?
五覇の越?それとも福建の越?

> 呉族と越族の呉越同舟は日本列島でもなされたのでしょうか。

呉越同船の呉越ですから
五覇の呉越ですね

とすれば
全くわかりませんとしか答えようがありません。

[722] Re: 全く わからん(^^; 投稿者:SM 投稿日:03/06/05(Thu) 23:47 <URL>
> 何故、ここに福建省の越族が出てくるのですか?
> つながるとは?

中国福建省の越族、台湾、沖縄に蛇信仰が強いということですが。

> 北陸の越はわかりますが、越族とはどの越族?
> 五覇の越?それとも福建の越?

どちらの越族でもよいですが、日本の地名とつながるのでしょうか。

福建省については下記をご参照ください。

[725] 回答 投稿者:SM 投稿日:03/06/06(Fri) 03:31
物部族のルートを色々と教えて頂きまして、感謝いたします。
新たなことを教えて頂く毎に、新しい質問をさせて頂いて、申し訳ありません。

ここでは、「越続」、日本列島北陸の地名「越」にも繋がりがあるのではないかと素朴な問いをさせて頂いております。
宜しくお願いいたします。

[726] Re: 回答 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/06(Fri) 15:33
> ここでは、「越続」、日本列島北陸の地名「越」にも繋がりがあるのではないかと素朴な問いをさせて頂いております。

「越」という文字が共通しているだけ、というのが一般的な認識だと私は理解しています。

つまり、それらの実体的な直接の関係を指し示すものはないということなんです。

大陸の「越」は「エツ」ですよね?
一方日本の「越」は「コシ」で、古くは「古志」という漢字表記を当てられていました。

「蛇」にしても中華から東(南)アジアに向けられたイメージでもありますし、「蛇を神として(また神の使いとして)祭祀していること」は共通していても、「蛇神への祭祀方法や儀礼」は様々だと認識しています。

中華の側がそういったイメージを被せた理由としては、東(南)アジアに広がっていた「蛇神信仰」を知っていたからかもしれません。

卑弥呼の貰った金印の鈕も蛇でした。

しかしそれ以上に易の方位を表す干支によるものの可能性が高いと私は考えています。

子は北を指しますから、東南は「辰巳」つまり「龍蛇」になります。

このように「蛇」とか「越」とか、部分的なキーワードが一致するということだけ取り上げて、それらを繋げて理解しようとするのはとても乱暴な理屈のつけ方だと、私は思います。

[705] 補足 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/04(Wed) 15:33
> 宇佐家の古伝によりますと
> ヤマトの地は物部族と和邇族が支配していたあり
> 出雲族の記述はありません。
> しかし、物部氏と和邇氏の侵入以前は
> 猿田族という記述があり、これが出雲族に類するかもしれませんが
> その出自は出雲ではなく、元々は越から来た部族とされます。

宇佐家の伝承の最初の部分は
宇佐家というよりウサ族の口伝であり
この辺りは富氏の伝承と同種の伝承です。
宇佐家の伝承でも出雲族は記述されていますが
出雲国の出雲族と範疇を出ていません。

[704] Re: 富氏の伝承 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/04(Wed) 14:29
おおおおっ富氏!

富神社には出雲のひさしさんと行ったような記憶が。。。。。

下記はひさしさんのページ内にある富神社のご紹介です。

http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/5-9.htm

[807] 石見が本家という説は 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/16(Mon) 00:05
宇摩志麻治尊の系統が本家というのは
彼には、味饒田命と彦湯支命の2人の息子がいます。

長男の味饒田命が父の名跡を継ぎ、石見に土着
次男の彦湯支命は父の軍団を受継ぎ、これを率いて、大和に入り
内物部として、天皇家に仕える。

あくまでも、味饒田命の系統が本家であり
彦湯支命の系統は分家であるということらしいです。

但し、味饒田命の墓とされるものが尾張にあり
彼の子孫とされる部族も畿内にいることから
本当に彼が継いだが疑問な点はあります。

[817] ニギハヤヒ命と天火明命 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/26(Thu) 13:49
以前、話題に上がったニビハヤヒ命と天火明命との関係。
私は今、あきんどさんのおっしゃられた別人の可能性もあるような気がしてます。
ニギハヤヒ命は、後世、天火明命と同一人物とされ、天孫系に組み込まれたと思います。

ですから、元々、ニギハヤヒ命と天火明命は別人とすれば、天火明命が神武の3世代上の二二ギ尊と兄弟だとしても、
神武とニギハヤヒ命が同時代に生きていてもおかしくない訳かなと思うようになりました。

物部氏は土着の豪族だったと思ってますが、物部東征伝承を否定も出来ません。

[820] Re: ニギハヤヒ命と天火明命 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/26(Thu) 22:03
>以前、話題に上がったニビハヤヒ命と天火明命との関係。
私は今、あきんどさんのおっしゃられた別人の可能性もあるような気がしてます。
ニギハヤヒ命は、後世、天火明命と同一人物とされ、天孫系に組み込まれたと思います。

え〜と
自分の見解は
ニギハヤヒと天火明尊は別人ではあるが、同一人物でもあるというものです。
但し
ニギハヤヒや天火明尊の伝承や資料を見る限り
ニギハヤヒと天火明尊は1代限りの名称とは思えません。
どうも、それぞれが世襲名称のようです。
そして、ニギハヤヒと天火明尊の両方を称した人物がいるようです。
この為、同一人物とされるようになったものと思われます。

>ですから、元々、ニギハヤヒ命と天火明命は別人とすれば、天火明命が神武の3世代上の二二ギ尊と兄弟だとしても、神武とニギハヤヒ命が同時代に生きていてもおかしくない訳かなと思うようになりました。

上記理由により、この異世代問題は無視しても良いと思われます。

>物部氏は土着の豪族だったと思ってますが、物部東征伝承を否定も出来ません。

この件に付きましては
現時点では、自分の意見は保留です。
推測するに足る資料が少なすぎます。

[818] 物部十千根 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/26(Thu) 21:42
>> ニギハヤヒ命は、後世、天火明命と同一人物とされ、天孫系に組み込まれたと思います。


この、ニギハヤヒ命が、高倉下の祖とされる天火明命と同一とされた時期は垂仁紀での、物部十千根のころではないかと思います。
この天孫系に組み込んだ彼の時代から、タケミカズチの剣を祀る石上神宮が軍事氏族物部の管轄にされたんだと思います。

推論でいくと、元々、尾張氏と物部氏は、先祖は違ってたか、同一だとしても、この神武東征時は、もうわからなくなってたくらい離れていたと思います。
お互い、出雲国譲り時はタケミカズチを主にしてたのではないかと思ってます。

[821] Re: 物部十千根 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/26(Thu) 22:50
>この、ニギハヤヒ命が、高倉下の祖とされる天火明命と同一とされた時期は垂仁紀での、物部十千根のころではないかと思います。
>この天孫系に組み込んだ彼の時代から、タケミカズチの剣を祀る石上神宮が軍事氏族物部の管轄にされたんだと思います。
>推論でいくと、元々、尾張氏と物部氏は、先祖は違ってたか、同一だとしても、この神武東征時は、もうわからなくなってたくらい離れていたと思います。
>お互い、出雲国譲り時はタケミカズチを主にしてたのではないかと思ってます。

数点疑問があります。

1つ目
ここに高倉下が出てくる理由がわかりません。
高倉下の祖が天火明命という趣旨がわかりません。
もしかすると
天香語山尊と高倉下が同一人物とされ
これが尾張氏の祖とされることを言われているのでしょうか?
しかし
高倉下はタギシミミと同一人物ともされます。
天香語山尊の子が高倉下ともされます。
全く、関係が無いともされます。
この場合、使用されるなら、通常は天香語山尊です。

2つ目
物部と尾張の同根説の成立が
十千根のころとされた論拠をもう少し詳しく教えて頂けませんか
同時に、十千根のころに天孫とされたとされていますが
この根拠もお願いします。

3つ目
タケミカズチの剣を祀る石上神社の管轄の件は垂仁紀にあり
この件についてはわかりますが
しかし、何故、これが関係するのでしょうか?

4つ目
タケミカズチを祭祀していたということですか?
その根拠として、剣を祀ることが理由なのでしょうか?
タケミカズチですが
物部氏との関係は否定しませんが
尾張氏とはそれ程関係があるのでしょうか?

5つ目
神武と垂仁との間の年代は、それ程離れているのでしょうか
確か、菊池さんは、記紀の年代設定は正しい前提条件だったと思いますが
それなら、理解は出来るんのですけど
個人的には、それ程、年代が離れているとは思えないのですが…

以上、これらについての詳細と見解を教えて下さい。
もう少し、詳しい内容と意味合いを聞かないと全くわかりません。
申し訳ありませんが、ぜひ、お願いします。

[822] Re^2: 物部十千根 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/27(Fri) 10:26
>
> 数点疑問があります。
>
> 1つ目
> ここに高倉下が出てくる理由がわかりません。
> 高倉下の祖が天火明命という趣旨がわかりません。
> もしかすると
> 天香語山尊と高倉下が同一人物とされ
> これが尾張氏の祖とされることを言われているのでしょうか?
> しかし
> 高倉下はタギシミミと同一人物ともされます。
> 天香語山尊の子が高倉下ともされます。
> 全く、関係が無いともされます。
> この場合、使用されるなら、通常は天香語山尊です。

その通りなんですね。
神武東征時でてくる、天の香久山と「高倉下の剣」が頭の中からはなれなくて(苦笑)

おっしゃるとうり尾張氏の祖が天香久山です。
天香久山の祖が天火明命です。
一応、天香久山と高倉下は、同一か親子かどっちかだと思ってます。
神武紀に出てくる、天の香久山は、天香久山命が神武東征に協力したことを比喩したことだと考えてます。

2つ目
> 物部と尾張の同根説の成立が
> 十千根のころとされた論拠をもう少し詳しく教えて頂けませんか
> 同時に、十千根のころに天孫とされたとされていますが
> この根拠もお願いします。

尾張氏の祖天火明命と物部氏の祖ニギハヒ命が同一とされれば、同根とされ天孫系とされます。
ですが、垂仁紀の物部十千根まで、物部氏と石上神宮に祭られてる、高倉下に高天原から送られた剣が結びつく記載がないことが気になってました。
この頃、物部氏が天皇家から、天孫系に組み込むことを認められたからでは?
問題点は、高倉下が、果たして尾張氏の祖とされる天香久山命と結び付くかということですがね。

> 3つ目
> タケミカズチの剣を祀る石上神社の管轄の件は垂仁紀にあり
> この件についてはわかりますが
> しかし、何故、これが関係するのでしょうか?

タケミカズチは高天原から送り込まれたので、その剣と絆によって天孫系になったと考えてみました。(無理があるといえば無理があるこもしれませんが)

>
> 4つ目
> タケミカズチを祭祀していたということですか?
> その根拠として、剣を祀ることが理由なのでしょうか?
> タケミカズチですが
> 物部氏との関係は否定しませんが
> 尾張氏とはそれ程関係があるのでしょうか?

これは、個人的な推論で申し訳ありませんが、出雲の勢力は越、諏訪まで影響力があったと思ってます。タケミカズチが物部の勢力だけで出雲を降したとは思えませんので、尾張氏の協力があったと思ってます。まぁ、タケミナカタ命たどり着いた諏訪以西は、タケミカズチ命に従っていたんではと考えてます。
(重ね重ね、この辺は、推論の域で申し訳ありません)


>
> 5つ目
> 神武と垂仁との間の年代は、それ程離れているのでしょうか
> 確か、菊池さんは、記紀の年代設定は正しい前提条件だったと思いますが
> それなら、理解は出来るんのですけど
> 個人的には、それ程、年代が離れているとは思えないのですが…

そうでしたね。訂正します。
実は話は飛びますが、年代設定でみなさんの意見を聞いてるうちに、中国との国交が見られたとされる倭王讃以前の暦がはたして、どうなってたかということが気になってます。
ウガヤフキアエズ尊580年の謎もその辺りにあるのではと考え始めてる所でした。

自説の問題点は、高倉下と天香久山命との関係かと思います。
たまには、ご自身のホームページ覗いてみてもいいかと(笑)

[826] Re^3: 物部十千根 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/27(Fri) 20:03
> 尾張氏の祖天火明命と物部氏の祖ニギハヒ命が同一とされれば、同根とされ天孫系とされます。

これは成立しません。
両者とも天孫ではないという伝承もありますから

> ですが、垂仁紀の物部十千根まで、物部氏と石上神宮に祭られてる、高倉下に高天原から送られた剣が結びつく記載がないことが気になってました。
> この頃、物部氏が天皇家から、天孫系に組み込むことを認められたからでは?
> 問題点は、高倉下が、果たして尾張氏の祖とされる天香久山命と結び付くかということですがね。

降臨伝承のある氏族は天皇家と物部氏と出雲氏の三氏だけ
天孫として認めるも認められるも関係ないと思いますが

> タケミカズチは高天原から送り込まれたので、その剣と絆によって天孫系になったと考えてみました。(無理があるといえば無理があるこもしれませんが)

タケミカズチは天孫でしょうけど
彼の子孫だとすると、それは成立します。
菊池さんの主張されるのが、そうだとするとそれは正しいと思いますが
問題は物部・尾張の両氏をタケミカズチとどう繋げるかです。

> これは、個人的な推論で申し訳ありませんが、出雲の勢力は越、諏訪まで影響力があったと思ってます。タケミカズチが物部の勢力だけで出雲を降したとは思えませんので、尾張氏の協力があったと思ってます。まぁ、タケミナカタ命たどり着いた諏訪以西は、タケミカズチ命に従っていたんではと考えてます。
> (重ね重ね、この辺は、推論の域で申し訳ありません)

推論はかまいません。
今回はその推論の論拠がわからなかったので
確認したかったため質問しただけです。

> そうでしたね。訂正します。
> 実は話は飛びますが、年代設定でみなさんの意見を聞いてるうちに、中国との国交が見られたとされる倭王讃以前の暦がはたして、どうなってたかということが気になってます。
> ウガヤフキアエズ尊580年の謎もその辺りにあるのではと考え始めてる所でした。

意外と皆さん、年代にこだわりますね
こだわらない自分が異端なんだろうけど(爆)

> 自説の問題点は、高倉下と天香久山命との関係かと思います。
> たまには、ご自身のホームページ覗いてみてもいいかと(笑)

????
この意味わかりません。

「自説」とは

菊池さんの仮説なのか、あきんどの仮説なのか

「ご自身のほむぺ」とは

菊池さんがホムペを持っているという意味なのか?
あきんどのホムペを指しているのか?

「覗いてみてもいいかと」とは

菊池さんが自分のほむぺを見ていないという意味なのか
あきんどが自分のほむぺを見ていないという意味なのか

あきんどのホムペとすると
あきんどのほむぺの内容とあきんどの意見が違うという意味なのか

このあたりがわかりません
これですとレスが出来ないので補足お願いします。

[827] Re^4: 物部十千根 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/28(Sat) 21:39
> > 自説の問題点は、高倉下と天香久山命との関係かと思います。
> > たまには、ご自身のホームページ覗いてみてもいいかと(笑)
>
> ????
> この意味わかりません。

行間空けなかったのがまずかったです。
高倉下と天香具山命との関係は別問題です。

別のことであきんどさんの掲示版にも遊びにいってたもので。

[830] Re^5: 物部十千根 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/29(Sun) 20:55
> 行間空けなかったのがまずかったです。
> 高倉下と天香具山命との関係は別問題です。

了解です。

> 別のことであきんどさんの掲示版にも遊びにいってたもので。

掲示板ですか?
何と、管理人が放置しているところへ(^^;
ご来訪、どうもありがとうございます。

では、今度は
ほむぺの方も覗いて下さいね

[823] Re^3: 思考錯誤 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/27(Fri) 13:23
> > もしかすると
> > 天香語山尊と高倉下が同一人物とされ
> > これが尾張氏の祖とされることを言われているのでしょうか?
> > しかし
> > 高倉下はタギシミミと同一人物ともされます。
> > 天香語山尊の子が高倉下ともされます。
> > 全く、関係が無いともされます。
> > この場合、使用されるなら、通常は天香語山尊です。
>
> その通りなんですね。
> 神武東征時でてくる、天の香久山と「高倉下の剣」が頭の中からはなれなくて(苦笑)
>
> おっしゃるとうり尾張氏の祖が天香久山です。
> 天香久山の祖が天火明命です。
> 一応、天香久山と高倉下は、同一か親子かどっちかだと思ってます。

あきんどさんのご意見をうかがって、思考錯誤した結果、高倉下と天香山命は元々、関係ないんではと思えてきました。

なんでのかんでも、後代の後付けにしてるようで心苦しいんですが、天香山命と高倉下の関係の伝承は、物部、尾張氏等の後付けであると思います。
結局物部氏は、天火明命を、自分達の祖であるニギハヤヒ命とダブらすことにより、大和朝廷内での発言力を強めたのかと考えてます。
高倉下に送られたタケミカズチの剣と天香山命(尾張氏の祖)を後代に結び行けてしまったのかと。

元々の神話系譜が大分、有力豪族に改変されたのが、允恭天皇時ある程度、元に戻されたのが、天武天皇の絶対王政時、ほとんど元の形に戻されたんではないかと推察してます。

天火明命は、二二ギ尊の兄弟であり、有力支族にとって最高に都合の良い神だったのでは。

[824] Re^4: 思考錯誤 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/27(Fri) 17:48
開花の后である物部の姫、伊香色謎命から7代前がニギハヤヒ命。
神武1代後でほぼ同時代、
これは何を意味するのか。
物部の系譜が正しければ、私の欠史16代説が間違ってることを意味してます。
ここを御覧の皆様、大変申し訳ございません。
恐縮でございます。

以前、お話しした神武東征紀元前660年説は撤回します。(汗)

[825] Re^5: 思考錯誤 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/27(Fri) 19:48
> 開花の后である物部の姫、伊香色謎命から7代前がニギハヤヒ命。
> 神武1代後でほぼ同時代、
> これは何を意味するのか。
> 物部の系譜が正しければ、私の欠史16代説が間違ってることを意味してます。
> ここを御覧の皆様、大変申し訳ございません。
> 恐縮でございます。
> 以前、お話しした神武東征紀元前660年説は撤回します。(汗)

天孫本紀の物部氏系図が間違っているかもしれないのに
そんなに、簡単に撤回して良いのですか

尾張氏系図だと、皇統系譜とそれ程差異がない筈ですよ
試しに、検証してみて下さい。

ちなみに
皇統系譜と氏族系譜は
和邇氏系譜だと全く不一致
十市県主系譜とは一致

あと
面白いんですけど
長いスパンで比べると
皇統系譜と不一致氏族の系譜も世代数と年代はほぼ一致する。
各論不一致、総論一致という感じになっています。
この差異を各氏族系譜を相互に比較検証することで
謎解きの突破口にしようと努力はしているんですけど・・・ムズイ!!

[828] 尾張連について? 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/28(Sat) 21:59
物部と天皇家の系譜が、かなり世代一致してたのショックでした。

あと疑問点が一つ、天香山、高尾張、尾張連との関係どう考えてますでしょうか?
私は、共通してるんではないかと思ってますが。
尾張氏は、土着の勢力だったという人もいるそうです。
尾張連だけ、大和から地方に派遣された豪族だったっていうのがおかしいということをいってましたが?

だったら、なぜ、尾張連は天火明命という、ニニギ尊の兄弟という高貴な立場の子孫となってるのか。
神武紀では、大和の天香山は出てきますが、地方の尾張は出てきませんよね。
出てくるのは、高倉下のいる熊野ですし。

[829] Re: 尾張連について? 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/29(Sun) 20:51
> 物部と天皇家の系譜が、かなり世代一致してたのショックでした。


何を見て?

> あと疑問点が一つ、天香山、高尾張、尾張連との関係どう考えてますでしょうか?
> 私は、共通してるんではないかと思ってますが。
> 尾張氏は、土着の勢力だったという人もいるそうです。
> 尾張連だけ、大和から地方に派遣された豪族だったっていうのがおかしいということをいってましたが?

質問はもう少し整理して欲しいです

とりあえず
個人的見解では
尾張氏の祖は天香語山尊と認識しています。

次ぎに
尾張連という名は、後世になり賜った氏名(ウジメイ)です。
これは物部連と同じです。
よって、尾張氏と称される一族の尾張連以前の呼び名は
物部氏同様に不明です。

高尾張については、尾張氏の本願と認識しています。
これは尾張氏の初期の人々と葛城国造家との婚姻関係からも
間違い無いと思います。

その後、東海へ移動したと思っています。
尾張氏が土着したから尾張の国だと思っています。
但し
この移動の時期がわかりません。
天香語山尊の越遠征が史実とすると
ウマシマチ等のニギハヤヒ一族の移動時に土着したという可能性もあります。

ちなみに
海部氏勘注系図では丹波が本願になっています。
これも私見では
尾張等へ移動したグループの一部が丹波に土着した結果と認識しています。

> だったら、なぜ、尾張連は天火明命という、ニニギ尊の兄弟という高貴な立場の子孫となってるのか。
> 神武紀では、大和の天香山は出てきますが、地方の尾張は出てきませんよね。
> 出てくるのは、高倉下のいる熊野ですし。

熊野連の祖は、物部系という説と尾張系という説の2つあります。
まあ
どちらにしてもニギハヤヒ系なんですけど

記紀の記述はあくまでも皇統主体の歴史感です。
天香語山尊が登場しなくても問題はありません。

このあたりは文献や伝承等が相当に混乱している部分です。
いろいろな伝承があり
どれが真実か全くわかりません。

例えば
津島家等の系図では
天火明尊はホホデミの兄となっています。
この系図は尾張氏の系図と重複している部分もあるのですが
微妙に違います。

どれを主体にし、どの伝承を選択し、どのように捉えるかで
主張する仮説が変化する訳です。

よって、ある程度の確固とした仮説を作るには
前後の繋がりによる連続性で推理するしかなく
相当に難解であると思われます。

[835] Re^2: 尾張連について? 投稿者:hn2602 投稿日:03/07/02(Wed) 20:38

> とりあえず
> 個人的見解では
> 尾張氏の祖は天香語山尊と認識しています。

天香語山尊は「あまのかごやまのみこと」と読むのでしょうか?「あめ(あま)のかぐやまのみこと」の読みは成立するのでしょうか?
あと、「かぐつち」(迦具土)との関係はどうお考えでしょうか?
(また最近、トンデモ説の種を見つけましたので、孵化の可能性を9検討しようかとおもっていますので、よろしければご教示お願いします。)

>
> 次ぎに
> 尾張連という名は、後世になり賜った氏名(ウジメイ)です。
> これは物部連と同じです。
> よって、尾張氏と称される一族の尾張連以前の呼び名は
> 物部氏同様に不明です。
>
> 高尾張については、尾張氏の本願と認識しています。
> これは尾張氏の初期の人々と葛城国造家との婚姻関係からも
> 間違い無いと思います。
>
> その後、東海へ移動したと思っています。
> 尾張氏が土着したから尾張の国だと思っています。

私も同じように思っていますが、神武東征の前か後か、まだ迷っています(私は日本の統一政権の存在を古く考えたいバイアスがかかっていますので、前かなと思いつつあるところです)。

> 但し
> この移動の時期がわかりません。
> 天香語山尊の越遠征が史実とすると
> ウマシマチ等のニギハヤヒ一族の移動時に土着したという可能性もあります。
>
> ちなみに
> 海部氏勘注系図では丹波が本願になっています。
> これも私見では
> 尾張等へ移動したグループの一部が丹波に土着した結果と認識しています。
>
> > だったら、なぜ、尾張連は天火明命という、ニニギ尊の兄弟という高貴な立場の子孫となってるのか。
> > 神武紀では、大和の天香山は出てきますが、地方の尾張は出てきませんよね。
> > 出てくるのは、高倉下のいる熊野ですし。
>
> 熊野連の祖は、物部系という説と尾張系という説の2つあります。
> まあ
> どちらにしてもニギハヤヒ系なんですけど
>
> 記紀の記述はあくまでも皇統主体の歴史感です。
> 天香語山尊が登場しなくても問題はありません。
>
> このあたりは文献や伝承等が相当に混乱している部分です。
> いろいろな伝承があり
> どれが真実か全くわかりません。
>
> 例えば
> 津島家等の系図では
> 天火明尊はホホデミの兄となっています。
> この系図は尾張氏の系図と重複している部分もあるのですが
> 微妙に違います。
>
> どれを主体にし、どの伝承を選択し、どのように捉えるかで
> 主張する仮説が変化する訳です。
>
> よって、ある程度の確固とした仮説を作るには
> 前後の繋がりによる連続性で推理するしかなく
> 相当に難解であると思われます。

書記のどれかの一書のストーリーを中心に組み立てないとめちゃくちゃ混乱しそうなので、放置いていた問題なのですが、やはり「物部氏」「尾張氏」を抜きにして建国史を組み立てるわけにも行かないので、いろいろ考えていますが、すっきりしません。特に、年代の組み立てが難しいので、いっそ菊池さんの欠史16代説に乗ろうかと・・・。

[836] Re^3: 尾張連について? 投稿者:あきんど 投稿日:03/07/03(Thu) 01:06
> 天香語山尊は「あまのかごやまのみこと」と読むのでしょうか?「あめ(あま)のかぐやまのみこと」の読みは成立するのでしょうか?

「天」は「あま」です。「あめ」とは読みませんね
個人的には、頭「天」は何か意味があると思っているんですので
「あめ」でも、「あま」でも良いと思ってはいますが

「かごやま」と「かぐやま」はどちらでも良いと思います。
これに関しては両方使われています。
そもそも
天香語山尊という字もいろいろありますから

ちなみに
天香語山尊は1人の人物ではありません。
尾張氏祖の天香語山尊の子とされる天村雲尊も天香語山尊と称しています。
しかしながら、世襲名でも無いようです。

> あと、「かぐつち」(迦具土)との関係はどうお考えでしょうか?

この件は保留ですが
どちらかといいますと否定的な立場です。

> (また最近、トンデモ説の種を見つけましたので、孵化の可能性を9検討しようかとおもっていますので、よろしければご教示お願いします。)

内容がわからないとコメントのしようがありません(^^;

> 私も同じように思っていますが、神武東征の前か後か、まだ迷っています(私は日本の統一政権の存在を古く考えたいバイアスがかかっていますので、前かなと思いつつあるところです)。

自分の場合、基本的には
物部・尾張のニギハヤヒ一族の移動は神武以降と考えています。
但し
神武にあたる人物を1人と想定していません。
神武のモデルになった人物を複数想定しています。
よって
神武以前の移動でも成立することにはなります。

> 書記のどれかの一書のストーリーを中心に組み立てないとめちゃくちゃ混乱しそうなので、放置いていた問題なのですが、やはり「物部氏」「尾張氏」を抜きにして建国史を組み立てるわけにも行かないので、いろいろ考えていますが、すっきりしません。特に、年代の組み立てが難しいので、いっそ菊池さんの欠史16代説に乗ろうかと・・・。

自分の場合は
記紀は多くの史料の1つとしか見ていません。
単なるパズルのパーツの1つと思っています。
しかし
パーツの組み合わせ次第と、物部・尾張に対する認識によっては
この両氏を無視した建国史は想定可能だと思います。

[837] Re^4: 尾張連について? 投稿者:hn2602 投稿日:03/07/03(Thu) 22:41
> ちなみに
> 天香語山尊は1人の人物ではありません。

これについては、例えば同一系図内に、同名の「かぐやま(かごやま)」が、存在するものがあるのでしょうか?

> 尾張氏祖の天香語山尊の子とされる天村雲尊も天香語山尊と称しています。
> しかしながら、世襲名でも無いようです。
>
> > あと、「かぐつち」(迦具土)との関係はどうお考えでしょうか?
>
> この件は保留ですが
> どちらかといいますと否定的な立場です。

「かぐつち」「かぐやま」の共通部分の「かぐ」が、「耀く」の意味で、「火」の属性を表わす言葉と解釈できるか、特に「かごやま」「かぐやま」の「かぐ」が気になったので、確認したかったのです。


> > (また最近、トンデモ説の種を見つけましたので、孵化の可能性を9検討しようかとおもっていますので、よろしければご教示お願いします。)
>
> 内容がわからないとコメントのしようがありません(^^;

「ホアカリ」を「ほ(火)あか(赤、朱)り(一人、二人の《り》?、高句麗の《麗》?卑離国の《離》?)」、「カグヤマ」を「かぐ(耀く)やま(山?耶麻?)」と解釈して、北方系民族の五部とこじつけて、ホアカリの子孫の尾張氏や物部氏の祖が、天孫族の先発隊として、大和に移住した可能性を考えたのですが。


> 自分の場合、基本的には
> 物部・尾張のニギハヤヒ一族の移動は神武以降と考えています。
> 但し
> 神武にあたる人物を1人と想定していません。
> 神武のモデルになった人物を複数想定しています。
> よって
> 神武以前の移動でも成立することにはなります。

私は基本的には、史料の改訂はせず、解釈したいと考えているのですが、さすがに神武天皇あたりでは、「ミケヌ」と「ワカミケヌ」は兄弟ではなく「親子」ないし同世代でなく二世代に解した方が良いように思え、迷っています。

> > 書記のどれかの一書のストーリーを中心に組み立てないとめちゃくちゃ混乱しそうなので、放置いていた問題なのですが、やはり「物部氏」「尾張氏」を抜きにして建国史を組み立てるわけにも行かないので、いろいろ考えていますが、すっきりしません。特に、年代の組み立てが難しいので、いっそ菊池さんの欠史16代説に乗ろうかと・・・。
>
> 自分の場合は
> 記紀は多くの史料の1つとしか見ていません。
> 単なるパズルのパーツの1つと思っています。

古史古伝の類には、近寄らぬよう用心しているので、それ以外の史料が余り浮かび上がらないのです。ただこの間「先代旧事本紀」訓注(大野七三校訂編集、批評社)を買い込みましたが、まだ全然呼んでいません。

> しかし
> パーツの組み合わせ次第と、物部・尾張に対する認識によっては
> この両氏を無視した建国史は想定可能だと思います。

可能かも知れませんが、ウソっぽくなりそうな気がして・・・。トンデモ説にしてもせめてpossibleのレヴェルにしておきたいと思うので。

[838] Re^5: 尾張連について? 投稿者:あきんど 投稿日:03/07/05(Sat) 20:18
> これについては、例えば同一系図内に、同名の「かぐやま(かごやま)」が、存在するものがあるのでしょうか?

海部氏勘注系図です。

> 「かぐつち」「かぐやま」の共通部分の「かぐ」が、「耀く」の意味で、「火」の属性を表わす言葉と解釈できるか、特に「かごやま」「かぐやま」の「かぐ」が気になったので、確認したかったのです。

う〜ん
よくわかりません。

> 「ホアカリ」を「ほ(火)あか(赤、朱)り(一人、二人の《り》?、高句麗の《麗》?卑離国の《離》?)」、「カグヤマ」を「かぐ(耀く)やま(山?耶麻?)」と解釈して、北方系民族の五部とこじつけて、ホアカリの子孫の尾張氏や物部氏の祖が、天孫族の先発隊として、大和に移住した可能性を考えたのですが。

なんか、無理やりというか
本当に、こじ付けっぽいですね
まあ、瓢箪からコマという言葉もあります
どんどんやって見てください。

> 私は基本的には、史料の改訂はせず、解釈したいと考えているのですが、さすがに神武天皇あたりでは、「ミケヌ」と「ワカミケヌ」は兄弟ではなく「親子」ないし同世代でなく二世代に解した方が良いように思え、迷っています。

何度も言ってますけど
別に、こだわらなくても良いと思いますけど
史料の改訂であろうと、解釈であろうとです。

仮に、その自説が絶対に正しいと主張されるなら
徹底的に批判しますが
それ以外なら問題は無いというのが自分のスタンスです。

ある1つの仮説にこだわり、それに適合しないものは全て排除するという
スタンスは採りたくありません。
よって、
自分の場合、上記のようなパターンならば
基本的に兄弟説と親子説の両方を並列して仮説として残します。
無理して排除して、自縛に陥りたくないですから

> 古史古伝の類には、近寄らぬよう用心しているので、それ以外の史料が余り浮かび上がらないのです。ただこの間「先代旧事本紀」訓注(大野七三校訂編集、批評社)を買い込みましたが、まだ全然呼んでいません。

申し訳ありませんが
この用心するというスタンスが自分には理解できません。

現在、巷に溢れている書籍とどう違うかわかりかねます。

また、古史古伝を排除されていますけど
それ以外の史料も自分から見れば所詮は五十歩百歩という気がするのですが
その史料に書かれていることを全て是として真に受けるのは問題がありますが
そのような伝えもあるということは知っていても損は無いと思います。

> 可能かも知れませんが、ウソっぽくなりそうな気がして・・・。トンデモ説にしてもせめてpossibleのレヴェルにしておきたいと思うので。

それこそ固定概念にとらわれ過ぎていると思います。
そもそも
物部・尾張氏は新興豪族という仮説もあることあるんです。
古い伝承は全てでっち上げという仮説もあります。
これはそれなりに根拠がある仮説ですから無視できません。
ちなみに
個人的には否定的な立場ですが
その可能性を排除する気は毛頭ありません。

[839] Re^6: 尾張連について? 投稿者:hn2602 投稿日:03/07/05(Sat) 21:34
> > 「ホアカリ」を「ほ(火)あか(赤、朱)り(一人、二人の《り》?、高句麗の《麗》?卑離国の《離》?)」、「カグヤマ」を「かぐ(耀く)やま(山?耶麻?)」と解釈して、北方系民族の五部とこじつけて、ホアカリの子孫の尾張氏や物部氏の祖が、天孫族の先発隊として、大和に移住した可能性を考えたのですが。
>
> なんか、無理やりというか
> 本当に、こじ付けっぽいですね

勿論、こじつけです。ただ、「倭人」北方起源説を採る場合の、日本の国家形成までのおおまかな流れの中で、いろいろシミュレートしている中の一つです。

> まあ、瓢箪からコマという言葉もあります
> どんどんやって見てください。

正直、無理っぽいので捨てていた(というより放置していた)のですが、Minnstrelさんの掲示板で、竹田さんの紹介した古田武彦氏の「前つ君」の解釈(前原の王?)を見て、まへつきみ=(五部ぼ)前部の首領・首長説を思い出したので、塵を払って蔵出ししてみたのですが、矢張り無理筋ですね。まあ次いでですので、前部=南部=(五色の)赤・朱=(五行の)火、で、天孫族の「前部集団」が、近畿大和に乗り込んだのが、「ホ(火)アカ(赤)り(人?族?)」と「カグ(輝く)ヤマ(この解釈にもひっかかっている部分があるのですが)」で、「前」「南」「下」といった五部で高句麗や百済にありそうな言葉がないのを、「火」と「赤・朱」で代用できるかの検討をして見ます(前に諦めましたが「赤」については考えたのですが、「火」については考えていなかったので)。

>
> > 私は基本的には、史料の改訂はせず、解釈したいと考えているのですが、さすがに神武天皇あたりでは、「ミケヌ」と「ワカミケヌ」は兄弟ではなく「親子」ないし同世代でなく二世代に解した方が良いように思え、迷っています。
>
> 何度も言ってますけど
> 別に、こだわらなくても良いと思いますけど
> 史料の改訂であろうと、解釈であろうとです。

これを許すと、私の本来のSF好きの性格からして、大トンデモ説に行くこと必定ですので、自制しているのです。

> 仮に、その自説が絶対に正しいと主張されるなら
> 徹底的に批判しますが
> それ以外なら問題は無いというのが自分のスタンスです。

トンデモ説を盲信してしまうと、一切の批判を受け付けなくなり、ただただ自説を宣伝するだけになる末路が見えてくるので。

> ある1つの仮説にこだわり、それに適合しないものは全て排除するという
> スタンスは採りたくありません。

その点は私もそうしている(奏したいと思っている)つもりですが、どこかで「可能性」の高さについての「判断」を付ける必要があります。

> よって、
> 自分の場合、上記のようなパターンならば
> 基本的に兄弟説と親子説の両方を並列して仮説として残します。
> 無理して排除して、自縛に陥りたくないですから

ある程度の制限をしないと、「何でもあり」の世界になるので、自分で判断できない「文献」「言語」「考古学」などの分野については、一定の権威に従うか、基準を設けて埒を越えないようにしています(といっても雲の如く妄想・妄説が湧いてきますが)。

> > 古史古伝の類には、近寄らぬよう用心しているので、それ以外の史料が余り浮かび上がらないのです。ただこの間「先代旧事本紀」訓注(大野七三校訂編集、批評社)を買い込みましたが、まだ全然呼んでいません。
>
> 申し訳ありませんが
> この用心するというスタンスが自分には理解できません。
>
> 現在、巷に溢れている書籍とどう違うかわかりかねます。

う〜ん、まあ人の妄想に付き合わなくても、あきんどさんの仰るように、いつのまにか(鹿島氏??のような)似たような説に足を踏み入れることになるようなので。

> また、古史古伝を排除されていますけど
> それ以外の史料も自分から見れば所詮は五十歩百歩という気がするのですが
> その史料に書かれていることを全て是として真に受けるのは問題がありますが
> そのような伝えもあるということは知っていても損は無いと思います。

まだそのような「ゆとり」がないということでしょうか・・・。

> > 可能かも知れませんが、ウソっぽくなりそうな気がして・・・。トンデモ説にしてもせめてpossibleのレヴェルにしておきたいと思うので。
>
> それこそ固定概念にとらわれ過ぎていると思います。
> そもそも
> 物部・尾張氏は新興豪族という仮説もあることあるんです。
> 古い伝承は全てでっち上げという仮説もあります。
> これはそれなりに根拠がある仮説ですから無視できません。
> ちなみに
> 個人的には否定的な立場ですが
> その可能性を排除する気は毛頭ありません。

実はこれは、臨床医学の分野では、良く「疾病」の鑑別診断に使用される分類(クラス分け)なのです。仮説のレヴェルがどの段階かを絶えずチェックするのに便利ですので。
例えば、慢性関節リウマチ(RA)だと、昔のARAの診断基準では、
@clasical RA、Adefinite RA、Bprobable RA、Cposiible RA、といった具合に診断し、@〜BはRA、CはRAの可能性は否定できないが、違う可能性が高いというものです。学会などで、発表する人によって診断基準が異なれば、議論自体無意味なことになりかねないので、ある意味、便宜的な基準ですが、客観性を担保する一つの指標になるので、自分なりに思いつきを分類しています。

[840] Re^7: 尾張連について? 投稿者:あきんど 投稿日:03/07/06(Sun) 01:32
> トンデモ説を盲信してしまうと、一切の批判を受け付けなくなり、ただただ自説を宣伝するだけになる末路が見えてくるので。

え〜とこれはですね
徹底的にあらゆるとんでも説を漁ることで解決できます。
1つ、或いは少数の仮説だけで仮説を構築するからそうなるんですよ
無意識に型を作り、それ以外は排除という形になります。
その型が出来る前に
あらゆるものを漁る
これが良いと思います。
個人的には、記紀だけで仮説を作るのも
これと同じことだと思っています。
どんなに権威がある仮説でも長所と短所があります。
完璧な仮説なんて所詮作れないんですから

> その点は私もそうしている(奏したいと思っている)つもりですが、どこかで「可能性」の高さについての「判断」を付ける必要があります。

この可能性の高さという敷居は誰が決めるか
みんなの持っている「ものさし」は違います。
A氏はこれは可能性が低いと排除したモノでも
B氏は可能性が高いと判断する場合もあります。

幾らその人物が偉い人であっても
他人の意見を全て受け入れるというのは良いと思いません。
どっかの偉い先生が主張しているから妄信的にそれは正しいという
認識はとんでもないことだと思っています。
大学の教授達と論戦するとわかりますが
意外と上っ面だけで詳細に細部を検証しないで評価して
それについて発言している人が多く見られます。
これは日本の大学の致命的欠点です。

> ある程度の制限をしないと、「何でもあり」の世界になるので、自分で判断できない「文献」「言語」「考古学」などの分野については、一定の権威に従うか、基準を設けて埒を越えないようにしています(といっても雲の如く妄想・妄説が湧いてきますが)。

制限は必要です。自分も排他するものは排他します。
というより、実際は、排他する方が多いですね

[841] Re^8: 尾張連について? 投稿者:あきんど 投稿日:03/07/06(Sun) 01:40
> > ある程度の制限をしないと、「何でもあり」の世界になるので、自分で判断できない「文献」「言語」「考古学」などの分野については、一定の権威に従うか、基準を設けて埒を越えないようにしています(といっても雲の如く妄想・妄説が湧いてきますが)。

この権威自体が所詮は、あてにならないものです。
一定の権威なんて糞くらえというのが自分の実感です。
確かに、一定の基準を設けるのは必要なのですが
この基準も気をつけないと型に変質してしまいます。
また
一般に定説とされるモノも現時点での最良なものでしかなく
この定説自体が陳腐化しているモノなんてゴマンとあります。
そして、定説も所詮は偉い先生の妄想の産物です。

[842] Re^9: 尾張連について? 投稿者:hn2602 投稿日:03/07/06(Sun) 12:44

> この権威自体が所詮は、あてにならないものです。
> 一定の権威なんて糞くらえというのが自分の実感です。
> 確かに、一定の基準を設けるのは必要なのですが
> この基準も気をつけないと型に変質してしまいます。
> また
> 一般に定説とされるモノも現時点での最良なものでしかなく
> この定説自体が陳腐化しているモノなんてゴマンとあります。
> そして、定説も所詮は偉い先生の妄想の産物です。

同感ですが、おかしいという感じを覚えたら、それなりに割り引いて判断しますが、それまでは何らかの定点がないと、シミュレーション自体成立しないので。
それにしても「定説も偉い先生の妄想」と断言されるとは、凄いですね。私は自分の専門に近くない分野は専門家の意見を重視しますが、あるいは自然科学系の研究分野と異なり、人文・社会科学系の研究自体、まだ研究法その他に客観性・再現性などの点で、私の考えている以上に、問題点が多々存在するということなのでしょうか?

[834] Re^2: 尾張連について? 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/07/01(Tue) 09:02
> > 物部と天皇家の系譜が、かなり世代一致してたのショックでした。
>
> ?
> 何を見て?

近藤敏喬編「古代豪族系図集覧」の
ニギハヤヒ命と神武が伊香色謎命から数えて1代違う所だけですけどね。
成務辺りと整合性あってないと観じてますが。

[832] Re^2: 尾張連について? 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/30(Mon) 08:33
いやいやこれはどうも。尾張連については、私と全くの同感でした。

熊野、尾張、大和この辺の出自や前後関係。複雑奇怪ですね。
質問が整理されてなく、わかりずらくなって申し訳ないと思ってます。
時期、ホームページをじっくりと堪能したいと思ってます。
私、長文は飛ばしぎみですので。(苦笑)

ありがとうございました。

[815] 物部族と石 投稿者:SM 投稿日:03/06/25(Wed) 23:00 <URL>
> 宇摩志麻治尊の系統が本家というのは
> 彼には、味饒田命と彦湯支命の2人の息子がいます。
>
> 長男の味饒田命が父の名跡を継ぎ、石見に土着
> 次男の彦湯支命は父の軍団を受継ぎ、これを率いて、大和に入り
> 内物部として、天皇家に仕える。

物部族は、石見、天磐船、岩船、石上神社、石切神社などと石に関係が深いようです。

山口県大島郡大島町小松在住の平津幸男氏92歳の方が、物部族は石と関係が深く、物部氏族の神社は、元々、磐か山であって、天孫族天皇になってはじめて木造の神社が作られたと言っています。

三輪山の大神神社、石上神社がそうでした。

その後も、古墳、そして、後代に城造りなどで、石屋として石建築をやったのは物部族と関係があったのではないかと思います。

いかがでしょうか。

ヨーロッパでも、石建築を専門にやったのは、メーソンであったようです。

[814] Re: 物部族と石 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/25(Wed) 21:02
> ヨーロッパでも、石建築を専門にやたのは、メーソンであったようです。

何を聞きたいのでしょうか?

[816] Re^2: 物部族と石 投稿者:SM 投稿日:03/06/25(Wed) 23:04 <URL>
> > ヨーロッパでも、石建築を専門にやったのは、メーソンであったようです。
>
> 何を聞きたいのでしょうか?

物部族は石と関係が深かったのではないかということを聞きたいのです。

[819] Re^3: 物部族と石 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/26(Thu) 22:03
>物部族は石と関係が深かったのではないかということを聞きたいのです。

全くわかりません。

申し訳ありませんが
そうとしか答えられません。

この件につきましては
自信を持って、支持できる仮説がありませんし
個人的仮説も所持していません。

個人的意見では、関係があるとは思えません。
全く別のモノと物部氏とを混合されている気がします。
それぞれの成立年代を無視されていませんか?
単に、同一の場所であるだけであり
その成立年代も違います。
磐船等は、確かに関連すると思いますが
多くのモノは関係が無いのではと思われます。

しかし、メーソンとは(^^;

[808] 宇摩志麻治尊の征伐伝承 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/16(Mon) 00:06
各地に残る宇摩志麻治尊の征伐伝承によりますと
宇摩志麻治尊は一族を率いて、まず、尾張とに入ります。

そこから、2つの伝承に分かれ
尾張から東海を征伐、更に、陸奥までを征伐し、最後に石見という伝承と
尾張から美濃へ入り、越までを征伐し、播磨、丹波を経て石見という伝承
になります。

1つ目は、東海道から陸奥、そして、石見
かなり、飛んでいます。尾張から東海地方の征服はわかりますが
いきなり、陸奥、更に、石見です。
東海道から陸奥へは、恐らく海路と思われますが
日本武尊とよく似た経路です。

2つ目は、尾張から美濃、そして、越へ、そして、北陸道を通り、越奥地へ
こちらの方が自然です。
但し、越への侵入は、宇摩志麻治尊は手前までと推定され
奥地への侵入は、天香語山尊単独と思われます。
越の征服を兄に任せて、彼は丹波、石見へ向ったものと思われます。

両者とも尾張が共通項です。

物部氏の勢力が東海道一帯に強いことから
この時が、物部氏勢力の扶植の始まりと思えますが
年代を推測するに
神武の御代というより、崇神の御代のような気がします。
つまり、征伐地域の類似性から四道将軍のことではないかと思えます。

[809] Re: 宇摩志麻治尊の征伐伝承 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/16(Mon) 12:33
> 日本武尊とよく似た経路です。

主役の名前の違う複数の東国征伐伝承が確かにあったということですね。゜

> 両者とも尾張が共通項です。

尾張ですか、大きなポイントの一つでもありますね。
継体天皇の擁立にも深く関わってくるとちですし。。。。

> 神武の御代というより、崇神の御代のような気がします。

この年代は数値では何年くらいのものとお考えでしょうか?

> つまり、征伐地域の類似性から四道将軍のことではないかと思えます。

四道将軍!!!

数度の征伐を景行天皇やヤマトタケルや四道将軍、宇摩志麻遅などに仮託したという説もありますが、逆に一回の東西国征伐をいろんな名前で伝承したっていうこともあるかもしれないと思ったりしました。

[811] Re^2: 宇摩志麻治尊の征伐伝承 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/17(Tue) 18:19
> 主役の名前の違う複数の東国征伐伝承が確かにあったということですね。゜

しかし、この場合は、征伐というより、開拓のような気もします。
天香語山尊の越定住、宇摩志麻治尊の石見定住など
各地に土着定住しているようですから、定住地移動の要素が強いかも

> 尾張ですか、大きなポイントの一つでもありますね。
> 継体天皇の擁立にも深く関わってくるとちですし。。。。

継体の支持勢力のひとつに物部系・尾張系の両氏族がいますからね
どう繋がってくるのか?

> この年代は数値では何年くらいのものとお考えでしょうか?

実は、このあたりの検証では
年代はそれほど重要視していないんです(^^;

単に、系譜と内容等の相互の繋がりだけで推理した場合
このようになるというだけです。

神武は何時の人かとか、崇神は西暦に直すと何年かは想定外です。

> 四道将軍!!!
> 数度の征伐を景行天皇やヤマトタケルや四道将軍、宇摩志麻遅などに仮託したという説もありますが、逆に一回の東西国征伐をいろんな名前で伝承したっていうこともあるかもしれないと思ったりしました。

各地の征伐活動に物部一門が従軍していたとすると
この物部一門全ての活動を1つの人物に擬したものが
宇摩志麻遅の征伐伝承かもしれません。

[833] 持統天皇 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/30(Mon) 14:55
素朴な思いつきですみませんが、
持統天皇の和風贈号
高天原広野姫天皇
この「高天原」という所、なぜか非常に気になります。
記の編纂時期でもあったと思われますが
ここに高天原解釈の謎が秘められてるかも知れませんね。

[791] 三輪の神>あきんどさんへ 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/12(Thu) 19:16
スレッドを変更しました。

> 三輪の神はもっと古いものです。
> の合祀のために同一神とされる場合もありますが
> 三輪の神自体は、もともとは別の神です。

以前聞きそびれたのですが、「別の神」というのはどういったものを想定しておられる、または掴んでおられるのですか?

おしえてください。とても興味があります。

[728] 物部氏のルーツとは? 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/06(Fri) 19:10
> 神話的には、高天原か ?

神武と同族ということですから、神武を高天原と理解するならそうなります。

> 家系的には、出雲族なのか ?

ニギハヤヒのですね?

女系相続を古代の一般的な相続方法と仮定すれば組織的家系としては嫁の出自であるナガスネヒコの家系となりますから、ナガスネヒコを出雲と勝手に決め付けてしまえばそうなります。が決め付けられない場合は違うということしかわかりません。

> 歴史的には、筑紫か、石見か ?

歴史的といいますと?

あきんどさんがおっしゃってるように文献的な石見と物部の関係はニギハヤヒ以降になりますので、ルーツとは関係ないでしょう。

筑紫と物部の関係というと、何かありますか?
私は全く思いつかないので、何かご存知でしたら教えてください。

> 石上神社の神は出雲の布都御魂だし。

フツノミタマは出雲が起源なのですか?
これもどういうことかよく解からないので教えてください。

タケミカヅチがこれをもって国を平定させたのという剣ですよね?

[732] 一つの可能性:太陽族二派 投稿者:SM 投稿日:03/06/07(Sat) 02:08 <URL>
> 筑紫と物部の関係というと、何かありますか?

太陽族のニギハヤ派とニニギ派は、元は筑紫において、一つのグループであったか、二つのライバル・グループであったかは兎も角として、共に太陽信仰をもっていたのでしょう。

この一つのグループは、日本海沿岸に進んで、出雲族と出会い、太陽・出雲派物部族を形成し、何らかのルートで難波・河内・生駒山に着き、ニギハヤ派物部族となったのでしょう。

他の一つのグループは、九州南西部に進み、霧島山脈・日向・高千穂において、高天原族と出会って、ニニギ派高天原・天孫族を形成し、ニニギが山のボスの娘、花咲姫を嫁にして、山幸の子と海幸の子を生み、山幸の子が指導権を握り、山幸の子に生まれた神武が東征したのでしょう。

難波・河内・生駒山に着いたニギハヤ派物部族は武器は持っていましたが、ここでは、武器を使わず、先住民のアベ、そして、ナガスネと結婚の縁を結んで、定着したのでしょう。

そこで、ニニギ派神武軍がここに攻めて来た時には、ニギハヤ派物部族は、ナガスネに義理をたてて、一緒に戦い、ニニギ派神武軍を敗退させました。ニニギ派神武軍が紀伊から熊野に入った時にも、ニギハヤ派物部族は、ナガスネと一緒に戦い、神武軍を苦戦させましたが、この中で、ニギハヤ派物部族に、ニニギ派神武軍に布津御魂の剣を譲って、ニニギ派神武軍に従うようにとの天命がくだり、ニギハヤ派物部族はその天命を受けて、ナガスネを刺し殺し、布津御魂の剣と十種神宝を、ニニギ神武軍に献上し、石上神社に奉納して、ここを武器庫として、大和政権軍部となったのではないでしょうか。

ニギハヤ派物部族は、難波、河内、生駒山に着く前に、布津御魂の剣を、スサノオが納めた吉備において、手に入れていましたが、難波、河内、生駒山では、縁組の平和戦術をとって、それを使いませんでした。
しかし、熊野では、高天原の天命が下って、ニギハヤ派物部族は、ナガスネを刺し殺し、布津御魂の剣をニニギ派神武に献上して、大和政権の軍事最高指揮権をニニギ派神武に譲渡した可能性が成り立つと思います。

[733] Re:太陽信仰 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/07(Sat) 13:05
太陽信仰というと、具体的にどういったものをお考えなのでしょうか?

私としては、蛇信仰も太陽信仰も普遍的というか、天孫と物部氏だけのものではなく、また氏族レベルの問題でさえなく汎東アジアひいては世界中にある信仰形態であって、これを物部・天孫組とその他の集団とを峻別する材料にはなり得ないと理解しています。

従って、太陽族とか蛇族とかいうモノの見方はナンセンスだと理解しています。

ですから、蛇族・太陽族という括りを使わずに、普通に、出雲族・天孫族・物部族(または物部天孫族)という括りでお話していただいたほうが、私としてはしっくりするのですが・・・・・・・・。

> > 筑紫と物部の関係というと、何かありますか?
>
> 太陽族のニギハヤ派とニニギ派は、元は筑紫において、一つのグループであったか、二つのライバル・グループであったかは兎も角として、共に太陽信仰をもっていたのでしょう。

> この一つのグループは、日本海沿岸に進んで、出雲族と出会い、
>太陽・出雲派物部族を形成し、

出雲派?
物部に関してはイメージ的には、出雲派はやり過ごしてその先にある丹後派という感じを持っています。

>何らかのルートで難波・河内・生駒山に着き、ニギハヤ派物部族となったのでしょう。

琵琶湖を北から渡り、その南の巨椋池を越え、淀水系、大和川水系へと出たのではないかと思っています。そして丹後に居座った物部族は難波へ出て池上遺跡(大阪にある弥生時代の遺跡)を構成する部族とと交易することによって、生駒山系の反対側に位置するヤマト盆地へと入植をはじめたのではないかと思っています。

> 他の一つのグループは、九州南西部に進み、霧島山脈・日向・高千穂において、高天原族と出会って、ニニギ派高天原・天孫族を形成し、ニニギが山のボスの娘、花咲姫を嫁にして、山幸の子と海幸の子を生み、山幸の子が指導権を握り、山幸の子に生まれた神武が東征したのでしょう。

なるほど、高天原というのを九州島西南部に考えておられるわけですね?
で、物部は高天原に比定されるべき勢力が形成される以前に分派していた集団だということですか。。。で、この後は神話の通りだということですか。

まあこの辺りは神話解釈の話なのでどうとも解釈できます。

天孫側からみれば、「オオヤマツミの娘を娶った」ということに成りますが、オオヤマツミの側から見れば、「天孫がわからニニギを婿として奉げられた」となります。

オオヤマツミ(「山の神」といえば女性のことですよね?)側を主役にこの神話を読み解くと、長女であるイワナガヒメをニニギは返したことになっていますが、

『天孫側は女系集団の長としてイワナガヒメが持っていた相続権を奪い取ろうとしたのだが、相続権のないコノハナサクヤヒメを押しつけられた。その上、コノハナサクヤヒメは既に身ごもっていた可能性さえ高い。結果として、ニニギはオオヤマツミ勢力を支配下に収めることに失敗した。それが花の命ははかないという神話にかくされている。』

となり、この神話の表す上下関係は一変してしまいます。女性側に拒否権がないと考えるのは一方的な話だと思いますので(^^ゞ

> 難波・河内・生駒山に着いたニギハヤ派物部族は武器は持っていましたが、ここでは、武器を使わず、先住民のアベ、そして、ナガスネと結婚の縁を結んで、定着したのでしょう。

こちらは、成功したということですね。とりあえずナガスネの族する集団の相続権のあると思われる女性を手に入れてます。

> そこで、ニニギ派神武軍がここに攻めて来た時には、

これって攻めてきたのでしょうかね?
頼ってきたという可能性はないのでしょうか?

>ニギハヤ派物部族は、ナガスネに義理をたてて、一緒に戦い、ニニギ派神武軍を敗退させました。

義理を立てたのではなく、ニギハヤヒらはナガスネヒコら在地勢力の主たる者達に逆らえなかったのではないですか?

>ニニギ派神武軍が紀伊から熊野に入った時にも、ニギハヤ派物部族は、ナガスネと一緒に戦い、神武軍を苦戦させましたが、

ここらで、槍働きはさせられても、ニギハヤヒの子には相続権が与えられないことが確定したんでしょう。で、ニギハヤヒの子はナガスネヒコらを裏切る機会を模索していた。

>この中で、ニギハヤ派物部族に、ニニギ派神武軍に布津御魂の剣を譲って、ニニギ派神武軍に従うようにとの天命がくだり、ニギハヤ派物部族はその天命を受けて、ナガスネを刺し殺し

実際のところ天命など降るはずはありませんから、やはり単純に裏切ったということでしょう。

この話も古事記にはあるけれど日本書紀にはありません。

そんなこともよりのもこの辺りの話で注目しなくてはいけないのは、『事代主』なんですよね。突然出雲の大国主の子とされる神が表れて、その子孫までヤマト盆地にいることになってその子イスケヨリヒメに神武は婿として迎えられるわけです。

どうして、ニギハヤヒやその子に縁のある女性と婚姻を結ばなかったのか?

その上ナカガスネを殺した最高殊勲ともいうべきウマシマチやタカクラジは神武の周辺から姿を消す。

>布津御魂の剣と十種神宝を、ニニギ神武軍に献上し、石上神社に奉納して、ここを武器庫として、大和政権軍部となったのではないでしょうか。

ナガスネヒコらを殺した時点でナガスネ族の主権はニギハヤヒ一族に移った。

さてヤマト盆地の主権者としてニギハヤヒ一族はイワレヒコらを婿として取り入れたのでしょうか?

何故かはしらないけれどウマシマチらは消えてしまう。どうしてだろう?

ということはナガスネは決してヤマト盆地全体を掌握していたのではなかったということにならないか?

盆地内とその周辺に幾つかあった勢力の一つがナガスネヒコらの一族だったに過ぎないのではないかと私は思っています。

実際エシキオトシキなんてのもいるし、エウカシ、オトウカシなんてのもいる。

でナガスネらは、神武の入植を快く思っておらず、正面からきたときは連携して撃退した。でも裏口から襲撃されたときはロクに連携もとらずあっさりと個別にやられてしまっている。

これは、ナガスネヒコそしてニギハヤヒが比較第一位集団である可能性は高くても決してヤマト盆地全体の主権者ではなかったことを意味してるのではなかろうか?

つまり神武はヤマト盆地を掌握したのではなく、ヤマト盆地に割拠する一集団として認知されたということではないだろうか?

神武は事代主の娘と結婚することによってヤマト盆地の主権者になったというのではなく、これを機会としてヤマト盆地の一員となったにすぎない。つまりイワレ地方の主である。神武がイワレヒコなのもこんなとこに理由があるのではなかろうか?

物部は物部で盆地内の反対側に位置し、一つの集団、王権組織で在りつづけたのではないだろうか?

生駒あたりを盆地内における本拠地としつつ、海路を使い各地との交易に励んだ。

後の世(古墳時代前半)になって、イワレを本拠地とした勢力=天孫族が盆地内の盟主的な立場に成長し、物部をも圧するようななったたため、物部はあらためて天孫族との婚姻を行い、接近し、巨大氏族物部氏として神武を祖とするヤマト政権の傘下にはいった。

> ニギハヤ派物部族は、難波、河内、生駒山に着く前に、布津御魂の剣を、スサノオが納めた吉備において、手に入れていましたが、難波、河内、生駒山では、縁組の平和戦術をとって、それを使いませんでした。

このオロチを斬った剣も諸説ありますよね?

カラサビとかアメノハハキリとか。フツノミタマで決定しているわけはないと思いますが。。。。

男系主義的視点でみれば、ニギハヤヒの戦術となりますが女系主義的視点にたてばけっしてそうではないでしょう。

> しかし、熊野では、高天原の天命が下って、ニギハヤ派物部族は、ナガスネを刺し殺し、布津御魂の剣をニニギ派神武に献上して、大和政権の軍事最高指揮権をニニギ派神武に譲渡した可能性が成り立つと思います。

このフツノミタマというのが物部の王権にとって天皇家にとっての草薙の剣のようなものであるとすれば、譲渡せずずっと物部の管理下にあるわけですから、一概には上記の可能性は成り立つとは言えないですし、実際、石上という物部の神の社に保管されているわけですから、すくなくとも神武天皇の時点では譲渡はしなかったと見るべきではないでしょうか?

で、譲渡しなかったはずのフツノミタマが神武ヤマト入りに大きな役目を果たすということは、この神話物語は実は天皇家の神話ではなく、物部氏の神話だったと考えることも可能となります。

つまり物部氏だって平和裏にヤマト盆地に入ったわけではないということです。

つまり記紀編纂時に物部氏らヤマト朝廷を構成していた氏族から神話を集め再編集して天皇家の創生神話として生まれ変わらされた。という見方も捨て難いと思います。

そしてもう一つの可能性として、「神武ヤマト入り神話」に似た形の神話は天皇家、物部氏だけでなく、他のヤマト盆地の氏族たちにも「自分たちの祖先の神話」だとして伝えられていたという可能性もあります。

そして、原初のヤマト政権誕生から記紀編纂までの間に、天皇家に伝わる系譜を当てはめられ、この神話は神武のもの、そして天孫族のものとして記録されるに至った。

つまり神話の登場人物を天孫族に一元化することによって、結果として他氏族にも別の名前で伝わっていた「大和入り神話」を取り上げてしまったのではないでしょうか?

一番、形良くその神話を保存していた氏族が物部の子孫だった。だから神武ヤマト入りには物部の陰が強くなった。それにも関わらず神武の嫁は物部氏族からでないという矛盾はこういう物語の離合集散によってもたらされた結果ではないでしょうか?

そしてニギハヤヒという物部の祖先神の名は天孫族神話に吸収されることになって「本来は物部と天皇家の祖先は同族だった」という伝承を生むに至ったのではないかと思ったりする今日この頃です。

[744] Re^2:太陽信仰 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/08(Sun) 01:25
暴走気味でした(^^ゞ

[750] Re^3:太陽信仰と出雲大社 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/08(Sun) 15:45
出雲の代表的な神社であり、大国主、スサノオといった所謂「出雲神」を祭神としてきた出雲大社も太陽信仰というか、太陽の昇降の神秘そしてそこから導き出せる死生感、再生といったものを象徴した建物じゃないかと考察したことがあります。下記アドレスです。

SMさん見ていただけましたか?

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/sinza.shtml

[755] Re^4:太陽信仰と出雲大社 投稿者:SM 投稿日:03/06/09(Mon) 04:32 <URL>
> http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/sinza.shtml

出雲大社の大国主命が西向きであるということは、国譲りの時に、彼が、夕日の沈んだ後の「幽蔽の世界」を司ることになったからでしょう。
この出雲大社は、国譲りに勝った大和政権によって建てられたのですね。

これをもって、出雲にも太陽信仰があったというのは、解釈の問題でしょうね。

私自身も、日本海側の筑紫に太陽信仰があって、出雲に太陽信仰が弱かったことは、何故なのかと思っています。

朝鮮半島でも、百済族に太陽信仰があって、新羅族には太陽信仰は弱かったのでしょうか。



天之御中主神、高御産巣立日神、神産巣立日神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、天之常立神は、元々は、出雲の神々ではなく、記紀の神代五別格の天津神ですね。
この天の神々を出雲大社に祀ったのは大和政権でしょう。

これらの別格五天津神はじめ、イザナギ、イザナギにいたる天の神々を作ったのは、大和政権の記紀作製者だったのでしょうか。

高天原の天照大神、月読み神、スサノヲ命は、それぞれ、民の太陽信仰、月信仰、海の神信仰によると思います。

但し、月読み神は、この神話において、全体的に弱いですが、どこからきたのか、由緒が分かれば教えてください。
月読み神は、狩猟族のものであったのか、漁獲族のものであったのか、アイヌのもであったのか、陰暦と関係があるのか、等々。

一般に、出雲は地の神々が強く、女神・神産巣立日神を祖とし、
天孫系は天の神々が強く、中心の神は女神・天照大神であるが、長老格として、男神・高御産巣立日神がいると云われているようですが。

そういう意味で、
出雲族は地の神・母の神の女性型で、
天孫族は天の神々・父の神の男性型、
と云われているようですが。

[757] Re^5:太陽信仰と出雲大社 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/09(Mon) 08:58
> この出雲大社は、国譲りに勝った大和政権によって建てられたのですね。

現在の出雲大社は江戸幕府の肝煎で、松江藩が建てました。

史実とされている世界では斉明天皇の時代に建てられたことになっています。

出雲諤淵寺文書では景行天皇時に高層神殿があったことになってます。

考古学的には、弥生中期から既に祭祀の場であったことが確認されています。

詳しくは下記をご覧下さい

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/izumotaishanenpyou.shtml

> これをもって、出雲にも太陽信仰があったというのは、解釈の問題でしょうね。

もちろんそうですが、SMさんのおっしゃっている「太陽信仰がどうだ蛇信仰がどうだ」という話も、どこまでいっても同じように解釈の問題でしかありえません。

> 私自身も、日本海側の筑紫に太陽信仰があって、出雲に太陽信仰が弱かったことは、何故なのかと思っています。

私としてはヤマト政権以前の弥生時代から出雲にも筑紫や畿内などの他地域と同じ程度の太陽信仰があったと思っています。

ちなみに筑紫の太陽信仰の根拠とは何なのですか?

> 朝鮮半島でも、百済族に太陽信仰があって、新羅族には太陽信仰は弱かったのでしょうか。

そんなあっちは太陽信仰が弱くてこっちは強いとかいうのは解釈以外の何者でもありません。

> 天之御中主神、高御産巣立日神、神産巣立日神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、天之常立神は、元々は、出雲の神々ではなく、記紀の神代五別格の天津神ですね。
> この天の神々を出雲大社に祀ったのは大和政権でしょう。

五神を出雲大社に祭ったのはヤマト政権ではなく出雲国造の末裔である千家家、北島家ら江戸時代以降の人達なんだと私は思っています。

少なくとも古代のヤマト政権ではないと私は理解しています。

> これらの別格五天津神はじめ、イザナギ、イザナギにいたる天の神々を作ったのは、大和政権の記紀作製者だったのでしょうか。

違うと思います。記紀に記載されているそれらの神の名前自体はヤマト政権以前から伝えられていたと思います。それをああいった形にまとめた系統立てたのがヤマト政権なのでしょう。

> 高天原の天照大神、月読み神、スサノヲ命は、それぞれ、民の太陽信仰、月信仰、海の神信仰によると思います。

このあたりの系統立て、属性は大和政権によって成されたのでしょう。
民の信仰心を利用したのでしょうが、スサノオには記紀のその文章以外では正直海の神という印象は得られないのですが。。。。

古事記の冒頭にも諸家に伝わる間違いを改めるとかいうセリフがありますが、これは異伝が他にも沢山あったという証拠ですよね?

大和政権からみれば「誤り」でも、諸家にとってはその「誤り」こそが真実だったわけです。多数で共通していた異伝は一書として書紀に連なり、また極少数の異伝は消滅に向かったり、その異伝を共有する集団の内部だけで伝えられたのでしょう。

> 但し、月読み神は、この神話において、全体的に弱いですが、どこからきたのか、由緒が分かれば教えてください。
> 月読み神は、狩猟族のものであったのか、漁獲族のものであったのか、アイヌのもであったのか、陰暦と関係があるのか、等々。

不明ですが、月と太陽は表裏一体でしょう。
神名やその末裔に連なる氏族は別にして「月と太陽の神話」があったということだと理解しています。

> 一般に、出雲は地の神々が強く、女神・神産巣立日神を祖とし、

カミムスビって女性だったのですか?

> 天孫系は天の神々が強く、中心の神は女神・天照大神であるが、長老格として、男神・高御産巣立日神がいると云われているようですが。

タカミムスビも男性でしたっけ??

いずれにしても、神々に付けられた天地というイメージは後々に収斂されたイメージでしかないのではないですか

> そういう意味で、
> 出雲族は地の神・母の神の女性型で、
> 天孫族は天の神々・父の神の男性型、
> と云われているようですが。

そういう理解をされている人もいるかもしれませんが、それこそ解釈の問題でしかないわけです。

SMさんも一度、『天地』や『蛇と太陽』といった見方から離れて古代史を見直されてはどうでしょう?

[758] Re^6古代の太陽と蛇 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/09(Mon) 13:12
出雲地方には、銅剣が大量出土した荒神谷遺跡、銅鐸が大量出土した賀茂岩倉遺跡、そして三重環濠を周囲にめぐらした田和山遺跡という三つの特徴的な弥生遺跡があります。

田和山遺跡の上には、古代の出雲大社と同じ工法を用いて建てられたと考えられる建物跡が確認されています。

そしてこの遺跡の凡その高さと伝説上の32丈の出雲大社の高さはほぼ同じくらいになるそうです。

何故、古代出雲人は高さを求めたのか?

この高さへの欲求の背景には空への憧憬、そして太陽信仰があったと考えても良いように思います。

また出雲平野には太陽信仰の象徴とされる四つもの神奈備山があります。

SMさんは三輪山は「蛇信仰」だとおっしゃいますが、この三輪山にしたってピラミッド説は行き過ぎとしても、太陽信仰の聖地であるという説も存在しています。

「蛇と太陽」私としてはこの二つの神は、「同じモノ」であると思えるんですよね。両者とも体内的には死生感、対外的には収穫や生きる為に察知せねばならない季節感を象徴している。

ただ単に、支配者側はその祖先神を天空の太陽に比され、被支配者側の祖先は地を這う蛇に比された。と、いうことではないのかな?と私は思っています。

三輪山の邪神伝説にしたって、太陽は神で三輪山は神の存在を感じるための場で蛇はその分身であり、この3者は本来別々の信仰ではなかったと思うのですが。。。。。

一つの氏族が、太陽を自らの軍隊の旗印として、蛇を旗印にしていた他地域を攻め滅ぼしたり支配下においたっていうことではないんだと思うんです。

支配した方も、支配された方もその関係が始まるより以前から両者ともに太陽を神として、蛇もまたそ象徴として崇めてしていた。ということではないんでしょうか?

簡単に言ってしまえば、出雲に日本列島の支配者がいつづけて鎌倉時代辺りまで山陰地方に都がありつづけたとしたら、出雲における太陽信仰はもっと顕著に濃厚に残され、逆に生駒や伊勢は太陽信仰よりも蛇信仰の色が濃くただよっただろうということです。

[761] 太陽信仰、天信仰、蛇信仰 投稿者:SM 投稿日:03/06/10(Tue) 06:13 <URL>
田和山遺跡の上には、古代の出雲大社と同じ工法を用いて建てられたと考えられる建物跡が確認されています。
>
> そしてこの遺跡の凡その高さと伝説上の32丈の出雲大社の高さはほぼ同じくらいになるそうです。
>
> 何故、古代出雲人は高さを求めたのか?

> この高さへの欲求の背景には空への憧憬、そして太陽信仰があったと考えても良いように思います。
>
> また出雲平野には太陽信仰の象徴とされる四つもの神奈備山があります。

> SMさんは三輪山は「蛇信仰」だとおっしゃいますが、この三輪山にしたってピラミッド説は行き過ぎとしても、太陽信仰の聖地であるという説も存在しています。


人間には、空を眺めて、空に人間・世界の根源があることを知り、高い空に近づきたいと願い、高い所を求めるという「空への憧憬」の普遍的心情があるのではないかと思います。

それが、自然の高い山を崇めたり、小高い三角錐の神奈備山、大和三山を崇めるということなのでしょう。

この心情は、人工的に、空に向かって高いピラミッド、32丈の出雲大社、仏舎利等、教会の塔、モスクを建ててきたのでしょう。

この意味で、出雲にも空信仰はありました。大船山の山頂の烏帽子の岩では、銅鐸を振りながら、天に開運を祈り、雨乞いをしたのでしょう。それが布留御魂だたのでしょう。

三輪山でも、大国主を祀が祀られる前に、布留御魂が祀られたようだということです。(志段味歴史に親しむ会、市原昭雄 maruichi@ma2.justnet.ne.jp)

しかし、天信仰と太陽信仰は同じではありません。太陽は天の中の一つの星です。天には昼を治める太陽もあれば、夜に光を与える月もあるわけです。

諏訪春雄さんは、中国では、天信仰は緑の少ない北方の黄河地帯に発達し、太陽信仰は、稲魂信仰とともに、緑の多い南方の長江地帯にあると報告しています。

中国北部、黄河地帯では、寒く、緑が少なく、活きているものを見ることがない高い山岳地帯で、超自然的な天信仰が発達し、天孫降臨、儒教が生まれたのでした。

この天孫信仰は、日本では、日向高千穂文化に見えると諏訪さんは書いています。日向高千穂では緑の木はありましたが、天が近いでした。
>>
> 「蛇と太陽」私としてはこの二つの神は、「同じモノ」であると思えるんですよね。両者とも体内的には死生感、対外的には収穫や生きる為に察知せねばならない季節感を象徴している。

このような考えは中国長江地帯、また、南部地帯にあるのでしょう。
福建省には、太陽信仰も蛇信仰もあると言われます。漢方薬にも蛇のエキスや粉などがあるでしょう。

太陽信仰のある地帯では緑の木々、自然の中に神聖な生命力があることを信じて、多神教が生まれたのでしょう。

蛇信仰も暖かい地帯に見られるのは、この地帯では、蛇は野山、川、海のあらゆる所に生存し、足も鰭もない蛇に、人々は、生物の原型を見出し、神聖な生命力をもったものと信じたのでしょう。

> ただ単に、支配者側はその祖先神を天空の太陽に比され、被支配者側の祖先は地を這う蛇に比された。と、いうことではないのかな?と私は思っています。

私はそのようには思いません。出雲は蛇信仰があったので、被支配者にされたのではなく、偶々、出雲には蛇信仰が強かったのではないかと思います。何故、出雲に蛇信仰が強かったのか私には分かりません。

私自身は蛇信仰のない所で生まれ、育ちましたので、蛇信仰に異様さを感じます。

天孫族が出雲文化を征服したことについては、
出雲文化は、治水、銅・鉄加工、船、航海、武器などの地上生活の技術・力に優れながら、太陽天孫族によって国家統一されたのは、優れた地上生活の技術・力は無政府的で、統一する力がなく、太陽は水田稲作文化の普遍的象徴として国家形成の統一力をもったのではないかと思います。

国家統一は決して武器だけでは出来ないと思います。
国家統一には統一調和の精神的基盤が必要です。
それが公宗教と呼ばれるものだと思います。
アメリカが軍事力で日本に勝っても、天皇制を廃止できず、日本の象徴として残さなければなかったのもこのことにあるのではないでしょうか。
要するに、日本は太陽を共通のシンボルとして統一され、そのシンボルを代表する天皇が元首となってきたわけです。

高天原において、天照大神は神々と相談して、地では国々が争って乱れているので、彼女の関係者を天から地に下して、地の国々に国を譲らせて、天下を統一したのでした。

物部族が太陽信仰を持ちながら、天孫族に、武力を譲渡して、従うようになったのは、物部族には太陽信仰があっても、天思想が弱く、天孫族は、太陽も天の中に天の神々によって作られたという包括的な説得力をもって、物部族を包括し、従わせたのではないかと思います。

しかし、天孫族も、物部族を、統一国家日本の中に包括した後も、実務、技術、軍事力の面で必要とし、三輪山で出雲の地の神々の祟りを鎮めたのではないでしょうか。

中国やヨーロッパでも、帝王やローマ法王を天の地上代表として、天の神をもって、地の神々を包括して、統一国家や帝国を形成のではないでしょうか。

[765] Re: 太陽信仰、天信仰、蛇信仰 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/10(Tue) 16:16
> この意味で、出雲にも空信仰はありました。大船山の山頂の烏帽子の岩では、銅鐸を振りながら、天に開運を祈り、雨乞いをしたのでしょう。それが布留御魂だたのでしょう。

空信仰とはなんですか?

天信仰というのもよくわかりません。

> 中国北部、黄河地帯では、寒く、緑が少なく、活きているものを見ることがない高い山岳地帯で、

そんなところにどうして人が暮らすのですか?

世捨て人のような人が、そこまで出向いて思想や思索を練っていただけではないのですか?

> この天孫信仰は、日本では、日向高千穂文化に見えると諏訪さんは書いています。日向高千穂では緑の木はありましたが、天が近いでした。

日向高千穂文化というのもはじめて聞いたのですが、これは具体的にいうとどんな文化なのですか?

> このような考えは中国長江地帯、また、南部地帯にあるのでしょう。

おっそうなんですか。日本人の祖と中国南部地帯の人々の祖は何処かで繋がっているんではないかとおもっているのですが、具体的には何もわかっていない状態です。

> 福建省には、太陽信仰も蛇信仰もあると言われます。漢方薬にも蛇のエキスや粉などがあるでしょう。

蛇の粉って蛇信仰なんですか?

> 太陽信仰のある地帯では緑の木々、自然の中に神聖な生命力があることを信じて、多神教が生まれたのでしょう。

高千穂とかいう限定した話からえらく大きくなってしまいましたね(^^ゞ

> 蛇信仰も暖かい地帯に見られるのは、この地帯では、蛇は野山、川、海のあらゆる所に生存し、足も鰭もない蛇に、人々は、生物の原型を見出し、神聖な生命力をもったものと信じたのでしょう。

蛇というのは太陽より身近だから太陽信仰と同じような内容の普遍的信仰でも、蛇に仮託する場合があった。毒蛇のの多い地域なんかでは、余計に「死」を意識したでしょうしね。

> 私はそのようには思いません。出雲は蛇信仰があったので、被支配者にされたのではなく、偶々、出雲には蛇信仰が強かったのではないかと思います。何故、出雲に蛇信仰が強かったのか私には分かりません。

誤解してますね。そんなことは言ってません。良く読んでくださいね。

> 私自身は蛇信仰のない所で生まれ、育ちましたので、蛇信仰に異様さを感じます。

SMさんがどういったものを蛇信仰とイメージされているのか解かりませんが、現代人で「蛇を信仰している」とだけ聞けば異様に感じない人はいないでしょう。

まあ、普通は信仰までいかなくても「蛇が好き」というだけで既に異様です。

> 高天原において、天照大神は神々と相談して、地では国々が争って乱れているので、彼女の関係者を天から地に下して、地の国々に国を譲らせて、天下を統一したのでした。

はあ?一応は承っておきますが、神話と歴史が混乱してますね?

> 物部族が太陽信仰を持ちながら、天孫族に、武力を譲渡して、従うようになったのは、物部族には太陽信仰があっても、天思想が弱く、天孫族は、太陽も天の中に天の神々によって作られたという包括的な説得力をもって、物部族を包括し、従わせたのではないかと思います。

宣教師のように教え諭したわけなんですか?

> しかし、天孫族も、物部族を、統一国家日本の中に包括した後も、実務、技術、軍事力の面で必要とし、三輪山で出雲の地の神々の祟りを鎮めたのではないでしょうか。

物部族を包括するために三輪山の祭祀を大事にしたということで、物部族の神が三輪山の神という事になるのですか?

それとも、前段は物部族と天孫の話で、後段は天孫物部族組とその他大勢の話なのですか?祟りと軍事力云々を同列に語られても私としては返答に困るだけです。

[763] 三輪の神 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/10(Tue) 15:11
>三輪山でも、大国主を祀が祀られる前に、布留御魂が祀られたようだということです。(志段味歴史に親しむ会、市原昭雄 maruichi@ma2.justnet.ne.jp)

この志段味歴史に親しむ会を見ましたが

これで述べられているのは定説ではありませんよ
所詮、仮説の域です。
定説が正しいとも限りませんが、この仮説が正しいとも限りません。

また、これは
もともと、原田常治氏が唱えた説から来ているものです。
ある意味、コピーです。
俗に言う、原田史観というものです。
これを支持しているアマの研究家が結構本を出しているので
これが正しいと思っている人が多いですが
あくまでも、原田氏が唱えている仮説に過ぎません。
また
小椋一葉氏のように、これに尾ひれをつけている人もいます。

この仮説は
否定も出来ませんが、肯定も出来ません。

更に、
そもそも、大国主を祀が祀られる前に、布留御魂であろうが
あとで加えられて合祀されただけで
三輪の神はもっと古いものです。
の合祀のために同一神とされる場合もありますが
三輪の神自体は、もともとは別の神です。

[762] Re: SMさん今更なんですが 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/10(Tue) 14:45
以下の質問に答えてくださいm(__)m

1.記紀の神代(つまり記紀神話)を史実として認識していますか?

2.太陽信仰とはどういうものですか?

3.天孫族はどの時点で、天信仰とやらと、太陽信仰を両立していたのですか?

4.史実とされるなら、記紀の神代(記紀神話)はどの年代のことを表していると想定されていますか?

> 中国やヨーロッパでも、帝王やローマ法王を天の地上代表として、天の神をもって、地の神々を包括して、統一国家や帝国を形成のではないでしょうか。

そうなんですか?
そういう意見ははじめてききました。

つまり、古代日本の天孫族が信仰に対して持っていた思想というのはローマ法王とか中華皇帝の思想一緒だったということですね?

全くピンとはこないのですが、、、、、

[773] Re^2: SMさん今更なんですが 投稿者:SM 投稿日:03/06/11(Wed) 00:59 <URL>
> 以下の質問に答えてくださいm(__)m
>
> 1.記紀の神代(つまり記紀神話)を史実として認識していますか?
>
史実というよりも、創作だと思います。

> 2.太陽信仰とはどういうものですか?

太陽の生命力のある神聖さを信じることかと思います。
>
> 3.天孫族はどの時点で、天信仰とやらと、太陽信仰を両立していたのですか?
>
高天原でしょうね。

> 4.史実とされるなら、記紀の神代(記紀神話)はどの年代のことを表していると想定されていますか?
>
> > 中国やヨーロッパでも、帝王やローマ法王を天の地上代表として、天の神をもって、地の神々を包括して、統一国家や帝国を形成のではないでしょうか。
>
> そうなんですか?
> そういう意見ははじめてききました。
>
> つまり、古代日本の天孫族が信仰に対して持っていた思想というのはローマ法王とか中華皇帝の思想一緒だったということですね?

思想が一緒であったというよりも、同質性があるということです。

日本の天皇は、高天原を支配する天照大神、あるいは、天の神々を代表する太陽神の子孫であり、ローマ法王は天の神の子であるイエス・キリストの代理人であり、中華皇帝は天帝の代表者であって、いずれも、地上の最高の権威者として、究極の権威を天に求めています。

>
> 全くピンとはこないのですが、、、、、

[781] Re^3: SMさん今更なんですが 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/11(Wed) 11:49
> 日本の天皇は、高天原を支配する天照大神、あるいは、天の神々を代表する太陽神の子孫であり、ローマ法王は天の神の子であるイエス・キリストの代理人であり、中華皇帝は天帝の代表者であって、いずれも、地上の最高の権威者として、究極の権威を天に求めています。

天皇は権威を「天」や「太陽」には求めていません。

自らの祖先であると規定した「神」に求めているわけです。

これは、「天によって選ばれた」とか「天命を受けた」「天からの言葉を預かって広めている」ということとは「似て非なるもの」だと私は思うのです。

キリスト教や、中華皇帝の理論では「天の意思」に背くとその代理人の首は挿げ替えることが理論上可能です。また寿命以外で挿げ替えられた場合「あの人は天に背いたからだ」と理解することができますよね?

天皇は天そのもので、天は天皇と違う意思を持つことはない。それを保証するのが「天壌無窮の神勅」であって、アマテラスはその神勅を出すために、高天原の主催者としての立場に立つわけです。

けっして「太陽神だから」というのが主な理由で、天照大神が最も尊崇されるべき神となっているのではありません。

王権神授とはいいますが、記紀神話の場合、「子孫である天皇が、自らの祖先神に対し、自分が現世で持つ権威を投影したもの」であって、「神権王授」といってもいいのではないかと私は思ってます。

[774] Re^3: このあたりで終わりにしましょう 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/11(Wed) 06:32
> 史実というよりも、創作だと思います。

なんと!!創作だとお思いだったのですか!!!!

いままでのSMさんの投稿からは全くそうは読み取れませんでした。どちらかというと完全に史実だと認識されていると思っていました(@_@)

これではどうやったったて、話が合わないはずですね。

聞いといてよかったです(^^ゞ

記紀神話を「創作」だとしてしまっては、こんな話をいくらしたって物部氏のルーツなんて見えてきませんよね。

物部氏のルーツのお話はこれで終わりにしましょう。
ながながとお疲れさまでした。(^^ゞ

ではさようなら(^.^)/~~~

[764] Re^2: SMさん、今更なんですが 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/10(Tue) 15:14
ちなみに、わたしの考えは以下です


> 1.記紀神話を史実として認識していますか?

何らかの事実は反映しているが史実や歴史ではないと認識しています。

> 2.太陽信仰とはどういうものですか?

太陽の昇降や季節による太陽の動きに死生感を反映させたもので、これは生活のための知識と直結しており、太陽の恵みの豊穣を願うための信仰であって古代人にとっては普遍的な信仰と私は理解しています。

> 3.天孫族はどの時点で、天信仰とやらと、太陽信仰を両立していたのですか?

私は弥生時代には両立なんてしていなかったと思います。両立するようになったのは仏教導入以後、聖徳太子以後ではないかと思っております。

> 4.史実とされるなら、記紀神話はとの年代のことを表していると想定されていますか?

私は神話は史実ではなく、日本人の祖先たちが弥生時代から古墳時代を通しての経験した事実が口承伝承で伝わり、各氏族単位でバラバラに神話化し、それが文字化された。

それらを、仏教導入以後に日本国家の名のもとに集め、編纂したのが記紀神話として纏められたのではないかと想定しております。

ですから、記紀神話(神代)が内包している時代というのは紀元前10世紀頃から、紀元6世紀頃のとてつもなく長い時代ではないかと思っています。

[775] Re^3: SMさん、今更なんですが 投稿者:SM 投稿日:03/06/11(Wed) 06:33 <URL>
> ちなみに、わたしの考えは以下です
>
>
> > 1.記紀神話を史実として認識していますか?
>
> 何らかの事実は反映しているが史実や歴史ではないと認識しています。

同意です。
>
> > 2.太陽信仰とはどういうものですか?
>
> 太陽の昇降や季節による太陽の動きに死生感を反映させたもので、これは生活のための知識と直結しており、太陽の恵みの豊穣を願うための信仰であって古代人にとっては普遍的な信仰と私は理解しています。


恐らく、そうなのでしょうが、
それ以上に、ニギハヤや天照大神などの太陽神、または、太陽と直接する神を信じることを、敢えて、太陽信仰と言ってもよいのではないでしょうか。
>
> > 3.天孫族はどの時点で、天信仰とやらと、太陽信仰を両立していたのですか?
>
> 私は弥生時代には両立なんてしていなかったと思います。両立するようになったのは仏教導入以後、聖徳太子以後ではないかと思っております。

神代神話は、それ以前に、道教によって、作られていたのではないでしょうか。
>
> > 4.史実とされるなら、記紀神話はとの年代のことを表していると想定されていますか?
>
> 私は神話は史実ではなく、日本人の祖先たちが弥生時代から古墳時代を通しての経験した事実が口承伝承で伝わり、各氏族単位でバラバラに神話化し、それが文字化された。

> それらを、仏教導入以後に日本国家の名のもとに集め、編纂したのが記紀神話として纏められたのではないかと想定しております。
>
> ですから、記紀神話(神代)が内包している時代というのは紀元前10世紀頃から、紀元6世紀頃のとてつもなく長い時代ではないかと思っています。

おそらく、そうでしょう。

[776] Re^4: SMさん、今更なんですが 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/11(Wed) 06:38
>> 何らかの事実は反映しているが史実や歴史ではないと認識しています。

>同意です

えっ同意されるんですか(@_@)

> それ以上に、ニギハヤや天照大神などの太陽神、または、太陽と直接する神を信じることを、敢えて、太陽信仰と言ってもよいのではないでしょうか。

太陽神である以上にこの両神が尊い理由は「祖先神」だからであって、日本には太陽の恵みを感謝するための信仰はあっても太陽を信じる信仰はないと思いますが、何かあるんでしょうか?

[786] 有難うございました 投稿者:SM 投稿日:03/06/11(Wed) 21:37 <URL>
> 太陽神である以上にこの両神が尊い理由は「祖先神」だからであって、日本には太陽の恵みを感謝するための信仰はあっても太陽を信じる信仰はないと思いますが、何かあるんでしょうか?
>

日本は太陽国、日本の宗教は太陽教というところでしょうか。

勇者ロトさん、あきんどさん、hn2602さん、菊池元宏さん、
いろいろと教えてくださいまして、有難うございました。

[788] Re: 有難うございました 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/11(Wed) 23:34
> 日本は太陽国、日本の宗教は太陽教というところでしょうか。

どこからそんな話になるのか良くわかりませんが、たぶんこの答えは間違っているでしょう。

日本における太陽神であるところの天照大神は、キリストのように何も教えてはくれませんし、中華の天や一神教の神ように絶対的な力も持ってません。

何しろ、日本人にとっては八百万分の一の神さまなのですから。。。。

> 勇者ロトさん、あきんどさん、hn2602さん、菊池元宏さん、
> いろいろと教えてくださいまして、有難うございました。

いえいえ、こちらこそ改めて考えるいいきっかけとなりました。





> 日本の天皇は、高天原を支配する天照大神、あるいは、天の神々を代表する太陽神の子孫であり、ローマ法王は天の神の子であるイエス・キリストの代理人であり、中華皇帝は天帝の代表者であって、いずれも、地上の最高の権威者として、究極の権威を天に求めています。

天皇は権威を「天」や「太陽」には求めていません。

自らの祖先であると規定した「神」に求めているわけです。

これは、「天によって選ばれた」とか「天命を受けた」「天からの言葉を預かって広めている」ということとは「似て非なるもの」だと私は思うのです。

キリスト教や、中華皇帝の理論では「天の意思」に背くとその代理人の首は挿げ替えることが理論上可能です。また寿命以外で挿げ替えられた場合「あの人は天に背いたからだ」と理解することができますよね?

天皇は天そのもので、天は天皇と違う意思を持つことはない。それを保証するのが「天壌無窮の神勅」であって、アマテラスはその神勅を出すために、高天原の主催者としての立場に立つわけです。

けっして「太陽神だから」というのが主な理由で、天照大神が最も尊崇されるべき神となっているのではありません。

王権神授とはいいますが、記紀神話の場合、「子孫である天皇が、自らの祖先神に対し、自分が現世で持つ権威を投影したもの」であって、「神権王授」といってもいいのではないかと私は思ってます。

[730] 蛇神と越について 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/06(Fri) 21:39
蛇神思想は世界各地にありまして

これが元々は1つの思想であり、分派したものか
自然発生的に各地で発生したものか
全く、わかりません。

ただ、蛇神とされる神は世界中に非常に多くおり
このうち、幾つかは日本に入ってきています。
また、日本の縄文期にも蛇神思想はあったようで
これを独自思想としますと
ますます、ややこしいことになります。

更に
蛇神は龍神と同一視されることもあり
この区別は困難です。
そして、融合神が多く存在していまして
これも混乱を生む理由です。

また
蛇神や龍神とされるもの中には
気脈、地脈、水脈等の
超自然科学的な思想からくるものがありまして
これがどうやら大本の思想らしいのですが
世界中で、それぞれの地域でいろいろな形で祭祀されています。
しかし、これについては歴史ではなく
自然科学に含まれますから趣旨に外れますので
これ以上の解説は致しません。

まあ
このように蛇神思想は単純ではなく
これを、一纏めに捉えてよいものだと思いませんし
まず、無理でしょう。


越について

これはロトさんも指摘されていますとおり
単純に越という字だけで同一視していいのか疑問ですし
正直言ってわかりません。

個人的には
五覇の越の遺民が日本に入っているのは間違いないと思いますが
これが日本の越(コシ)と関係あるかはわかりません。
これは呉も同様です。

また、大陸の越についても、俗に百越と称されるように、いろいろな部族がいる訳です。
これを1つの越として捉えることは正しいと思えません。
彼等の一部が日本に流入したとしても
これを越と繋げてよいか疑問ですし、わからないとしか答えられません。

[729] Re: 物部氏のルーツとは? 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/06(Fri) 21:38
> あきんどさんがおっしゃってるように文献的な石見と物部の関係はニギハヤヒ以降になりますので、ルーツとは関係ないでしょう。

文献資料や系譜を見ますとそうなんですが

これも簡単に処理できません。
ニギハヤヒの子で物部氏の祖とされるウマシマチが問題でして
彼の墓とされるものが、石見にあります。

そのためか
石見物部は彼の直系であり本家とされ
ヤマトの物部(内物部)の方が分家という見解もあることはあるんです。

現時点では
これの根拠を見つけることが自分は出来ないので
無視しても良いのですが
支持されている人達のことを考えますと簡単に無視できなくて

多分、この論拠は、地元の郷土伝承だと思うんですけど
これは現地に行って丹念に調べないとわからないですからね

> 筑紫と物部の関係というと、何かありますか?
> 私は全く思いつかないので、何かご存知でしたら教えてください。

これは遠賀や筑後の物部系氏族の話だと思うんですが

筑前遠賀や筑後の物部は古いです。
磐井の乱以後に土着したグループも多いのですが
元々、このあたりに物部系氏族が定住していたようで
ニギハヤヒの降臨伝承もあります。

物部氏の東遷説の論拠になっているのもこれですね

しかし、この物部は広義の物部ですね

ニギハヤヒを族長とする物部族(ニギハヤヒ族?)
ウマシマチ系の物部氏、そして、物部連をごっちゃにして考えると
混乱のもとになります。

SMさんは今までの感じからしますと
多分、広義の物部で捉えられているんでしょうけど

[734] Re^2: 物部氏のルーツとは? 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/07(Sat) 13:23
> これも簡単に処理できません。
> ニギハヤヒの子で物部氏の祖とされるウマシマチが問題でして
> 彼の墓とされるものが、石見にあります。

石見物部神社には2回ほどいったことがあります。
神社の裏だとか、いや三瓶山系の山だとかいう話をきいてきました。

> そのためか
> 石見物部は彼の直系であり本家とされ
> ヤマトの物部(内物部)の方が分家という見解もあることはあるんです。

そういう見方ははじめてしりました。

> 多分、この論拠は、地元の郷土伝承だと思うんですけど
> これは現地に行って丹念に調べないとわからないですからね

現地で丹念に調べるっていうのも大変そうです(^^ゞ

> ニギハヤヒの降臨伝承もあります。

遠賀、筑紫にニギハヤヒの降臨伝承があるのですか!!
これも知りませんでした。

> SMさんは今までの感じからしますと
> 多分、広義の物部で捉えられているんでしょうけど

このあたり、個人個人が『物部』とか『物部氏』『物部首』『物部連』なんかをどう捉えてて理解しているかというのはなかなかわかりませんね。

正直なところ私なんか「物部」がつくだけでみんな同じにも見えてきっちりと区別できてないです(^^ゞ

物部の定義っていうのも倭人の定義同様難しそうです。個人的に納得するまではできてもなかなか一般に通用する定義になるかどうかは難しいですね。物部の周辺知識を勉強しなくてはなかなか見分けをつけるのも大変そうです。。。

[753] 機械の調子が悪いです。 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/09(Mon) 00:43
> このあたり、個人個人が『物部』とか『物部氏』『物部首』『物部連』なんかをどう捉えてて理解しているかというのはなかなかわかりませんね。
>
> 正直なところ私なんか「物部」がつくだけでみんな同じにも見えてきっちりと区別できてないです(^^ゞ
>
> 物部の定義っていうのも倭人の定義同様難しそうです。個人的に納得するまではできてもなかなか一般に通用する定義になるかどうかは難しいですね。物部の周辺知識を勉強しなくてはなかなか見分けをつけるのも大変そうです。。。

え〜と
ニギハヤヒの天孫降臨についての
自分が考えた仮説の1つを今度ご紹介致します。

ただいまメインの機械の調子が悪く
現在はサブ機でレスしています。

とりあえず
前日までに修復作業をしていましたが
回復の見込みが立たず
この際、
メインの再設定をすることにしました。

ですが
バックアップだけでまる1日潰れました(TOT)
なかなか、順調な滑りだし
残りの細かい予備バックアップが残っており
本格的な修復作業は明日以降になります。
しかし、時間が無いので一度に出来そうに無く
ソフトやアプリの再設定と調整など
最悪の場合来週全部潰れます。

簡単なレスはサブ機でしますから

[739] 注意事項をつくりました 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/08(Sun) 00:51
掲示板トップの[使い方・注意事項]をお読みくださいm(__)m

[749] Re: 注意事項をつくりました 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/08(Sun) 11:11
> 掲示板トップの[使い方・注意事項]をお読みくださいm(__)m

直アドレスは下記です。

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/wforum/index.html

[736] Re^3: ニギハヤヒと火明と出雲 投稿者:SM 投稿日:03/06/08(Sun) 00:43
> 現段階の自分が個人的見解は
> ニギハヤヒと火明尊は別人であり、同一であるというものです。
>
> もしかすると、尾張氏は2つの部族の合体したものかもしれません。
>
> ニギハヤヒに関しては出雲系と思えません。
> 上手く言えませんが、臭いが違う
> しかし、天孫系とも違うような気はするんです。

筑紫系でしょうか。
天孫系は日向・高千穂から出ていると思いますが。


> > 火明尊に関しても出雲系の空気が強いのですが
> 記紀にもあるように、天孫系の空気も濃厚にある。
> しかも
> 海人族の火明尊と山人族の火明尊と2種類存在する。

火明尊は火山噴火の火と関係があるのではないでしょうか。

[737] Re^4: ニギハヤヒと火明と出雲 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/08(Sun) 00:46
SMさん、「物部氏のルーツ」のツリーが巨大化しすぎて表示しにくくなりましたので、以後こちらに新規移動してツリーを続けてください。

[743] 物部氏関連のホームページ紹介 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/08(Sun) 01:12
言わずとしれた神奈備さんのページ

http://www.kamnavi.net/mn/index.htm


天 璽 瑞 宝 

先代旧事本紀のコーナーもあります。

http://www.h4.dion.ne.jp/~munyu/index.htm

他にも、参考にできるページはあるかな??


[553] 聖徳太子の母親は誰だ!その1 投稿者:ペギラ 投稿日:03/05/25(Sun) 16:03
出口のないラビリンスにはまり込んだお二人に、
間髪入れずに、さらに、もう一服、毒盛り。

聖徳太子の母親は?
それは、穴穂部間人皇女でしょ。と日本書紀での記述。

その穴穂部間人皇女ってどんな人?
欽明の皇女、泥部穴穂部皇女。
蘇我稲目の娘の妹小姉君が母親。

ならば、用明とは異母兄弟?
ともに母方祖父は稲目。

欽明の孫で、用明の子で、どうして天皇になれないの?
それが、謎。

でも上宮記逸文というやつに、変なこと書いてあります。
多米王の所に。
父は用明、母は蘇我女也、父天皇崩後
庶母間人孔部王を娶り生まれた児、佐富女王 一也

そうか母親が再婚したから聖徳太子は天皇になれなかったのかも。
えええ、でも多米王って誰??
日本書紀では蘇我稲目の娘・石寸名と用明との子。
田目皇子、またの名を豊浦皇子。

ふ〜ん。
知らないな〜そんな人。

確かにこれだけなら、ふ〜ん。だけれど、
この佐富女王を長谷部王が娶って、葛城王と多智奴女王が生まれている。

ふ〜ん。
この長谷部王が、誰か?
誰???
長谷部王のもう一人の妃の
大伴奴加之古(ぬかのこ)連の女子古氏古(こてこ)郎女
生める児、波知乃古王(はちのこ)錦代王(にしきで)

むむむ。これって、
崇峻妃の大伴糠手連の女、小手子。
その子、蜂子皇子と錦代皇女と、そっくり。

この長谷部王というのは、聖徳太子の子供じゃないよ。
ええええ、どうして泊瀬部(崇峻)が上宮記にあるの??

そういえば、上宮記って
推古の皇女の菟道貝蛸皇女(菟道磯貝皇女)が
法大王の妃に、でてきませんね
子供が居なかったから、削除されるの?

次回は菟道貝蛸皇女から。(続く)

[568] 聖徳太子の母親は誰だ!その2 投稿者:ペギラ 投稿日:03/05/26(Mon) 10:35
菟道貝蛸皇女から。

この人変わってますよね。
珍しいというか、なんというか。

日本書紀敏達紀では、推古の産んだ皇女としては、
菟道貝蛸皇女、またの名、菟道磯津貝皇女
そのあと、「是東宮聖徳に嫁す。」
そもそも、日本書紀内で「嫁す(みあひ)」なんて記述、
この推古皇女の所にしかなんじゃないの。
天皇になった人だから、特別なのかな。
「東宮聖徳」という記述もなんか、うさんくさい。

敏達皇女としては、先の皇后、息長眞手王の女廣姫の子
菟道磯津貝皇女という人がいる。
貝蛸皇女のまたの名と同名ですよね。

古事記では、どうなっているのか?

推古の子は、静貝王またの名貝蛸王
廣姫の子は、宇遅王

三位一体というか、三分割というか。

さらに変な記述が日本書紀には、存在する。
敏達七年条
「菟道皇女を以て、伊勢の祠に侍らしむ。
即ち、池邊皇子にをかされぬ。事顕れて解けぬ。」

日本書紀内では菟道皇女も池邊皇子も特定された人物ではない。
これは、一体誰?

古事記の宇遅王・廣姫の子という説が有力。
ならば、池邊皇子は誰??

法王帝説では、用明は池辺天皇とも記述されるから、
この人が用明である可能性は高い。

ということは、推古の子菟道貝蛸皇女は、聖徳妃になり、
廣姫の子、宇遅王は、用明・池邊皇子にをかされる?

用明と聖徳太子ってそんなに、年齢が近かったのか?
用明天皇 (推)547・553〜587
聖徳太子    574〜622

正確には推測の域を出るものではありませんが、
用明没年には、まだ、年少・少年ということは、間違いないだろう。
用明は敏達より、年長ではないかという推論もある。

とにかく、同じ世代の女の人に、
皇子時代の親と、その子供が関連することが可能なのか。
この用明が、推古並の長命で、聖徳太子が遅く生まれた子なら
可能だろうが、そんな話にはなっていない気がする。

さらにこの伊勢の斎王を、をかすという事件は2代続けて起きている。
そのもう一人の被害者は、

磐隈皇女 父は欽明 母は蘇我大臣稲目宿禰の女、堅塩媛
用明天皇の妹。推古天皇の同母姉。
またの名を夢皇女

夢皇女??むむむ。

次回は伊勢斎王事件。。(つづく)

[576] 聖徳太子の母親は誰だ!その3 投稿者:ペギラ 投稿日:03/05/27(Tue) 10:06
伊勢斎王事件

磐隈皇女・菟道皇女と2代続いたこの事件。
この当事者たちは、みんな用明帝関連。

ひとりづつ見てみよう

日本書紀記述
○磐隈皇女
父は欽明 母は蘇我大臣稲目宿禰の女、堅塩媛
用明の妹。推古天皇の同母姉。
またの名を夢皇女

古事記記述
○石くま王
父は欽明 母は宗賀稲目宿禰大臣の女、岐多斯比売

日本書紀記述
●茨城皇子
父は欽明 母は蘇我大臣稲目宿禰の女、堅塩媛同母弟小姉君

古事記記述
●馬木王
父は欽明 母は母は宗賀稲目宿禰大臣の女、岐多斯比売之をば小兄比売

日本書紀記述
◎菟道皇女
候補2名
@菟道磯津貝皇女(古事記では宇遅王)
父は敏達 母は息長眞手王の女、廣姫
A菟道貝蛸皇女またの名菟道磯津貝皇女(古事記では静貝王、貝蛸王)
父は敏達 母は推古

日本書紀記述
◎池邊皇子
不明
推測(用明)
父は欽明 母は蘇我大臣稲目宿禰の女、堅塩媛

片方は用明同母妹と用明異母兄弟
片方は用明同母妹の子と用明、とも取れる。

ここまで、用明に関わる人ばかりだとすると、
本来この話は、同一説話ではないだろうか?

古事記記述の馬木王。
この人が用明であった場合、馬木王の子が厩戸王。またその子が、馬屋女王
みごとに繋がっていく。

問題の始まりは、欽明の子供たちにあると思う。
欽明の子供たちは、系譜上、その前後に同名の子供が多数存在する。
この同名の子供たちの繋がりは
欽明−敏達−押坂−用明−聖徳−山背
と、累々と続いていく。

そして、欽明あたり日本書紀と古事記とにズレが生じる。
まず、欽明紀と欽明記では、妃の人数が違う6人と5人。
敏達紀と敏達記では、子供の数が違う16人と17人。

さらに、日本書紀の推古と敏達の子供たちのうち、
菟道貝蛸皇女が聖徳に。
小墾田皇女が押坂彦人に。
田眼皇女が舒明に。嫁いだことになっているが、
日本書紀内でも、その後、妃になった記述には、存在しない。
もちろん古事記の記述にもこの3人が妃になった記述は存在しない。

次回は、さらに、難しい、欽明以降の系譜の疑問。 (まだつづく)
参考書物
日本書紀・古事記
大まかな推論の原点は「推古朝こそ原帝紀成立期」です。

[583] 聖徳太子の母親は誰だ!その4 投稿者:ペギラ 投稿日:03/05/27(Tue) 19:10
欽明以降の系譜の疑問。
欽明の子、敏達・用明の子、忍坂・聖徳の子、山背・長谷部の子

この四世代において、同名の人物が甚だ多い。
縺れ合った糸を、一本づつ取り解す為に、比較検証。
日本書紀の表示は皇子・皇女と男女が別けられているが、
このことが糸を縺れさせているように思えるので、
古事記表示を基本に進めます。古事記出現順に。
系図表など、片手にないとわかんないですよ。

1・笠縫王
父は欽明 母は檜隈天皇(宣化)の子・石姫
同名の笠縫王
父は忍坂 母は庶妹玄王 (敏達皇女)

2・春日山田郎女
父は欽明 母は春日日爪女・糠子郎女
同名の春日山田郎女
父は仁賢 母は丸邇日爪臣女・糠若子郎女

3・山代王
父は欽明 母は宗賀稲目宿禰大臣女・岐多斯比売
同名の山代王(その1)
父は忍坂 母は庶妹玄王 (敏達皇女)
同名の山背王(その2)
父は聖徳 母は蘇我馬子大臣女・刀自古郎女

4・桜井玄王
父は欽明 母は宗賀稲目宿禰大臣女・岐多斯比売
同名の桜井玄王
父は敏達 母は推古
日本書紀では桜井弓張皇女となっているが、
忍坂妃となっているとも、久米王妃となっているとも書かれていない。

5・葛城王
父は欽明 母は宗賀稲目宿禰大臣女・岐多斯比売叔母小兄比売
同名の葛城王(その1)
父は敏達 母は推古 (この人は日本書紀にない)
同名の葛城王(その2)
父は長谷部王 母は叔母佐富女王 

6・長谷部若雀(崇峻)
父は欽明 母は宗賀稲目宿禰大臣女・岐多斯比売叔母小兄比売
他の長谷部王
雄略・武烈・長谷部王

7・多米王
父は敏達 母は推古
日本書紀では田眼皇女となっており、舒明妃とある。
同名の多米王
父は用明 母は蘇我稲目大臣女・意富芸多志比売
多米王妃は庶母・間人孔部王

8・小張王
父は敏達 母は推古
同名の尾治王
父は山背 母は庶妹・舂米女王

9・桑田王
父は敏達 母は春日中若子王女・老女子
同名の桑田王(女王)(その1)
父は忍坂 母は漢王妹・大俣王
同名の桑田王(その2)
父は聖徳 母は膳部臣加多夫古女・菩岐々美郎女


以上になります。この結果と見てみると、
欽明・蘇我稲目女、敏達・推古という組み合わせの、
同名の子供の存在に、はなはだ、疑問を感じます。
御名代の継承というだけで説明がつかないものもあるような気がします。
四世代で、これだけいるということは異様です。
他に、難波王・宝王・茨田王などもあるが、少し意味合いが違うので除外しました。

推古の産んだ子供といわれる人で、明確に実在しそうなのが、竹田皇子のみ。
聖徳妃となっている位奈部橘王の親の尾張王が本当に推古の子供なのか?
推古の子供なら、どうして天皇になっていないのか?

次はいよいよ、穴穂部間人皇女のまわり。もうちょこっと続く。

[621] 聖徳太子の母親は誰だ!その5 投稿者:ペギラ 投稿日:03/05/29(Thu) 18:02
穴穂部間人皇女のまわり。

間人穴太部王(用明・欽明記)
穴穂部間人皇女(用明紀)
泥部穴穂皇女(欽明紀)
孔部間人王(上宮記逸文)
穴穂部間人王・穴太部間人王(法王帝説)
孔部間人公主・孔部間人母王(天寿国繍帳)
鬼前太后(法隆寺金堂釈迦仏像)

穴穂部・間人という名前について、
彼女の兄弟に、泥部穴穂部皇子と崇峻・泊瀬部皇子がいる。
同じ兄弟で穴穂部・泥部を共有していることの不思議さ。
古事記では、三枝部穴太部王である。
三枝部は福草部ともいわれ、顕宗の時代に設置されている。
穴穂部も三枝部も石上あたりが原点だろうと推測できる。

それで、なぜ同母兄弟で、同じ穴穂部を共有するのか?
双子説もある。(^_^;

それと鬼前太后は、なんて読むのか?
「かむさき」神前ということだろうか。
しかし、これを「いむくま」と読めないだろうか?

そう読めるならば、「磐隈皇女・夢皇女」に近づく。
「いわくま」「いめ」

そうなると、ほぼ同時期の斎王事件は
用明と間人穴穂部との話が原点で、分裂したものではないか。

斎王も神前・鬼前なのではないか。

古事記の宇遅王は、磐隈皇女であり、菟道皇女であり、
間人穴穂部皇女でもある。

用明妃間人穴穂部皇女は欽明皇女ではなく、敏達皇女であった。

そう考えると、聖徳太子妃菟道磯津貝皇女が他の資料にないのがうなずける。

穴穂部皇子は敏達崩御後に推古を、襲おうとしている。
この話は未遂となっているが、
間人穴穂部皇女の方は、用明崩御後、多米王が娶っている。
日本書紀に記述されていないこの部分は、
穴穂部皇子の事件の裏返しみないな感じもする。

用明崩御後は穴穂部皇子・物部守屋と倒されていく。
そののち即位するのが、泊瀬部皇子。

しかし、ここで本当に即位したのが泊瀬部皇子なのだろうか?

もしや、この多米王が即位したのではないだろうか。
多米王の娘を聖徳太子の息子長谷部王が娶っている。

これは名前を親子逆転させて、日本書紀が変容させたのか。

多米王・田目皇子はまたの名が豊浦皇子。

推古朝のはじめの宮は、豊浦宮。

豊浦宮治天下大王というのが、存在するならば、
これは多米王・田目皇子のことであっても可笑しくない。
その皇太子に聖徳太子がつくこともあまりにも当然。

妄想のしめるシェアが増えてきてしまった。
多分、もう続かない。(笑)

[742] Re: 聖徳太子の母親は誰だ!その5 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/08(Sun) 01:03
> それと鬼前太后は、なんて読むのか?
> 「かむさき」神前ということだろうか。
> しかし、これを「いむくま」と読めないだろうか?
>
> そう読めるならば、「磐隈皇女・夢皇女」に近づく。
> 「いわくま」「いめ」

姫路の西部を流れる夢前川。

射目埼大神という神さんの名前からその名を頂いたようです(^^ゞ

[585] 面白いです! 投稿者:Minstrel 投稿日:03/05/27(Tue) 20:46
私も聖徳太子の親世代や子世代について、色々とインネンをつけようとたくらみますが、こうやって整理されると分かりやすいですね。
と同時に新たな興味が湧いたり、余計に分からなくなったり・・・。

面白いですが、奥が深いですね。大変です。(^_^;

[592] Re: 面白いです! 投稿者:ペギラ 投稿日:03/05/28(Wed) 10:16
> 面白いですが、奥が深いですね。大変です。(^_^;

そうですよ。(⌒‐⌒)

奥が深くて、大変だから、面白い!!

あら?どこが違うんだろう???(笑)

[579] 馬木王=馬子? 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/05/27(Tue) 11:00
> 古事記記述
> ●馬木王
> 父は欽明 母は母は宗賀稲目宿禰大臣の女、岐多斯比売之をば小兄比売

> 古事記記述の馬木王。
> この人が用明であった場合、馬木王の子が厩戸王。またその子が、馬屋女王
> みごとに繋がっていく。

馬木王と馬子の関係。。。と字面だけで反応してしまいました。

[574] Re: 聖徳太子の母親は誰だ!その2 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/05/27(Tue) 09:45
> 菟道貝蛸皇女から。

貝とか蛸とか。現代からみると「何だかなぁ?」という印象なんですが、これは当時の「女性らしさ」のイメージなんでしょうかね?

馬子も蝦夷も入鹿も男性らしさのイメージだったりして(爆)

[597] Re^2: 貝 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/05/28(Wed) 13:25
> > 菟道貝蛸皇女から。
>
> 貝とか蛸とか。現代からみると「何だかなぁ?」という印象なんですが、これは当時の「女性らしさ」のイメージなんでしょうかね?


ふと。ギリシャ神話での「アプロディテ」っていう神
ルネサンスの画家ボッティチェルリ作「ブィーナスの誕生」
思い出してしまいました。

[599] Re^3: 貝より蛸 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/05/28(Wed) 18:03
> ふと。ギリシャ神話での「アプロディテ」っていう神
> ルネサンスの画家ボッティチェルリ作「ブィーナスの誕生」
> 思い出してしまいました。

私は蛸ということで「北斎漫画」を思いだしてしまいました(笑)
本編は覚えてませんけどね、いや通して観たかさえ記憶が定かではありませんが。

[578] Re^2: 聖徳太子の母親は誰だ!その2 投稿者:ペギラ 投稿日:03/05/27(Tue) 10:40
> > 菟道貝蛸皇女から。
>
> 貝とか蛸とか。現代からみると「何だかなぁ?」という印象なんですが、これは当時の「女性らしさ」のイメージなんでしょうかね?
>
> 馬子も蝦夷も入鹿も男性らしさのイメージだったりして(爆)

ある面、蔑称みたいな意味合いもあると思っています。
妖艶な魔性の女。かもねぎ。(笑)

[575] Re^2: 聖徳太子の母親は誰だ!その2 投稿者:大三元 投稿日:03/05/27(Tue) 09:49
ロトさん、

> 貝とか蛸とか。現代からみると「何だかなぁ?」という印象なんですが、これは当時の「女性らしさ」のイメージなんでしょうかね?

丹波アヂサバ姫、というのもいますね。
チャチャ入れです。

[588] Re^3: 聖徳太子の母親は誰だ!その2 投稿者:hn2602 投稿日:03/05/27(Tue) 22:54

> > 貝とか蛸とか。現代からみると「何だかなぁ?」という印象なんですが、これは当時の「女性らしさ」のイメージなんでしょうかね?
>
> 丹波アヂサバ姫、というのもいますね。
> チャチャ入れです。

出雲神話に出てきたと思うのですが、キサガイとか、たしか「貝」が二人いたような・・・・。(すみません。古事記が行方不明で。チェックできないものですから。)

[589] Re^4: 聖徳太子の母親は誰だ!その2 投稿者:大三元 投稿日:03/05/27(Tue) 22:57
>
> > > 貝とか蛸とか。現代からみると「何だかなぁ?」という印象なんですが、これは当時の「女性らしさ」のイメージなんでしょうかね?
> >
> > 丹波アヂサバ姫、というのもいますね。
> > チャチャ入れです。
>
> 出雲神話に出てきたと思うのですが、キサガイとか、たしか「貝」が二人いたような・・・・。(すみません。古事記が行方不明で。チェックできないものですから。)

キサカヒヒメ、ウムカヒヒメ ですね。これらって、
キサカヒメ  ウムカヒメ  なのかも、とは思ってますが、だからと言って、特に何も進展しそうもないので、バッファにしまってあるだけです。

[577] Re^3: 聖徳太子の母親は誰だ!その2 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/05/27(Tue) 10:10
> 丹波アヂサバ姫、というのもいますね。
> チャチャ入れです。

これは、「オカマらしさ」・・・・。失礼しました(爆)

[554] Re: 聖徳太子の母親は誰だ!その1 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/05/25(Sun) 16:46
あれっ?聖徳太子ネタには参加しなかったはずじゃ(^^ゞ

ところで、みんなよく解からない人ばかりなんですが、

>この佐富女王を長谷部王が娶って、葛城王と多智奴女王が生まれている。

この葛城王って誰のことですか?

[555] 上宮記っていうと 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/05/25(Sun) 16:54
上宮記逸文っていうと、継体天皇のアレをアレしてるやつですよね?っていうか記紀の継体系譜の根本ではないか?って言われてる系譜を載せているやつですよね?

こんなのも残ってたのははじめてしりました(@@)

どこかウェブ上で逸文の全文紹介しているとことかありますかね?

[557] Re: まとめて 投稿者:ペギラ 投稿日:03/05/25(Sun) 17:40
>この葛城王って誰のことですか?

謎が謎呼ぶ殺人事件〜。。。わかりません。(笑)

聖徳太子は宗教の話なので、参加する余地が私にはありませんでしたが、
系譜に関しては少々。以前に、ぶちあたりましたので。

> 上宮記逸文っていうと、継体天皇のアレをアレしてるやつですよね?っていうか記紀の継体系譜の根本ではないか?って言われてる系譜を載せているやつですよね?
>
> こんなのも残ってたのははじめてしりました(@@)
>
> どこかウェブ上で逸文の全文紹介しているとことかありますかね?

ウェブ上で、見たことありませんね。
「聖徳太子平氏伝雑勘文下三」です。
継体のように、釈日本紀ではありません。

自分も図書館で探しましたが、現物見つかりませんでした。
もっと大きな図書館しか、ないみたい。
内容は「上宮聖徳法王帝説」の系譜と大体同じだと思いますが。

[629] 天武天皇は何故「日本書紀」にあまり出てこないのか? 投稿者:安部奈亮 投稿日:03/05/29(Thu) 21:40
といいながら、私は「日本書紀」は一度も読んだことがないのですが、話によると、「日本書紀」では天武天皇の初出は例の天智天皇の宴会で槍を振り回して暴れるシーンであるらしい。王朝の創始者の扱いにしてはおかしい。しかも、出てきたときにはすでに大友皇子の対抗馬である。

そのことから、天武天皇新羅人説などを考えている人もいる。

そこで、私は考えたのですが、大海人皇子は白江村の戦いにおける日本軍の総司令官だったのではないでしょうか?

日本百済連合軍の三軍(前・中・後)の各司令官は「日本書紀」に記録されているのにもかかわらず、全軍の総司令官は書かれていないそうです。これが大海人皇子だと考えてみる。

日本としては、唐と新羅と戦った軍隊の総司令官が、今の王朝の創始者だとは公開できない。唐と新羅としても、そのようなことを蒸し返してせっかく安定した三カ国の関係に波風は立てたくない。

となると、公式記録の「日本書紀」の天武天皇の経歴をまるっきり消してしまったことも納得できると思うのです。


大海人皇子が全軍の司令官であったとすれば、天武天皇があれほど弟を恐れたのも理解できます。ナポレオンが再起したように、将軍や兵士から信頼されている司令官というのは、一回負けたくらいではなかなか人望を失わない。事実、壬申の乱では東国の官軍は大津京政権には従っていないのです。

[631] Re: 天武天皇は何故「日本書紀」にあまり出てこないのか? 投稿者:ペギラ 投稿日:03/05/29(Thu) 23:14
まさか、安部さんのレスで物言うことがあるとは思いませんでした。
(σ゜д゜)σ

毎日、日本書紀のどこかを読んでいる私も、
日本百済連合軍の総司令官を大海人皇子だと思っています。

槍を回して暴れるは、日本書紀ではありません。ついでに。

じゃ、実際は誰なんだ!ということになると、
もうこれは、あの人しかいません。
そうです。
余豊。

壬生部の多氏の娘を妻にし、などなど細かく言えば
いくらでも。。
究極は、文武天皇。
和風諡号は倭根子豊祖父、天之真宗豊祖父天皇

じじいは、豊だということです。

[632] Re^2: 天武天皇は何故「日本書紀」にあまり出てこないのか? 投稿者:勇者ロト 投稿日:03/05/29(Thu) 23:45
> まさか、安部さんのレスで物言うことがあるとは思いませんでした。
> (σ゜д゜)σ
>
> 毎日、日本書紀のどこかを読んでいる私も、
> 日本百済連合軍の総司令官を大海人皇子だと思っています。

ほう!
総司令官が書いてない。。
これは全く気がつきませんでした(@_@)

> 槍を回して暴れるは、日本書紀ではありません。ついでに。

藤氏家伝でしたか?

> じゃ、実際は誰なんだ!ということになると、
> もうこれは、あの人しかいません。
> そうです。
> 余豊。

余豊璋だけに、予報しよう。失礼しました。

余豊璋は百済完全壊滅時に新羅に逃げたそうですね。
だから新羅人説とやら湧いて出た。ということなのかな?

> 壬生部の多氏の娘を妻にし、などなど細かく言えば
> いくらでも。。
> 究極は、文武天皇。
> 和風諡号は倭根子豊祖父、天之真宗豊祖父天皇

> じじいは、豊だということです。

いや、それは武豊かもしれない(爆)

というのはさておき、金田一シリーズを逆転させたような血縁関係ですね>斉明親子

[633] Re^3: 天武天皇は何故「日本書紀」にあまり出てこないのか? 投稿者:ペギラ 投稿日:03/05/29(Thu) 23:51
> 余豊璋だけに、予報しよう。失礼しました。
>
寒冷前線に伴う寒波というところでしょうか。

> 余豊璋は百済完全壊滅時に新羅に逃げたそうですね。
> だから新羅人説とやら湧いて出た。ということなのかな?
>
高句麗です。
逃亡しただろうという所は。

[635] Re^4: 天武天皇は何故「日本書紀」にあまり出てこないのか? 投稿者:勇者ロト 投稿日:03/05/30(Fri) 00:22
> 寒冷前線に伴う寒波というところでしょうか。

冷凍怪獣を呼び出す罠です(自爆)

> 高句麗です。
> 逃亡しただろうという所は。

高句麗でしたか!
この人の高句麗への逃亡後の足取りは全くつかめてないのですか?

[636] Re^5: 天武天皇は何故「日本書紀」にあまり出てこないのか? 投稿者:ペギラ 投稿日:03/05/30(Fri) 10:19
> この人の高句麗への逃亡後の足取りは全くつかめてないのですか?

歴史から消えています。

[738] Re^6: 天武天皇は何故「日本書紀」にあまり出てこないのか? 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/08(Sun) 00:49 <URL>
うーん。それは怪しい・・・・・ということでスレッドをあげておきます(^^ゞ

[587] 物部氏族のルーツ 投稿者:SM 投稿日:03/05/27(Tue) 22:05
神話的には、高天原か ?

家系的には、出雲族なのか ?

歴史的には、筑紫か、石見か ?

石上神社の神は出雲の布都御魂だし。

[686] Re: 後付けか? 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/02(Mon) 09:05
いろいろと正確な見解ありがとうございました。
文献によってまちまちなのを、すべてごっちゃまぜにして考えてましたので整理がつきました。ありがとうございました。

私に課せられた課題は、ウガヤフキアエズ尊在位580年の矛盾、どう考え直すか。(明かに1代で史実とはなりません。)
実は10倍説だったか・実は20代近く続いたのか?
等と、ニギハヤヒ命と天火明命の関係だと思います。

1つの文献で考えるとあきんどさんの仰せの通りになることは確かです。
私としては、この不確定要素が、ニギハヤヒ命は後から、天孫族に組み込まれたとも思える所でもあります。

[697] 神代物語 投稿者:SM 投稿日:03/06/04(Wed) 04:30
記紀の世界誕生から神武天皇誕生にいたる神代物語は、
日向高千穂で生まれたのでしょうか、
奈良大和で生まれたのでしょうか。

[700] Re: 神代物語 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/04(Wed) 08:52
> 記紀の世界誕生から神武天皇誕生にいたる神代物語は、
> 日向高千穂で生まれたのでしょうか、
> 奈良大和で生まれたのでしょうか。

私は、以前は、出雲伝承神話がベースになって、日向神話が組み込まれていたと考えてましたが、いろいろな方々の意見を聞いてるうちに、北部九州や、大和等が入り乱れて、気持ちが揺れ動いてます。

ただ、天照がこれらの神話の接着剤になってるような気がしてます。
実は私の考えも時期によって違うので。(苦笑)

[710] 地上の縁と天の生産 投稿者:SM 投稿日:03/06/05(Thu) 09:55
出雲の神々は地上の縁を大切にし、天の神々は、天からの誕生と支配の論理をもって、世界、地、島を産み、日本列島諸国を統一したことになっていますが、この出雲の地上の論理と神代・高天原・天孫の天の論理は、それぞれ、どのようにして生まれたのでしょうか。

神代神話では、天から天之御中主神、高産巣日神、神産巣日神が生まれ、続いて、高産巣日神、神産巣日神、そして、彼と彼女が産んだ神々が世界を産んでいき、最後に、イザナギから生まれ、高天原を支配することを任じられた太陽女神の直系子孫が、日本列島の諸国を統一支配するために、その権限を象徴する三種神器をもって、天下りして、出雲の国譲りを受けて、統一国家日本建国を果たしたことになっています。

神武軍は、このことを、武力の強さによって果たしたのではなく、地上を超えた天の宗教的力によって成したのでした。天の力が地上の力に勝ったのでした。

天・高産巣日神の命を受けて、物部族が十握刀を神武天皇に献上して、軍事総指揮権を神武天皇に譲り、石上神社を武器庫として、天皇の軍隊となりました。
ここで、神武天皇と物部とをつないだのは太陽神でした。
物部は、太陽信仰をもって、天孫に妥協して、出雲族と天孫族の間をとりもったのでした。

しかし、物部族には、太陽信仰はあっても、神代物語はありません。

この神代物語はどこで生まれたのでしょうか。日向の高千穂においてでしょうか。

[713] Re: 地上の縁と天の生産 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/05(Thu) 19:33
> この出雲の地上の論理と神代・高天原・天孫の天の論理は、

このような論理も聞いたことないのですが?一体どこにありますか?

>それぞれ、どのようにして生まれたのでしょうか。

論理については全く知りませんが、「天地の概念」は中国の陰陽思想に則って「支配被支配」に当てはめたものだと思ってました。

[716] Re^2: 地上の縁と天の生産 投稿者:SM 投稿日:03/06/05(Thu) 21:55
> > この出雲の地上の論理と神代・高天原・天孫の天の論理は、
>
> このような論理も聞いたことないのですが?一体どこにありますか?
>
> >それぞれ、どのようにして生まれたのでしょうか。
>
> 論理については全く知りませんが、「天地の概念」は中国の陰陽思想に則って「支配被支配」に当てはめたものだと思ってました。

地上の縁はヨコ関係の論理だと思います。

天の男神と女神が次々と子の神々を産み、最後に天下って、地上の国を支配するというのは、天の論理、タテ関係の論理だと思います。

[719] Re^3: 地上の縁と天の生産 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/05(Thu) 22:34
> 地上の縁はヨコ関係の論理だと思います。
>
> 天の男神と女神が次々と子の神々を産み、最後に天下って、地上の国を支配するというのは、天の論理、タテ関係の論理だと思います。

「えにし」でしたか、「みどり」かと思っていました(自爆)

いずれにせよ、SMさんが「そう思って」らっしゃるだけなのですね。了解しました。

一般的な情報、見方、見解と、SMさんご自身だけの見解の区別がつきませんので、今後はその点に留意して投稿してください。

あまり紛らわしく解りにくい投稿は今後削除させていただくかもしれませんので、その点に気をつけて今後の書き込みしてくださいね。

よろしくお願いいたします。

[712] えっ? 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/05(Thu) 19:29
> 出雲の神々は地上の縁を大切にし、

えっそうなんかですか!!!!!!
これってどこに書いてますか?

[715] 地上の縁組 投稿者:SM 投稿日:03/06/05(Thu) 21:46
大国主命は縁組の神様と云われますね。
彼は、行く所毎で、女性と縁を結びましたね。

これは地上のヨコ関係の論理だと思います。

[714] Re: えっ? 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/05(Thu) 19:58
> > 出雲の神々は地上の縁を大切にし、

もしかして、イソタケルノミコトの事をおっしゃってます?

[711] Re: 地上の縁と天の生産 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/05(Thu) 13:26
> この神代物語はどこで生まれたのでしょうか。日向の高千穂においてでしょうか。

個人的には、日向高千穂において、国生神話、イザナキ・イザナギ神話が生まれたとは思ってません。

イザナキが日向に訪れたのは、黄泉国神話を日向神話につなげるための創作神話だったかもしれないと思ってます。(これが出雲伝承神話か大和系神話を参考にされたかもしれないと思ってます。)

国生神話、イザナキ・イザナミ神話・黄泉国神話・高天原神話は、古い文献が記憶保存出来ていた、出雲伝承神話が元になってるように思ってました。

ですが、高天原神話に関しては記紀神話等は大和朝廷のものでもありますので、大和系の神話が元になってるかもしれないとも思うこともありますし、あるいは、出雲以前に宇佐周辺九州北部が日本の夜明けで、ここに古い伝承神話が記憶されつずけていたのかなぁと考えたりもします。

神話伝承能力とも関係すると思います。風土記なども参考になると思います。
難しい所だと思います。

[590] Re: 物部氏族のルーツ 投稿者:hn2602 投稿日:03/05/27(Tue) 23:02
> 神話的には、高天原か ?
>
> 家系的には、出雲族なのか ?
>
> 歴史的には、筑紫か、石見か ?
>
> 石上神社の神は出雲の布都御魂だし。

私は物部氏の起源は比較的新しいのではないかと考えています。「尾張氏」から分出したのではないかと?

「オオトモ」(大伴、大部)と同じような「モノノベ」(物部)で、天皇氏の覇権確立後に、伴造諸氏族の「統率」を任された「氏族」として形成されたのではないかと思います。あるいは、氏族そのものの起源は古いが、名称のみ新しいのかも知れません。

[600] Re^2: 物部氏族のルーツ 投稿者:あきんど 投稿日:03/05/28(Wed) 19:09
> 「オオトモ」(大伴、大部)と同じような「モノノベ」(物部)で、天皇氏の覇権確立後に、伴造諸氏族の「統率」を任された「氏族」として形成されたのではないかと思います。あるいは、氏族そのものの起源は古いが、名称のみ新しいのかも知れません。

その区分による物部は和邇系の物部です。
これは物部首と呼び、物部連とは別系です。

[602] Re^3: 物部氏族のルーツ 投稿者:hn2602 投稿日:03/05/28(Wed) 21:24
> > 「オオトモ」(大伴、大部)と同じような「モノノベ」(物部)で、天皇氏の覇権確立後に、伴造諸氏族の「統率」を任された「氏族」として形成されたのではないかと思います。あるいは、氏族そのものの起源は古いが、名称のみ新しいのかも知れません。
>
> その区分による物部は和邇系の物部です。
> これは物部首と呼び、物部連とは別系です。

「モノノベ」の職掌自体は「連」と「首」でどのように異なっていたか、また「連」が何故「伴造」氏族的名称を持っているのかの説明が必要となるように思います。勿論尾張氏や穂積氏の支族が物部氏ではないかという私の推測も系譜的なものしか根拠はあまりないのですが。

[603] Re^4: 物部氏族のルーツ 投稿者:あきんど 投稿日:03/05/28(Wed) 22:41
> 「モノノベ」の職掌自体は「連」と「首」でどのように異なっていたか、また「連」が何故「伴造」氏族的名称を持っているのかの説明が必要となるように思います。勿論尾張氏や穂積氏の支族が物部氏ではないかという私の推測も系譜的なものしか根拠はあまりないのですが。

物部氏というものをどのように捉えているかがポイントです。
物部氏という集団の範囲はいろいろあります。
まず、順番に範囲を縮めて説明します。

もっとも広義の物部氏は
ニギハヤヒの降臨時に含まれていた集団全部です。
当然、尾張氏もこれに含まれます。
ちなみに、海部氏は尾張氏の支流です。

二番目は、ニギハヤヒ直系の集団です。
これにも尾張氏も含まれます。

三番目は、宇摩志麻遅命の子孫です。
通常はこれが物部氏と呼びます。
これには尾張氏は含まれていません。
尾張氏は宇摩志麻遅命の兄天香語山命の系統です。
二番目のグループに尾張氏が含まれるのは
ニギハヤヒ直系集団の宗家を宇摩志麻遅命が継承したと思われるからです。

四番目は、伊香色雄命の子孫です。
穂積氏はこれに含まれている場合もありますが
別扱いの場合が多いです。
これは穂積氏と物部連の分れが文献や系譜等により違いがあり
はっきりとしないことが理由の1つです。

五番目は、十市根命と大新河命の2系統
これが物部連系統です。
この2人が垂仁により、物部連を賜わり、
以後氏族名として物部連を名乗ります。
よって、これ以降が物部氏であり
これ以前の氏族名は不明です。

ニギハヤヒの子孫の物部氏は大豪族です。
その一族と眷属は日本中に存在します。
「伴造」氏族ではありません。

但し、皇別諸族の勃興で物部氏は徐々に衰退し
大王家の「伴造」氏族色が増しますが、基本的には違います。
一時盛り返します。
ですが、物部守屋の滅亡時に大幅に衰退
この時に厩戸皇子に大量の領土を削られます。
物部氏の惣領権を蘇我氏が継承しますが
これも大王家に滅ぼされ
結果、物部氏は、その他大勢の豪族と同じに成り果てます。

ちなみに
物部首は和邇系の部族です。
石上神社に奉仕した氏族でして、これは「伴造」氏族です。

なお、これらは
天孫本紀、記紀、姓氏録を基本とした場合です。

つまり
尾張氏の祖の火明命とニギハヤヒを別人としますと
話は変わってきます。
海部氏勘注系図を見る限り
尾張氏と物部氏は系譜的に混在していることも事実でして
尾張氏の支流が物部氏というご指摘も否定は出来ないと思われます。
ただ
個人的にはこの混在している部分の系譜には引っかかる点が多くあり
あんまり信用していません。

う〜ん
説明になってないな(^^;

[604] 一部訂正 投稿者:あきんど 投稿日:03/05/28(Wed) 22:47
> よって、これ以降が物部氏であり
> これ以前の氏族名は不明です。

よって、正確にはこれ以降が物部氏であり
これ以前の氏族名は不明です。

> 但し、皇別諸族の勃興で物部氏は徐々に衰退し
> 大王家の「伴造」氏族色が増しますが、基本的には違います。
> 一時盛り返します。
> ですが、物部守屋の滅亡時に大幅に衰退

但し、皇別諸族の勃興で物部氏は徐々に衰退し
大王家の「伴造」氏族色が増します。
ですが、基本的には違います。
そして、一時的に勢力も盛り返しますが
物部守屋の滅亡時に大幅に衰退

[605] ニギハヤヒと火明と出雲 投稿者:あきんど 投稿日:03/05/28(Wed) 23:56
出雲と物部氏の関係というより、ニギハヤヒとの関係

これはニギハヤヒと火明尊を同一人物と見なすかによって分れると思います。
両者と出雲の関係を文献ごとに整理します。

天孫本紀と海部氏勘注系図は同一説をとっていますが
あくまでも、記紀と同様に出自は天孫族とします。
但し、海部氏勘注系図では出雲色が濃くなっています。

これは立地的な関係もあると考えられます。
海部氏勘注系図は丹後であり、
この地域はかつて出雲の勢力圏に入っていた形跡もあり
これが関係しているようです。

但馬故事記では
火明尊とニギハヤヒは同一している場合と別人としている場合が見られます。
そして、火明尊は出雲系、ニギハヤヒは天孫系という性質を持っています。

播磨風土記では、
火明尊だけですが、これは完全に出雲系です。
大国主尊の息子が火明尊です。

因幡伊福部臣古志では
ニギハヤヒが出雲系とされます。
大穴牟遅命、又は大己貴命の子とされる人物が
ニギハヤヒの又の名とされる名称と同じであり、
この数代後にニギハヤヒがいます。
つまり、出雲系です。

全体として
基本的に出雲に近いほど、出雲系とされる傾向があり
ヤマト方面は天孫という形になっています。
両者を同一とした場合はその判断は難しいのですが
これを別人とすると
火明尊に関しては出雲色が強く
ニギハヤヒは天孫色が強いと思われます。

唯一、ニギハヤヒを出雲系としている伊福部臣古志ですが
これは少し気になる点があり
異伝によると、武内宿禰が物部氏とされるところや
孝元が物部氏の出自と判断せざる得ない記述があり
ちと、判断に困る点があります。
ただ、ここれ記されている天孫本紀や海部氏勘注系図と違う系譜は
但馬故事記の系図と重なる点もあり
否定は出来ないかもしれません。

[607] Re: ニギハヤヒと火明と出雲 投稿者:hn2602 投稿日:03/05/29(Thu) 01:04

> 全体として
> 基本的に出雲に近いほど、出雲系とされる傾向があり
> ヤマト方面は天孫という形になっています。
> 両者を同一とした場合はその判断は難しいのですが
> これを別人とすると
> 火明尊に関しては出雲色が強く
> ニギハヤヒは天孫色が強いと思われます。

私は「ニギハヤヒ」はどちらかというと、「太陽神」の神格を顕す「神名」であって、「火明命」は神代と人代をつなぐ、いわば氏族の具体的な「名」(実在性については?ですが)を持つ始祖と観念されていたのではないかと考えています。ただ「ニギハヤヒ」と「ホアカリ」の関係については逆に考えた方が良いかもしれないと思うことがあります。でも一応今のところは太陽神「ニギハヤヒ」を斎く、「天火明命」の子孫集団が「尾張氏」であって、その集団が天皇氏に従って「后妃」を出し、それに随従して大和に出仕した族人が、「伴造」となり、更に多くの「伴造氏族」の宰領権を得て「物部氏」に成長したという仮説を立てているのですが、勿論証拠も何もありません。ただ「物部王朝説」をとりませんので、その場合「物部氏」をどう考えるかというシミュレーションの一つというのが、実際のところです。

尚、尾張氏の本拠地についても、ある時は伊勢湾沿岸、ある時は三遠式銅鐸の分布地域と、動揺を繰り返しています。

出雲については想定方言(東国?中央〜西日本方言?)の帰属問題も含め、なかなかすっきりした考えがまとまりません。

[610] Re^2: ニギハヤヒと火明と出雲 投稿者:あきんど 投稿日:03/05/29(Thu) 02:52
あくまでも、自分のレスは
客観的に各史料に記されている事実を記しただけですからね
文献からは太陽神かどうかはわかりません。
その他のいろいろな人の仮説はありますし
自分も個人的な仮説は持っていますが
これはあくまでも仮説でしか無い訳です。
まあ
物部氏の区分は自分が勝手に分類している訳ですし
恣意性が無い訳ではない
ですが
ニギハヤヒと火明尊については確認できる事実を述べているだけ
これは、ある意味ぼやかして逃げている訳です。
正直言いまして物部氏は奥が深くて、よくわからないというのが本音です。
だから
事実だけを述べるだけで逃げたんですけどね

しかし、よくよく考えますと
大本の質問の趣旨はhn2602さんのような
レスで良いのかも知れませんね

現段階の自分が個人的見解は
ニギハヤヒと火明尊は別人であり、同一であるというものです。
何か、よくわからないと思われるかもしれませんが
そうとしか言えません。
どうやら、ニギハヤヒも火明尊も特定の人物では無いようで
同一人物に擬された人物も確かにいることはいるんですが
基本的にはそれぞれに複数存在すると思われます。
両者とも祖先神として「ニギハヤヒ」「火明尊」を奉じている面があり
祖先の霊を継承している者が
ニギハヤヒ或は火明尊を名乗っていると想定しています。

系譜を照合する限り、恐らく火明尊の方が古いと想定しているのですが
この逆の結果を表す、モノもあり、不確定状態です。

また、尾張氏は海人族の伝えもあり
この点がよくわかりません。
もしかすると、尾張氏は2つの部族の合体したものかもしれません。

ニギハヤヒに関しては出雲系と思えません。
上手く言えませんが、臭いが違う
しかし、天孫系とも違うような気はするんです。

火明尊に関しても出雲系の空気が強いのですが
記紀にもあるように、天孫系の空気も濃厚にある。
しかも
海人族の火明尊と山人族の火明尊と2種類存在する。

同一人物という史料も豊富にあり
別々とする史料も豊富にある。
調べれば調べほど深みにはまって行きます。

だから、物部氏・尾張氏の出自について
調べるのは無期延期としています。
どのような仮説を立てても自分自身が納得できないという感じで
仕方が無い状況です。

[606] 石見の物部氏 投稿者:あきんど 投稿日:03/05/28(Wed) 23:59
石見の物部氏は物部竹古連公の子孫です。
景行の御世に石見国造となり
その子孫が物部神社の司祭者となっています。

[609] Re: 石見の物部氏 投稿者:SM 投稿日:03/05/29(Thu) 02:39
色々と詳しい説明有難うございます。
私は全く日本史の素人なのですが、日本文化の中に生まれ、育ったので、立ち入らさせて頂きました。ITにこのようなプログラムを発見できて、大変感動しています。昨夜、「物部氏万歳」を読みはじめたら、やめられませんでした。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

物部族のことについて、壱岐島にルートがあるのではないかということにはうなづけます。

一つ強く気になることは、物部の着いた所には、神奈備山、磐船があり、石上神社には聖石があることと、布留御魂、布都御魂を祀っているということです。

この原型は、出雲の楯縫郡神名樋山・大船山(平田市多久町)に見ることができるのではないでしょうか。

大船山の山頂近くには、今も、「烏帽子岩」と呼ばれる大岩があり、まわりには大小の岩があり、この山が、「鳥上の山」と呼ばれたとも考えられかもしれません。
出雲国風土記には、日照りのときにこの「石神」を祭れば、かならず雨が降る、と書かれています。この石神は雨乞いの神でもありました。古代出雲人は、この銅鐸、銅剣、銅矛を振って、厄除開運、招福を祈って、鈴を鳴らし、野山の生き物、地霊の荒魂を鎮め、日照りが続くと、天に雨を乞うたのでしょう。その頃、銅鐸の鈴が銅剣、銅矛と一体となって宗教用具として使われていたといわれます。磨かれた銅はキラキラと輝いたのでしょう。
この「振る」の魂は布留御魂大神でしょうか。
この剣の魂・霊は出雲の守護神・經都魂命・布都御魂神でした。この神は防衛の剣の魂・霊でした。平田市には、東郷町と小津町に、二つの石上神社があって、両社とも經都魂命が祀ってあります。平田市平田町の宇美神社にも布都御魂神が祀られています。宇美神社は「海」神社でしょうか。

物部氏祖神・饒速日尊は飛行船・天磐船に乗ってきて、神奈備山・生駒山の河上哮峯に着陸しました。この磐船は今もあります。

ここでどうして、太陽神・饒速日尊と出雲の石信仰が結びついたのでしょうか。
そして、どうして、神武天皇の着く前に、出雲文化ををもって大和国を作ったのでしょうか。
大国主は大和の国の主でもありました。
大和の石上神社のある所は、大和の神奈備山・三輪山の麓に近い現天理市の布留川の畔です。

[611] 物部氏万歳だけ教えて 投稿者:あきんど 投稿日:03/05/29(Thu) 03:19
>「物部氏万歳」を読みはじめたら、やめられませんでした。

これって何ですか?


[614] Re: 物部氏万歳だけ教えて 投稿者:SM 投稿日:03/05/29(Thu) 07:14

『  Yahoo 内「日本史掲示板」のトピックスです。

物部氏万歳!アンチ聖徳太子集まれ! 321 2003 』

をご覧ください。

[623] ありがとうございます。 投稿者:あきんど 投稿日:03/05/29(Thu) 18:38
> 『  Yahoo 内「日本史掲示板」のトピックスです。
> 物部氏万歳!アンチ聖徳太子集まれ! 321 2003 』
> をご覧ください。

ありがとうございます。

早速、覗いてみました。

むむむ
小生のような若輩者ものでは理解できないハイレベルな内容ですな

これからは
博識で情報通の方々が多いあちらの方で質問された方が良いと思います。

[591] Re^2: 物部氏族のルーツ 投稿者:SM 投稿日:03/05/28(Wed) 01:28
海部は海を扱う氏族(海産物)で、物部は物を扱う氏族(大蔵、通産、住宅・道路・御陵建設・軍事など)だったのでしょうか。

それにしても、氏族そのものの起源はどうなのでしょうか。

新羅・出雲族の一部だったのでしょうか。
でも、
出雲には太陽信仰はないようですし。

百済・筑紫・高天原であれば、どうして、神武天皇、そして、蘇我氏と衝突したのでしょうか。

[643] Re^3: 物部氏族のルーツ 投稿者:hn2602 投稿日:03/05/30(Fri) 16:07
正直なところ、私には「出雲」と「大和」の異質性が気になり、物部氏のような大和の氏族を、軽々に出雲と関係付ける気にはならないのですが。同じように「新羅」と出雲の関係も「スサノオ」が新羅にいたという伝承も含め、どう考えたら良いのかまだ考えがまとまりません、

[644] Re^4: 物部氏族のルーツ 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/05/30(Fri) 16:59
> 正直なところ、私には「出雲」と「大和」の異質性が気になり、物部氏のような大和の氏族を、軽々に出雲と関係付ける気にはならないのですが。


言われてみればそうですよね。

私は、最近出雲神話は、紀元前8,9辺りのことではないかとも思えてまいりました。

ギリシャ神話でさえ、紀元前13から20辺りの投影だったかもしれないと、かすかにではありますが記憶してます。

出雲もギリシャも、海沿いで、交易で栄えたんだと思ってますが、出雲と内陸大和の物部は結び付くんでしょうか?

[647] Re^5: 物部氏族のルーツ 投稿者:SM 投稿日:03/05/31(Sat) 00:50
> 出雲もギリシャも、海沿いで、交易で栄えたんだと思ってますが、出雲と内陸大和の物部は結び付くんでしょうか?

大和には、太陽族・物部族と蛇族・出雲族は別のルートで入ったように思います。

太陽族・物部族は瀬戸内海から難波に至り、阿倍野から河内を開き、生駒山を族神の太陽神・饒速日命を神体とする神奈備山とし、生駒の先住民、長髄彦と縁を結び、大和に入りました。

経津主命は、天兒屋根命、比賣御神、武甕槌命とともに、神奈備山・生駒山の神津嶽に本宮がある枚岡神社に祀られていますが、ここには大国主命も須佐の男命は祀られていなく、出雲色は薄いです。

物部族が天孫族と関係があるとすれば、生駒山と霧島の生駒大原の関係が気になります。

蛇族・出雲族の大和入りの一つのルートは、出雲から丹後、若狭、近江・琵琶湖、山城から入り、三輪山を蛇を神体とする神奈備山としました。ここから熊野を辿って南に行くと紀伊に出ます。紀伊には船でも出雲族が来ていたのでしょう。那智の滝の神は大国主命です。
三輪山からは大和川が流れ、難波の海に通じていますが、この難波の海から大和川を出雲族も物部族も三輪山麓に至ったでしょう。三輪山から東に行くと伊勢に行きます。ここで、出雲族と物部族が出会って、三輪山麓に私市が開かれ、大和文化が拓かれたのではないかと思います。大和神社は大国主命を大和の主としたようです。物部族の石上神社は生駒にはありませんが、ここにあります。

石上神社が難波の海の淡路島に三社あり、この島がイザナギ命とイザナギ命の生んだ最初の島でした。


これに関連して、地勢的に大台ケ原から西に大和川、北から西に淀川、南に紀ノ川、東に五十鈴川が流れ、大和盆地の文化形成を助けたのではないでしょうか。

[655] 質問っす 投稿者:あきんど 投稿日:03/05/31(Sat) 22:02
> 大和には、太陽族・物部族と蛇族・出雲族は別のルートで入ったように思います。

物部=太陽はわかりますが、出雲=蛇はわかりません。
これの根拠を教えて下さい。

記紀、出雲風土記等にそのような記述は無いと思うのですが
或は
考古学の方は、自分は弱いのですが、何か遺物等が見つかっているとしたら
それでも良いので教えて下さい。

> 太陽族・物部族は瀬戸内海から難波に至り、阿倍野から河内を開き、生駒山を族神の太陽神・饒速日命を神体とする神奈備山とし、生駒の先住民、長髄彦と縁を結び、大和に入りました。

大和への侵入ルートが瀬戸内海なのですね

出羽の物部文書、海部氏勘注系図、但馬故事記等は
いずれも日本海ルートとなっていまして、
天孫本紀、記紀はともに不明
このように自分の知る限り
物部氏関連の古文献は大抵、日本海ルートです。

ぜひ
瀬戸内ルートを記している文献があるなら教えて下さい。

> 経津主命は、天兒屋根命、比賣御神、武甕槌命とともに、神奈備山・生駒山の神津嶽に本宮がある枚岡神社に祀られていますが、ここには大国主命も須佐の男命は祀られていなく、出雲色は薄いです。

枚岡神社は中臣氏の氏神神社ですから
大国主も須佐之男も関係ありません。
また、元々経津主命、武甕槌命の2神は枚方に祀られていません。
これは鹿島・香取から勧請されたものです。
更に、この勧請されたものを藤原氏が春日へ勧請したのです。

あと
生駒・葛城山地一帯は出雲色薄くないと思います。
葛城一帯には、出雲色が一杯です。
また、国譲りの時の人物である天若日子は摂津に痕跡が多くあり
武甕槌命の子孫が河内にかつて存在しましたが?

[654] Re^6: 物部氏族のルーツ 投稿者:菊地元宏 投稿日:03/05/31(Sat) 14:55
私よりも通です。詳しい説明ありがとうございます。

> 大和には、太陽族・物部族と蛇族・出雲族は別のルートで入ったように思います。
>
> 太陽族・物部族は瀬戸内海から難波に至り、阿倍野から河内を開き、生駒山を族神の太陽神・饒速日命を神体とする神奈備山とし、生駒の先住民、長髄彦と縁を結び、大和に入りました。

正直な所、物部が天孫族だったとは考えてません。ニギハヤヒが天照と結びつくのは、観念上の世界のことだと思ってます。(天照も天の人であって、実在したとは思ってません。)

>
> 経津主命は、天兒屋根命、比賣御神、武甕槌命とともに、神奈備山・生駒山の神津嶽に本宮がある枚岡神社に祀られていますが、ここには大国主命も須佐の男命は祀られていなく、出雲色は薄いです。

SMさんのいわれることと石神神宮の存在を考慮すれば、出雲国譲りとタケミカズチ・剣・物部との関係は無視できなくなります。
とすると、さっき言った私の考えは矛盾してしまい、物部は、天孫族と考えなくてはならないということになります。(自爆)

>
> 物部族が天孫族と関係があるとすれば、生駒山と霧島の生駒大原の関係が気になります。

イメージがわきませんねぇ。そもそも、天孫族がすべて、現実世界でつながることには無理があると思われます。
神話は、観念的世界でのつながりを表現したと考えてます。

>
> 蛇族・出雲族の大和入りの一つのルートは、出雲から丹後、若狭、近江・琵琶湖、山城から入り、三輪山を蛇を神体とする神奈備山としました。ここから熊野を辿って南に行くと紀伊に出ます。紀伊には船でも出雲族が来ていたのでしょう。那智の滝の神は大国主命です。
> 三輪山からは大和川が流れ、難波の海に通じていますが、この難波の海から大和川を出雲族も物部族も三輪山麓に至ったでしょう。三輪山から東に行くと伊勢に行きます。ここで、出雲族と物部族が出会って、三輪山麓に私市が開かれ、大和文化が拓かれたのではないかと思います。大和神社は大国主命を大和の主としたようです。物部族の石上神社は生駒にはありませんが、ここにあります。

そのような気がしてきました。
>

> これに関連して、地勢的に大台ケ原から西に大和川、北から西に淀川、南に紀ノ川、東に五十鈴川が流れ、大和盆地の文化形成を助けたのではないでしょうか。

次第に出雲勢力を圧迫していったのでしょう。神武東征時は、大和はすでに、出雲の干渉をうけてなかったということだと思われます。

ありがとうございました。

[649] Re^6: 物部氏族のルーツ 投稿者:hn2602 投稿日:03/05/31(Sat) 02:05
> 大和には、太陽族・物部族と蛇族・出雲族は別のルートで入ったように思います。

物部氏の出自した部族は、私は尾張氏を出した部族と考えており、物部氏単独の大和進出は想定していないのです。「アメノホアカリ」は倭人諸部族連合を主導した「アメ(阿毎)氏」の一員で、倭人諸部族中、最初にヤマトに入った部族(いくつかの部族の連合体でしょう)の指導者(と考えられた存在)でしょう。
蛇族は半島南岸の越系水稲耕作民の部族を示すとすれば、これを「出雲族」というべきか、あるいは出雲神話を二層に分けて、スサノオ族とオオクニヌシ族としてそのどちらに宛てるかまだ判断に迷っています。

> 太陽族・物部族は瀬戸内海から難波に至り、阿倍野から河内を開き、生駒山を族神の太陽神・饒速日命を神体とする神奈備山とし、生駒の先住民、長髄彦と縁を結び、大和に入りました。

物部族の名称は別としてヤマトに入った最初の倭人の部族連合体の経路は宗だと思います。

> 物部族が天孫族と関係があるとすれば、生駒山と霧島の生駒大原の関係が気になります。

私は物部氏や尾張氏は倭人部族連合体の中心部族の指導的氏族の出身かその外戚氏族の出身だったと思います。そのため本来倭人の列島移住時の支配氏族の出身だった「ワカミケヌ」が来た時に刃向かえず、東遷して東国に去ったか、自分達の征服した「トミヒコ」の部族を裏切ったと考えたのですが、まあトンデモ説です。

>紀伊には船でも出雲族が来ていたのでしょう。那智の滝の神は大国主命です。

倭人と別経路でほぼ同時期に「越人」や「韓族」の部族もいろいろなルートで近畿地方に入ったと思っています。

> これに関連して、地勢的に大台ケ原から西に大和川、北から西に淀川、南に紀ノ川、東に五十鈴川が流れ、大和盆地の文化形成を助けたのではないでしょうか。

大和盆地を支配した部族が、西日本の中心的存在になることは、地形的要素が大きかったと思います。

[658] 蛇族! 投稿者:あきんど 投稿日:03/05/31(Sat) 22:30
> 蛇族は半島南岸の越系水稲耕作民の部族を示すとすれば、これを「出雲族」というべきか、あるいは出雲神話を二層に分けて、スサノオ族とオオクニヌシ族としてそのどちらに宛てるかまだ判断に迷っています。

蛇族のこと
hn2602さんも書いてる

ならばこちらでも

何故、出雲が蛇族なのか教えて下さい。


> 物部族の名称は別としてヤマトに入った最初の倭人の部族連合体の経路は宗だと思います。

経路もだ(^^;

う〜ん
瀬戸内経路の根拠が・・・
自分の調べた範囲では見つからん(TOT)

伝承等でも何でも良いです
何か、ご存知なら教えて下さい。

[664] Re: 蛇族! 投稿者:菊地元宏 投稿日:03/06/01(Sun) 10:51
> 何故、出雲が蛇族なのか教えて下さい。

私は、スサノオの退治したヤマタノオロチ族が、越の勢力だったと考えてましたが、出雲が蛇族と聞いて、もしや、スサノオ神話は出雲内での抗争だったのかと、ちらっと変化のきざしがあらわれてます。

越のヌナカワ姫と結ばれた大国主は、スサノオと6代離れた時代ですし。

でも、納得という段階には至ってないという状況です。

[660] Re: 蛇族! 投稿者:hn2602 投稿日:03/06/01(Sun) 00:10
> 何故、出雲が蛇族なのか教えて下さい。

出雲で「海蛇」(対馬海流に乗ってくるようですが)を迎える神事
があるようですが、これについては、私よりも詳しい方が多いと思いますので、返答を待たれては如何でしょうか?現在でも行われているように私は記憶しているのですが。

> 伝承等でも何でも良いです
> 何か、ご存知なら教えて下さい。

私は文献ではなく、例のHLAハプロタイプを根拠(そんなモン証拠になるか!とお叱りを受けそうですが)にしており、倭人の移動のトレーサー(追跡子)としてHLAーA24B52DRBI*1502を使うと、筑紫→吉備→大和という瀬戸内海ルートが、第一候補になります。

[662] Re^2: 蛇族! 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/01(Sun) 01:13
> 出雲で「海蛇」(対馬海流に乗ってくるようですが)を迎える神事
> があるようですが、これについては、私よりも詳しい方が多いと思いますので、返答を待たれては如何でしょうか?現在でも行われているように私は記憶しているのですが。

海蛇ですか?
しかし、それでは海人族系となりませんか?
その部族は出雲でも一部の部族だけと思いますし
仮に、その部族が出雲を一時的に支配していたとしても
それが大和まで進出したのか?

> 私は文献ではなく、例のHLAハプロタイプを根拠(そんなモン証拠になるか!とお叱りを受けそうですが)にしており、倭人の移動のトレーサー(追跡子)としてHLAーA24B52DRBI*1502を使うと、筑紫→吉備→大和という瀬戸内海ルートが、第一候補になります。

いや、証拠にはなります

ですが
それでは、物部族としなくても言い訳ですね
例えば
神武の東征もありますし、応神もです。
邪馬台国の東遷説もあります。

この移動グループをニギハヤヒとする根拠は無い訳ですよね
もしかすると
HLAーA24B52DRBI*1502を持っている部族が
物部系という訳なんでしょうか?

[666] Re^3: 蛇族! 投稿者:hn2602 投稿日:03/06/01(Sun) 12:12

> 海蛇ですか?
> しかし、それでは海人族系となりませんか?

従って私は、半島南岸に到達していた「江南系」越族の内、(百越といわれるくらい雑多な諸部族の総称が越ですので)海人的要素の多い集団だった可能性は排除できないと思っています。
ただ「海人族」でなく、水稲耕作民でも良いとも思い、決めかねています。

> その部族は出雲でも一部の部族だけと思いますし
> 仮に、その部族が出雲を一時的に支配していたとしても
> それが大和まで進出したのか?

「越」系の部族民は、倭人諸部族の同盟者か従属部族として「大和入り」したというのが、私の基本的考えです。民族移動時には、中心的部族(いわば「盟主」とでもいいましょうか)の他に、多くの同民族、異民族に属する「連合部族」socii(society,socialの語源)や、従属部族が参加するのが、通常であり、日本への、又日本列島内での、「民族移動」も同様であったと私は考えています。

> この移動グループをニギハヤヒとする根拠は無い訳ですよね
> もしかすると
> HLAーA24B52DRBI*1502を持っている部族が
> 物部系という訳なんでしょうか?

記紀神話を信頼して、「ワカミケヌ」の大和入りの前に、同じ「天孫族」の「ニギハヤヒ」が先行して「ヤマト」に入り、先住民の「ナガスネヒコ(トミヒコ)」の一族と縁組し、且つ彼らを支配していたという話を、日本建国のストーリーに組み入れたからです。
上述のハプロタイプは、倭人集団の中心的(最多)ハプロタイプであり、筑紫、吉備、その他の倭人地域国家の中心的部族・氏族は共有していたと考えています。

[675] Re^4: 蛇族! 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/01(Sun) 14:54
> 従って私は、半島南岸に到達していた「江南系」越族の内、(百越といわれるくらい雑多な諸部族の総称が越ですので)海人的要素の多い集団だった可能性は排除できないと思っています。
> ただ「海人族」でなく、水稲耕作民でも良いとも思い、決めかねています。

三輪の神を祭祀しているとしますと
水稲耕作民とした方が良いと思われます。
しかし、仮に海蛇だとしますと、海人族となります。
三輪の神の化身である大蛇は海蛇とは思えません。

[665] 蛇族と太陽族 投稿者:SM 投稿日:03/06/01(Sun) 11:21
> 物部=太陽はわかりますが、出雲=蛇はわかりません。
> これの根拠を教えて下さい。

出雲では、八俣の大蛇、神在月の稲佐浜からの神迎祭の先導の海蛇、銅鐸の図柄の蛇など、そして、出雲族と関係の深い三輪山に蛇が見られるので蛇族としてみました。
出雲神社の本当の神体は蛇であるという説もあるようです。

石見の大元信仰では、蛇が地霊大元の象徴として考えられています。
蛇は水霊の象徴とも考えられているように思います。

出雲神楽では、八俣の大蛇が目玉、石見神楽では、地霊の蛇が主役となっています。

注連縄も蛇です。その出自が出雲とは限られないかもしれませんが。


> 瀬戸内ルートを記している文献があるなら教えて下さい。

文献の根拠は知りません。

物部神社関係からの類推資料として考えられるのは、

饒速日命を祀ってある神社が福岡県から瀬戸内海沿岸、大阪、奈良にかけて次のように見られます。

福岡 7(筑前 4、筑後 1、豊前 2)、愛媛・伊予 20、香川・讃岐 1、広島・備後 1、岡山・美作 4、大阪 5(河内日下 3、和泉 2)、奈良 2(平群 1、広瀬 1)、

これに対して、山陰では、島根・石見 2、鳥取 ・因幡 1、となっています。

出雲色は薄いです。

> 枚岡神社は中臣氏の氏神神社ですから
> 大国主も須佐之男も関係ありません。
> また、元々経津主命、武甕槌命の2神は枚方に祀られていません。
> これは鹿島・香取から勧請されたものです。
> 更に、この勧請されたものを藤原氏が春日へ勧請したのです。

元々経津主命、武甕槌命の2神は枚方に祀られていないとすると、
現在の交野市、東大阪市、生駒市には、経津主命、武甕槌命を祀る神社もなく、大国主命、須佐之男命を祀る神社もないと思います。

[676] Re: 蛇族と太陽族 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/01(Sun) 15:26
> 出雲では、八俣の大蛇、神在月の稲佐浜からの神迎祭の先導の海蛇、銅鐸の図柄の蛇など、そして、出雲族と関係の深い三輪山に蛇が見られるので蛇族としてみました。
> 出雲神社の本当の神体は蛇であるという説もあるようです。

出雲大社の創建は新しいです。
しかも、あれは大和が創建したものです。

ヤマタノオロチは退治された訳です。
これを神として奉じていた民がいたとしても
スサノオに退治されたとなっていますから
スサノオ以前はまだしも、以後はおかしいのでは?
少なくとも大和への進出はスサノオ以後でしょ

海蛇だとしますと、三輪の神の化身である大蛇とは異質です。

銅鐸の場合は出雲に限定してものではなく
農耕民族としては普通のことです。

三輪の神が出雲と関係が深いかどうかははっきり言って不明です。
カモ族が出雲系であると断定できると仮定しますと
それなりの根拠はあるのですが
カモ族の三輪山麓への定住の時期を考えますと不確定要素は大きく
また、三輪山の神自体もそれより以前に祭祀されていたようです。

三輪の神の化身の一形態として蛇がありますが
三輪の神は蛇ではありません。蛇はあくまでもお使いです。
稲荷神社の狐と同様によく勘違いをされていますが
本来は別のものです。

> 石見の大元信仰では、蛇が地霊大元の象徴として考えられています。
> 蛇は水霊の象徴とも考えられているように思います。

八王竜王も基本は蛇です。
水源の神として竜王神話が融合していることもあり
正確に調べないと明確なことはいえません。
地脈・水脈を蛇、或は竜とするのは陰陽道から来ている物です。
だとしますと
その発生は極めて新しいものです。
ただ
地の気脈という思想は、日本土着の鬼道にもあり
これも判断はつきません。

> 物部神社関係からの類推資料として考えられるのは、
> 饒速日命を祀ってある神社が福岡県から瀬戸内海沿岸、大阪、奈良にかけて次のように見られます。
> 福岡 7(筑前 4、筑後 1、豊前 2)、愛媛・伊予 20、香川・讃岐 1、広島・備後 1、岡山・美作 4、大阪 5(河内日下 3、和泉 2)、奈良 2(平群 1、広瀬 1)、
> これに対して、山陰では、島根・石見 2、鳥取 ・因幡 1、となっています。

伊予に物部神社が多いのは当然です。
物部が大量に土着しています。伊予国造は物部氏です。
孝霊系と称す、河野氏も物部氏が出自であるという系図も存在します。

また
瀬戸内沿岸の物部神社の由緒はそれ程古くありません。
物部氏の領地が瀬戸内沿岸に何世代にわたって与えられており
これが点在しています。
確かに、九州の物部氏のように
磐井以後の物部氏と磐井以前の物部氏のように
古くから土着している物部氏も存在しますが
物部氏は相当古くから全国規模にヤマト軍として軍事行動をしており
瀬戸内沿岸の物部氏の分布が
物部東遷と関連付けるというのは論拠としては極めて弱いものです。

> 元々経津主命、武甕槌命の2神は枚方に祀られていないとすると、
> 現在の交野市、東大阪市、生駒市には、経津主命、武甕槌命を祀る神社もなく、大国主命、須佐之男命を祀る神社もないと思います。

ふと思いましたが
何故に、この場合だけ、範囲を狭くする?

蛇族の場合は大和とその周辺も含めているのに

とりあえず
祀る神社なら一杯ありますよ
但し、由緒を調べないとだめですけど
古い神社で、かつ氏神合祀以前の祭祀神と
元々の祀神となりますと難しいですが
でも
事代主はありますね

スサノオは元来出雲では色薄いんだけど
記紀の出雲と出雲風土記の出雲を混在している気がする(^^;

[693] Re^2: 蛇族と太陽族(訂正) 投稿者:SM 投稿日:03/06/04(Wed) 00:16
> > 出雲では、八俣の大蛇、神在月の稲佐浜からの神迎祭の先導の海蛇、銅鐸の図柄の蛇など、そして、出雲族と関係の深い三輪山に蛇が見られるので蛇族としてみました。
> > 出雲神社の本当の神体は蛇であるという説もあるようです。
>
> 出雲大社の創建は新しいです。
> しかも、あれは大和が創建したものです。

出雲大社は大和政権が建てたとしても、ここには、それ以前の出雲人の蛇信仰も隠された精神的基盤として残っていたのではないでしょうか。

>
> ヤマタノオロチは退治された訳です。
> これを神として奉じていた民がいたとしても
> スサノオに退治されたとなっていますから
> スサノオ以前はまだしも、以後はおかしいのでは?
> 少なくとも大和への進出はスサノオ以後でしょ

> 海蛇だとしますと、三輪の神の化身である大蛇とは異質です。


出雲の蛇信仰においては、蛇は人間に幸運をまたらせる神でもあり、悪運をもたらせる悪鬼でもありました。
それは、直霊が和魂、奇魂、幸魂、直霊、荒魂からなるということにも通じるでしょう。
蛇は地霊、山霊、水霊の象徴でありました。

古代出雲の人々は、蛇が悪運、災害をもたらせないように、蛇を丁重に取り扱いました。
神在月の稲佐の浜からの神迎えを海蛇に先導して貰いました。
蛇を大元地霊の象徴と信じる石見神楽のテーマもそのような祈りにあると思います。

しかし、蛇が人間に悪運、災害をもたらせた時には、人間はそれに挑戦しなければなりませんでした。
須佐之男命がヤマタノオロチを殺したのはそのような挑戦でした。
彼は、稲作農民が、蛇によって水田稲作に災害をもたらされて、苦しんでいるのを聞いて、蛇を退治して、稲田姫と嫁にして、幸せになり、民をも幸せにしました。

この話は、旧約聖書の創造物語において、神は、世界創造の最後に、人間を作り、神が創造した全てのものを人間の支配にまかせ、人間がこれらのものを使って、幸せになるようにと祝した物語と通ずるところがあるように思います。

古代出雲人は、おそらく、中国山脈を、八つの峰と八つの谷からなる大蛇とみなしたのでしょう。この山を蛇と信じた古代出雲人は三輪山をも蛇と信じたのでしょう。
おそらく、台風がきた時に、この中国山脈からの洪水に水田が被害を蒙って、古代出雲人は苦しんだのでしょう。

須佐之男命は、出雲の防衛神・布津御魂の五月蝿いものを退治する十握刀を借りて大蛇を斬り殺し、その体内から大きな刀を取り出しました。

須佐之男命が大蛇の体から取り出した大きな刀は、ヒノ川上流の出雲の山の鉄、タタラの鉄で作られた刀だったのでしょう。
この大刀を獲得して、古代出雲人の防衛軍備は強化されたのでしょう。

> 伊予に物部神社が多いのは当然です。
> 物部が大量に土着しています。伊予国造は物部氏です。
> 孝霊系と称す、河野氏も物部氏が出自であるという系図も存在します。
>
> また
> 瀬戸内沿岸の物部神社の由緒はそれ程古くありません。
> 物部氏の領地が瀬戸内沿岸に何世代にわたって与えられており
> これが点在しています。
> 確かに、九州の物部氏のように
> 磐井以後の物部氏と磐井以前の物部氏のように
> 古くから土着している物部氏も存在しますが
> 物部氏は相当古くから全国規模にヤマト軍として軍事行動をしており
> 瀬戸内沿岸の物部氏の分布が
> 物部東遷と関連付けるというのは論拠としては極めて弱いものです。

分かりました。有難うございます。

しかし、
物部族の元祖、饒速日命は生駒山に天磐船で着陸しました。その着陸した所は難波の大磐(大阪城、石山寺)であったとも伝えられています。

天磐船で着いたのいうのは天孫神話によって作られたのだと思いますが、いづれにしても、物部族元祖は船で難波、河内に着いたのでした。それが、筑紫から関門海峡を通って、瀬戸内海を山口沖、広島沖を通ってきたのか、出雲、因幡、丹後まで船で行って、山を越えて、吉備から船で難波についたのかは未だ分かりませんが。
筑紫遠賀川周辺の物部族は二世紀に秋田にまで船で行ったということが、文書資料と遺跡から分かっているとのことです。

出雲族と物部族は足と船で日本列島各地に往来し、進出しますが、かれらが着いた各所には船の形に似た岩があり、岩船と呼ばれ、岩船神社が建てられました。岩船の形は天に向かって先が尖っており、烏帽子の形をした大船山の烏帽子岩を倣うものであったようです。
この形をした石は,出雲・物部系の石上神社、物部神社の神体ともなったようです。

岩船神社には、兵庫・岩船神社(城崎郡 日高町)、大阪・岩所神社(河内交野市)、大阪・(元)磐船神社「大阪城地(石山本願寺跡、元四天王寺跡)、大阪・磐船大神社 (南河内、古市古墳群)、奈良・住吉神社(岩船社)(生駒市南田原)、京都・石船神社 (綴喜郡 田辺町)、京都・貴船神社(京都市)、新潟・石船神社、(村上市)、茨城・岩船神社、(久慈郡水府 )などがあります。

岩船の地名には、島根県安来市岩舟(岩舟古墳)、茨城県常北市岩船、長野県中野市岩船、栃木県岩舟町などがあります。

同様にして、出雲・物部族が開拓した所には、天に向かって先の尖っている石を神体として、石上神社が建てられ、防衛神・布都御魂が祀られようです。


> 元々経津主命、武甕槌命の2神は枚方に祀られていないとすると、
> > 現在の交野市、東大阪市、生駒市には、経津主命、武甕槌命を祀る神社もなく、大国主命、須佐之男命を祀る神社もないと思います。
>
> ふと思いましたが
> 何故に、この場合だけ、範囲を狭くする?
>
> 蛇族の場合は大和とその周辺も含めているのに

大和でも、
大和南東部の三輪山は蛇信仰と関係深く、その周辺は出雲色が強いが、
大和北西部生駒山は蛇信仰と関係がなく、太陽信仰と関係が深く、出雲色は薄いです。

大和盆地全体として見れば、出雲の宍道湖の周りの四つの神名火山に囲まれた平地に水田稲作が発達したのを原型モデルとして、青山に囲まれた盆地に水田稲作を開拓、発展させたと考えられます。
大和盆地には湖はありませんが、ここは山々から流れる多くの川と池と平地がある水田稲作に適した場所でした。

> スサノオは元来出雲では色薄いんだけど
> 記紀の出雲と出雲風土記の出雲を混在している気がする(^^;

太陽・天孫族の大八州・日本列島統一国家統治史観をもって作成された記紀のヤハタノオロチの話は出雲風土記にはありませんが、
その原材料となった民話は出雲にはあったのではないでしょうか。

スサノオも、記紀神話では、イザナギが日向の川で禊ぎをした時に鼻から生まれ、海を統治が任されたとありますが、
スサノオは、元々、出雲において海の神であり、佐田(サタ)大神であったのではないかと思います。太平洋側では、これは、猿田(サタ)彦であったようですね。

スサノオが大蛇から獲得した大刀を天照大神に献上したというのは、出雲が出雲産の鉄で作成した刀、軍備を高天原・太陽族に譲渡したということで、天孫・ニニギが天下りする前に既にこの譲渡がなされ、実質的に、国譲りがなされていたことを物語っているようです。

大和における国譲りは、出雲族と関係がありながら太陽神を元祖とする物部族が中に入って行われ、出雲の防衛神・布津御魂と十握刀と烏帽子の聖石は物部氏族の石上神社に受け継がれました

[694] 秋田への進出が分かっているとは? 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/04(Wed) 01:05
> 筑紫遠賀川周辺の物部族は二世紀に秋田にまで船で行ったということが、文書資料と遺跡から分かっているとのことです。

この資料はどこからのものでしょうか
出来ましたら教えて頂きたい。

もしかして
出羽物部氏と繋げている仮説では無いかと邪推してしまいます。
それを予防するために
ぜひ、教えて下さい。

[696] Re: 秋田への進出が分かっているとは? 投稿者:SM 投稿日:03/06/04(Wed) 03:27
> > 筑紫遠賀川周辺の物部族は二世紀に秋田にまで船で行ったということが、文書資料と遺跡から分かっているとのことです。
>
> この資料はどこからのものでしょうか
> 出来ましたら教えて頂きたい。
>
> もしかして
> 出羽物部氏と繋げている仮説では無いかと邪推してしまいます。
> それを予防するために
> ぜひ、教えて下さい。

唐松神社(秋田県協和町) の案内には次のようになっています。

天照国照彦火明櫛玉饒速日
物部那加世 =
=物部守屋の子 元「韓服神社」。
秋田物部氏の遠祖、饒速日命は、天の鳥船に乗って千樹五百樹が繁茂するという鳥見山(鳥海山)の山上湖に天降り、雄物川おものがわを遡って、その支流の淀川をさらに遡り、逆合(現、協和町境地区)にある日殿山に「日の宮」を築き、天地の神々を祀ったと言われる。境内に建つ「天日宮あまつひのみや」は独特の建築様式。
宮司は、代々秋田物部氏が継承し、『物部文書』は秋田物部家に伝わる。

物部文書(秋田物部氏の古伝)によると、饒速日命は鳥海山に天降り、日殿山に「日の宮」(秋田県協和町  唐松天日宮 )をおいたとされる。後に大和におもむいたとの伝承である。秋田市南郊の地蔵田遺跡から初期段階の遠賀川式土器が出土しており、対馬海流に乗っての人と文化の伝達があったことがわかる。まさに物部氏ゆかりの九州遠賀川流域と秋田は太古からむすばれていたのである。
 

[691] よくわかりません(^^; 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/03(Tue) 04:28
>出雲大社は大和政権が建てたとしても、ここには、それ以前の出雲人の蛇信仰も隠された土台として残っていたのではないでしょうか。

土台ですか
まあ、確かに出雲大社の元の神社はある訳ですけど
残念ながら蛇とは関係ありません

>出雲の蛇信仰においては、蛇は人間に幸運をまたらせる神でもあり、悪運をもたらせる悪鬼でもありました。

これはわかりますが

>それは、直霊が和魂、奇魂、幸魂、直霊、荒魂からなるということにも通じるでしょう。

魂や霊とくるか(^^;
う〜ん
本当にこれらの意味をわかって、使っているのですか

>蛇は地霊、山霊、水霊の象徴でありました。

だからね
何故に、蛇にこだわる?
念のため確認しますが
地霊・山霊・水霊という思想が何時出来たか知っていますか?
このような話をなさるなら当然知っていると思いますが

>古代出雲の人々は、蛇が悪運、災害をもたらせないように、蛇を丁重に取り扱いました。
神在月の稲佐の浜からの神迎えを海蛇に先導して貰いました。
蛇を大元地霊の象徴と信じる石見神楽のテーマもそのような祈りにあると思います。

ナーガ仮説に毒されていませんか?

>しかし、蛇が人間に悪運、災害をもたらせた時には、人間はそれに挑戦しなければなりませんでした。須佐之男命がヤマタノオロチを殺したのはそのような挑戦でした。
彼は、稲作農民が、蛇によって水田稲作に災害をもたらされて、苦しんでいるのを聞いて、蛇を退治して、稲田姫と嫁にして、幸せになり、民をも幸せにしました。

あのですね
海蛇だったのが、普通の蛇に変るのですか
何故?
全部一緒ですか?
ごっちゃにしていませんか?
ナーガ神話でも、蛇なら何でも良いとはなっていません

>この話は、旧約聖書の創造物語において、神は、世界創造の最後に、人間を作り、神が創造した全てのものを人間の支配にまかせ、人間がこれらのものを使って、幸せになるようにと祝した物語と通ずるところがあるように思います。

何故に、旧約聖書が出てくるのですか?
一体、何の話をしたいのですか?

>古代出雲人は、おそらく、中国山脈を、八つの峰と八つの谷からなる大蛇とみなしたのでしょう。この山を蛇と信じた古代出雲人は三輪山をも蛇と信じたのでしょう。

このような観念的な話をするなら言いますけど
三輪さん(三輪山ではなく)に行ったことありますか?
霊能力が持っているか、陰陽道や密教の心得があるものなら
必ず、三輪さんの正体わかるよ
或は、出雲大社は行ったことありますか?
あそこにある結界わかりますか?

何度も言いますが
出雲国の出雲とヤマトの出雲がもともとは同じとしても
三輪は別です。

>おそらく、台風がきた時に、この中国山脈からの洪水に水田が被害を蒙って、古代出雲人は苦しんだのでしょう。

それはわかります。

>須佐之男命は、出雲の防衛神・布津御魂の五月蝿いものを退治する十握刀を借りて大蛇を斬り殺し、その体内から大きな刀を取り出しました。須佐之男命が大蛇の体から取り出した大きな刀は、ヒノ川上流の出雲の山の鉄、タタラの鉄で作られた刀だったのでしょう。この大刀を獲得して、古代出雲人の防衛軍備は強化されたのでしょう。

いきなりそのような話に飛ぶのですか?
タタラ鉄に・・・

>物部族の元祖、饒速日命は生駒山に天磐船で着陸しました。その着陸した所は難波の大磐(大阪城、石山寺)であったとも伝えられています。

はい、では、その伝えはどこに記されていますか?

>天磐船で着いたのいうのは天孫神話によって作られたのだと思いますが、いづれにしても、物部族元祖は船で難波、河内に着いたのでした。それが、筑紫から関門海峡を通って、瀬戸内海を山口沖、広島沖を通ってきたのか、出雲、因幡まで船で行って、山を越えて、吉備から船で難波についたのかは未だ分かりませんが。

物部氏関連の書籍を見る限り
大多数が日本海ルートとなっています。
物部文書、但馬故事記、海部氏勘注系図とも全て日本海ルートです。
確かに
日本海から海路で周回し、瀬戸内経由という可能性はあります。
ですから、瀬戸内ルート否定は致しません。

ここで疑問が
天孫本紀は読まれていますか?

>出雲族と物部族は足と船で日本列島各地に往来し、進出しますが、かれらが着いた各所には船の形に似た岩があり、岩船と呼ばれ、岩船神社が建てられました。船の形は天に向かって先が尖っており、烏帽子の形をした大船山の烏帽子岩を倣うものでした。この形をした石は、出雲・物部系の石上神社、物部神社の神体ともなりました。岩船神社には、兵庫・岩船神社(城崎郡 日高町)、大阪・岩所神社(河内交野市)、大阪・(元)磐船神社「大阪城地(石山本願寺跡、元四天王寺跡)、大阪・磐船大神社 (南河内、古市古墳群)、奈良・住吉神社(岩船社)(生駒市南田原)、京都・石船神社 (綴喜郡 田辺町)、京都市・貴船神社、新潟・石船神社、(村上市)、茨城・岩船神社、(久慈郡水府 )などがあります。岩船の地名には、島根県安来市岩舟(岩舟古墳)、茨城県常北市岩船、長野県中野市岩船、栃木県岩舟町などがあります。
同様にして、出雲・物部族が開拓した所には、天に向かって先の尖っている石を神体として、石上神社が建てられ、防衛神・布都御魂が祀られようです。

え〜と
素朴な疑問点として、物部氏と上記神社の接点は何なのでしょうか?
これらの神社は物部氏と本当に関係があるのですか?
調べる時間が無いため、確認したいのですが
一部のところは実際に行ったことがあるのですが
それらの神社等には物部氏らしい形跡は無かったと記憶しています。
自分の調査も完全では無いと思いますから
明確なことは言えませんが、
何を根拠にそのような神社の列記されたのでしょうか?

>大和南東部の三輪山は蛇信仰と関係深く、その周辺は出雲色が強いが、
大和北西部生駒山は蛇信仰と関係がなく、太陽信仰と関係が深く、出雲色は薄いです。

まず、確認します
神武東征に出てくるニギハヤヒはどういう位置付けで処理されているのでしょうか?
それにより、この件についての意味合いは変化します。
ぜひ、教えて下さい。

>太陽・天孫族の大八州・日本列島統一国家統治仕官をもって作成された記紀のヤハタノオロチの話は出雲風土記にはありませんが、
その原材料となった民話は出雲にはあったのではないでしょうか。

越の話ですか?

>スサノオも、記紀神話では、イザナギが日向の川で禊ぎをした時に鼻から生まれ、海を統治が任されたとありますが、スサノオは、元々、出雲において海の神であり、佐田(サタ)大神であったのではないかと思います。太平洋側では、これは、猿田(サタ彦であったようですね。

熊野と佐田と別々に祭祀されていますね
しかも、出雲風土記を見る限り、別神ですね
記紀を見ても、性格が違いすぎます。

>スサノオが大蛇から獲得した大刀を天照大神に献上したというのは、出雲が出雲産の鉄で作成した刀、軍備を高天原・太陽族に譲渡したということで、天孫・ニニギが天下りする前に既にこの譲渡がなされ、実質的に、国譲りがなされていたことを物語っているようです。

すると、何ですか、2回国譲りはあったということですか?

>大和における国譲りは、出雲族と関係がありながら太陽神を元祖とする物部族が中に入って行われ、出雲の防衛神・布津御魂と十握刀と烏帽子の聖石は物部氏族の石上神社に受け継がれました。

この国譲りとは?
神武のことですか?

[695] Re: よくわかりません(^^; 投稿者:SM 投稿日:03/06/04(Wed) 02:37
>
> >それは、直霊が和魂、奇魂、幸魂、直霊、荒魂からなるということにも通じるでしょう。
>
> 魂や霊とくるか(^^;
> う〜ん
> 本当にこれらの意味をわかって、使っているのですか

教えてください。
>
> >蛇は地霊、山霊、水霊の象徴でありました。
>
> だからね
> 何故に、蛇にこだわる?
> 念のため確認しますが
> 地霊・山霊・水霊という思想が何時出来たか知っていますか?
>
教えてください。

>
> ナーガ仮説に毒されていませんか?

ナーガ仮説は知りません。教えてください。

>
> 何故に、旧約聖書が出てくるのですか?
> 一体、何の話をしたいのですか?

和魂にも、西洋精神となったユダヤーキリスト教の人間尊重精神と通じるものがあったのではないかと思うのです。

> このような観念的な話をするなら言いますけど
> 三輪さん(三輪山ではなく)に行ったことありますか?
> 霊能力が持っているか、陰陽道や密教の心得があるものなら
> 必ず、三輪さんの正体わかるよ
> 或は、出雲大社は行ったことありますか?
> あそこにある結界わかりますか?

私は陰陽道、密教を知りません。教えてください。
> >おそらく、台風がきた時に、この中国山脈からの洪水に水田が被害を蒙って、古代出雲人は苦しんだのでしょう。

>
> いきなりそのような話に飛ぶのですか?
> タタラ鉄に・・・

古代出雲人は、中国山脈の出雲の山に大量の鉄資源を見出して、鉄製武器、農具を作り出して、青銅時代から、鉄時代に入り、軍事力も強化され、水田稲作も大きく進歩したと思うのです。

島根県横田町の案内によると

日本書記(講談社文庫p49)から

スサノオは新羅の国から土舟に乗って東の方に渡り、出雲の国のヒの川の上流にある鳥上の山につき、オロチ退治となった、と説明してあります。

「船通山中腹には鳥上の滝があり、ここがオロチの棲家だったとも言われる。この滝が斐伊川の源流である。
船通山の麓、鳥上大呂の地には日刀保たたらがあり、長く途絶えていたたたらを1977年に復活させ、冬期には日本刀の素材としての玉鋼を生産している。横田町稲田はクシナダ姫の誕生地とされ、稲田神社が建っている。」ということです。

> >物部族の元祖、饒速日命は生駒山に天磐船で着陸しました。その着陸した所は難波の大磐(大阪城、石山寺)であったとも伝えられています。
>
> はい、では、その伝えはどこに記されていますか?

石切劔箭(いしきりつるぎや)神社の案内には次のようにあります。

「祭神
饒速日命、宇摩志摩治尊(可美真手命)
式内社二座とある。上之宮は上ノ神社と呼ばれ、饒速日命を祭神としていた。 従って本社は宇摩志摩治尊であった。

神社発行の参詣のしおりによれば、饒速日命は瓊々杵命(天孫降臨の孫)の兄 としている。先発隊として大和へおもむいたとの説明になっている。旧事本紀によるか。
物部氏の有力支族である穂積氏が祖神を祀ったとされる。また氏子世帯は6500 のほか、石切講が100講社15,000人の信徒となっている由緒
 社伝によれば創建は神武2年に東側の宮山に饒速日命と宇摩志摩治を祀った と言う。

 勝井純氏の神武天皇聖跡考によれば饒速日命は現在の大阪城所在地にあったとされる磐船神社に祀られていたとの説があるとされる。それから草香山を目指して当地に移った。饒速日命はその後饒速日山(草香山)の頂上に設けられた上の宮に祀られ、物部氏が滅ぶと上の宮の神霊はそれぞれ下の宮に移されたと言う。下の宮として生駒市上町長久寺の登弥神社(伊弉諾神社)と当社である。

 『和漢三才図会』東洋文庫 摂津の項に次の記事が見える。
高津社(高津宮)は生玉社の北(南区高津一番丁)にある。祭神は比売古曾神〔本名、下照姫命(高比売命とも)〕大国主命の女〔味耜高彦根命の妹、天稚彦命の妻である〕が始めて天盤船に乗って地上に降られた〔摂州東生郡高津がこれである〕。 その船の祠を磐船大明神と号する〔『延喜式』の当社の祭に、有帛・魚塩等を賜る目録がある。また、磐船社は東生郡にあるとするが今はない。河州交野に磐舟社があるのがこれか〕。

 大阪城所在地にあったとされる磐船神社の祭神が比売古曾神となっており、饒速日命ではない。 ところが福岡県小郡市大崎に媛社神社があり祭神は媛社神と織女神であるが、江戸時代に奉納された鳥居に磐船神社の名が見える。由緒書きによれば媛社神は別名を饒速日命と言うとされている。難波と筑後で媛社神と饒速日命が同一神と見られているのは興味深い。
 なお大阪城ができる前には石山本願寺があった。名の通り巨岩の多い地域であった。 大阪城にはかって難波宮が置かれた。ここと本殿と上の宮の延長に生駒山頂がある。生駒山頂は饒速日命が磐船にのって降臨した哮峰[たけるがみね]にも比定される。

たたずまい 
 神武と長髄彦が戦った日下はここの北である。
 神宝に画文帯神獣鏡や環頭太刀柄頭がある。*3 御神体は神武天皇の蹴上石なる霊石である。
 神木の樟の木は天念記念物である。神奈備は生駒山である。日下(草香)は日の元であり、かっての難波の海の最も東に位置し、太陽祭祀の中心地である。」
 
> ここで疑問が
> 天孫本紀は読まれていますか?

すみません。私は全く日本史の素人です。

> え〜と
> 素朴な疑問点として、物部氏と上記神社の接点は何なのでしょうか?
大阪・岩所神社(河内交野市)と新潟・石船神社、(村上市)は確かに物部氏と関係があります。
>
> >大和南東部の三輪山は蛇信仰と関係深く、その周辺は出雲色が強いが、
> 大和北西部生駒山は蛇信仰と関係がなく、太陽信仰と関係が深く、出雲色は薄いです。
>
> まず、確認します
> 神武東征に出てくるニギハヤヒはどういう位置付けで処理されているのでしょうか?

全くよく分かりません。

> >太陽・天孫族の大八州・日本列島統一国家統治史観をもって作成された記紀のヤハタノオロチの話は出雲風土記にはありませんが、
> その原材料となった民話は出雲にはあったのではないでしょうか。
>
> 越の話ですか?

越の話も知りません。教えてください。
>
>>
> >スサノオが大蛇から獲得した大刀を天照大神に献上したというのは、出雲が出雲産の鉄で作成した刀、軍備を高天原・太陽族に譲渡したということで、天孫・ニニギが天下りする前に既にこの譲渡がなされ、実質的に、国譲りがなされていたことを物語っているようです。
>
> すると、何ですか、2回国譲りはあったということですか?

結局、そういうことになるのではないでしょうか。

三種の神器の天叢雲剣、八咫鏡、八坂瓊勾玉はいずれもみな元々は出雲関係の物であったのを、天孫族が、記紀編纂にあたって、高天原のものに分捕ったのではないでしょうか。
天叢雲剣はスサノオからアマテラスに献上したことになっており、出雲、または、大和田原本の田原元町にある鏡作神社で銅鏡が作られ、出雲はメノウなど宝石の産地でした。

 しかし、記紀は神武の国譲りの後に作成されたものです。

>
> >大和における国譲りは、出雲族と関係がありながら太陽神を元祖とする物部族が中に入って行われ、出雲の防衛神・布津御魂と十握刀と烏帽子の聖石は物部氏族の石上神社に受け継がれました。
>
> この国譲りとは?
> 神武のことですか?

そうです。

[707] Re^2: よくわかりません(^^; 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/04(Wed) 16:28
簡単に教えて下さいと返される。
しかも
簡単に絶対に説明できないものばっかしを
霊・魂・密教・陰陽道等を
簡単に説明できると思っているのですか?

例えばですね

>島根県横田町の案内によると日本書記(講談社文庫p49)からスサノオは新羅の国から土舟に乗って東の方に渡り、出雲の国のヒの川の上流にある鳥上の山につき、オロチ退治となった、と説明してあります。「船通山中腹には鳥上の滝があり、ここがオロチの棲家だったとも言われる。この滝が斐伊川の源流である。船通山の麓、鳥上大呂の地には日刀保たたらがあり、長く途絶えていたたたらを1977年に復活させ、冬期には日本刀の素材としての玉鋼を生産している。横田町稲田はクシナダ姫の誕生地とされ、稲田神社が建っている。」ということです。

このように転載されています。

これの場合は記載先を記されていますからまだ良いです。
今までは、掲載先も記されていませんでしたよ

ただ、これはあくまでも講談社の編集者による解説です。
そのような、見方も出来るということです。
これが正しいか、間違っているかはわかりません。
そもそも、紀だけでは、このような見解は出来ません。
この解説と見解に賛意を持たれることは何ら問題ありません。
しかし、
これを自説として使用される場合はそれなりの裏づけが必要です。
これが無い場合

「このような記述や仮説があり、これを元に自分はこう思います。」
という感じに曖昧な表現となっている場合は問題がありません。

或は
「某史料や書籍に、このように記されていました。」
と客観的に提示する。

或は
「この仮説は妄想ですが。」
と断りを入れる。

このように言い表すべきです。
しかしながら、今回何度が見受けられたように断定されるからには
それなりの論拠が必要とされ、かつ求められる訳です。

もっと、言いますと
単に、論拠を持っているだけではダメなんです。
しかし
真剣に研究している訳で無い限り、そこまでは必要としませんから
表現を誤魔かす程度で逃げることをお勧めします。

[670] Re: 蛇族と太陽族 投稿者:勇者ロト 投稿日:03/06/01(Sun) 13:04
> 出雲では、八俣の大蛇、神在月の稲佐浜からの神迎祭の先導の海蛇、銅鐸の図柄の蛇など、そして、出雲族と関係の深い三輪山に蛇が見られるので蛇族としてみました。

物部のモノと大物主のモノのほうがより濃い関係のような気もしないではないですが。。。。

私としては、太陽信仰も蛇信仰も特定の部族を象徴する信仰形態という気はしていません。古代において普遍的な形態ではないんでしょうか?

[673] Re^2: 普遍的形態 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/01(Sun) 14:22
> 物部のモノと大物主のモノのほうがより濃い関係のような気もしないではないですが。。。。

おぉ。そういわれれば。
こんな簡単なことに気が付きませんでした。


> 私としては、太陽信仰も蛇信仰も特定の部族を象徴する信仰形態という気はしていません。古代において普遍的な形態ではないんでしょうか?

古代社会の基本だとも思えますよね。
余談ですが、日の巫女なんて、日本中にたくさん居たとも考えられますよね。

[698] Re^3: 普遍的形態 投稿者:SM 投稿日:03/06/04(Wed) 06:08
> > 物部のモノと大物主のモノのほうがより濃い関係のような気もしないではないですが。。。。
>
> おぉ。そういわれれば。
> こんな簡単なことに気が付きませんでした。
>
>
> > 私としては、太陽信仰も蛇信仰も特定の部族を象徴する信仰形態という気はしていません。古代において普遍的な形態ではないんでしょうか?
>
> 古代社会の基本だとも思えますよね。

それにしても、出雲には蛇のこだわりが強く、太陽のこだわりは弱いと思います。
普通、山陰の出雲には朝日の新鮮さと元気さがなく、夕日の沈む寂しさがあるように云われているようですが。

筑紫には、何故か太陽信仰が強いようですね。

ここに、純粋の出雲族と筑紫の物部族が違いがあるようですが。

[668] Re: 蛇族と太陽族 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/01(Sun) 12:36
> 出雲では、八俣の大蛇、神在月の稲佐浜からの神迎祭の先導の海蛇、銅鐸の図柄の蛇など、そして、出雲族と関係の深い三輪山に蛇が見られるので蛇族としてみました。

ヤマタノオロチと三輪山の御神体は、深い関係があるあもしれませんね。
書記での出雲系事代主の娘子孫が重用されてたことが理解できますし、壬申の乱で、出雲系の事代主が登場してきたこと等がよく理解できました。
大和には、出雲族の影響はかなり大きいと思えてきました。
出雲総督監が大和の三輪山周辺に土着していつの間にか母国出雲を凌ぐ勢力になったとも考えられると思います。

> > > 太陽族・物部族は瀬戸内海から難波に至り、阿倍野から河内を開き、生駒山を族神の太陽神・饒速日命を神体とする神奈備山とし、生駒の先住民、長髄彦と縁を結び、大和に入りました。

こちらは、なんとも言えないです。むろん、否定する根拠はありません。
私は、物部氏は大和土着の勢力であって、
神武には初期の段階では、非協力的で、中盤に協力的になったのだと考えてます。
神武は、SMさんの仰る三輪山の出雲系勢力に迎えられたんではないかと思ってます。

[671] Re^2: 太陽族 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/01(Sun) 13:11
ニニギ尊とヒギハヤヒ命との世代間のずれを考慮すれば、神話上での、天孫族のつながりは、後世出来上がったものと思ってます。
これは、スサノオとの関係にも言えることかもしれません。
ですが、義理の精神的なつながりは、観念上大切な系譜のつながりだとも思えます。


天孫族意外の理由で、物部氏のルーツを考えることは、私にも魅力を感じてます。
今、物部氏は土着の勢力と考えてますが、ニギハヒ命の東遷伝承は、全く否定してる訳ではないです。

[674] ニニギとニギハヤヒ 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/01(Sun) 14:47
> ニニギ尊とヒギハヤヒ命との世代間のずれを考慮すれば、神話上での、天孫族のつながりは、後世出来上がったものと思ってます。

いちおう、神代の話という仮定とした場合は
この世代間のズレは考慮しなくても良いんですよ本当は

神は限りなく長命である。だから問題はないということですから

ただ、神話は史実の投影であり、実話であるとしますと
話は変わってきます。


上記の記述のように
ニニギとニギハヤヒを兄弟としても
ニニギの子がホホデミであり、神武もホホデミだから
ホホデミ=神武としますと
叔父甥の関係となり問題はなくなります。
また
天孫本紀によりますと
ニギハヤヒは大和に入り、崩御していることになっています。
神武と対応したのは次の代となっており
それ程、世代ズレは無いと思われます。

[677] Re: ニニギとニギハヤヒ 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/01(Sun) 15:56
> 神は限りなく長命である。だから問題はないということですから

同感です。その通りだと認識してます。

>
> ただ、神話は史実の投影であり、実話であるとしますと
> 話は変わってきます。

同感です。
記のみで考えた場合ですが、ウガヤフキアエズ尊の580年が挿入されますので、ニニギ尊とニギハヤヒ命の関係は、史実と考えられなるのはご承知のことかと思われますが、ここに、天照を実在ではなく天の神としなければ辻妻があわない所以があると思います。あくまでも記での話ですが。。。

ですが、最近、天照も記紀神話に関係ないところの伝承された神をひっぱりだしてきたような気がしてきました。
もしかしたら、記紀神話とは全く関係なく、実在した人が神となったものを引っ張ってきて、皇祖神にされたのかなぁと。

宇佐の女神があやしいと思ってます。道鏡事件等があるし。
あるいは、応神、神功皇后が神とされるずっと以前、天照が鎮座してたのが、ある時期から空になってたとか。

実は、これは秘密ですが、地域の神社には、いろいろ天照の歩いた道について、どうしても世間に話せない云われみたいなものがあるみたいです。
本当のことか確かめる手段がないのが残念です。

[699] Re^2: ニニギとニギハヤヒ 投稿者:SM 投稿日:03/06/04(Wed) 08:33
> 実は、これは秘密ですが、地域の神社には、いろいろ天照の歩いた道について、どうしても世間に話せない云われみたいなものがあるみたいです。
> 本当のことか確かめる手段がないのが残念です。

「どうしても世間に話せないいわれ」天照の歩いた道ていうのはどんなところか知りたいです。

[706] 無理を仰りますね 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/04(Wed) 16:05
> > 実は、これは秘密ですが、地域の神社には、いろいろ天照の歩いた道について、どうしても世間に話せない云われみたいなものがあるみたいです。
> > 本当のことか確かめる手段がないのが残念です。
>
> 「どうしても世間に話せないいわれ」天照の歩いた道ていうのはどんなところか知りたいです。

多くの人達が同様の思いで
挑戦していますが
まず、知ること不可能です。
好奇心だけでは絶対に知る事は出来ません。

ただ
ごく一部だけ内容は漏れているようでして
しかしながら
これらは、多分、公表はされないでしょう。
細かく史料を漁れば
公表されている部分、知りえる部分があることはありますが
これらは差し障りが無い部分だけです。

[681] Re^2: ニニギとニギハヤヒ 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/01(Sun) 17:22
> 記のみで考えた場合ですが、ウガヤフキアエズ尊の580年が挿入されますので、ニニギ尊とニギハヤヒ命の関係は、史実と考えられなるのはご承知のことかと思われますが、ここに、天照を実在ではなく天の神としなければ辻妻があわない所以があると思います。あくまでも記での話ですが。。。

記のみで考えて、かつ、史実という物差しで推測する場合
580歳という年齢は否定されます。
百歳代ならまだしも、二百歳を超えている場合は
史実として通常では認められません。
また
ウガヤ580年が1代ではなく、ウガヤ数十代の朝としても
記のみで推測する場合は1代しかないのですから
この考えて、否定されてしまいます。

よって、通常の寿命と、世代間の関係だけで
記の人物の相互関係を見ることになります。

しかし、記だけという限定で思考を展開するとしますと
自分が指摘しているホホデミの類似性
つまり
ニニギの子であるホホデミと神武のホホデミを同一とするのは
記では成立しません。記では神武をホホデミとは呼びません。

同時に、ニニギとニギハヤヒの兄弟という関係も否定されます。
記には、両者を兄弟とする記述はありません。

ということは世代のズレは思考する必要が無くなります。

[682] Re^3: ニニギとニギハヤヒ 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/01(Sun) 17:34
次の段階として記に紀を加えます。

この場合、神武はホホデミと呼ばれ
祖父のホホデミと同名となり
ウガヤフキアエズの記述の少なさを考慮すると
ホホデミと神武が同一人物である可能性が出てきます。

しかし、紀においても
ニニギとニギハヤヒの兄弟という記述は無く
ホホデミと神武を同一人物としなくても
世代のズレは生じません。

むしろ
ニギハヤヒの別名の火明尊を考えますと
ニギハヤヒはホホデミの兄弟となる可能性があり
神武の大叔父となり、生存していても問題はありません。
しかも、ニギハヤヒの生存が不明で
神武と対応したのが子のウマシマチとしますと
神武とウマシマチは従兄弟の子同士となりはとこの関係になります。

[683] Re^4: ニニギとニギハヤヒ 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/01(Sun) 17:42
更に、記紀に天孫本紀を加えます

この時点で始めて、ニニギとニギハヤヒの兄弟という関係が判明します。

しかし、天孫本紀としますと
ニギハヤヒは神武の東征の以前に崩御していることになっており
神武と対応したのはその子のウマシマチです。
そして
このウマシマチはニギハヤヒの晩年の子のようであり
とますと、ホホデミよりずっと年少である可能性が高く
ウガヤフキアエズと世代に変らない可能性が出てきます。

つまり、神武とウマシマチが同時期に居ても問題は無いことになります。

[678] Re^2: 訂正 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/06/01(Sun) 16:21
> > 神は限りなく長命である。だから問題はないということですから
>
> 同感です。その通りだと認識してます。

念のため。
あきんどさんの考えに一理有ると思いますという事で、私はニニギ尊、ニギハヤヒ命は実在したと考えてます。

[679] Re^3: 訂正 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/01(Sun) 17:02
> > 同感です。その通りだと認識してます。
>
> 念のため。
> あきんどさんの考えに一理有ると思いますという事で、私はニニギ尊、ニギハヤヒ命は実在したと考えてます。

あのですね
これは自分の考えというより
神代の話という前提という仮定は一般論と思いますけど

[680] Re^4: 訂正 投稿者:勇者ロト(管理人) 投稿日:03/06/01(Sun) 17:06
> 神代の話という前提という仮定は一般論と思いますけど

「記紀神話肯定派」という菊地さんの立場と齟齬が出ないように、との思いで訂正したのでしょう(^^ゞ

慌てなくていいですよ。>菊地さん。

[650] Re^7: 物部氏族のルーツ 投稿者:SM 投稿日:03/05/31(Sat) 04:00
> 物部氏の出自した部族は、私は尾張氏を出した部族と考えており、物部氏単独の大和進出は想定していないのです。「アメノホアカリ」は倭人諸部族連合を主導した「アメ(阿毎)氏」の一員で、倭人諸部族中、最初にヤマトに入った部族(いくつかの部族の連合体でしょう)の指導者(と考えられた存在)でしょう。

「アメ(阿毎)氏」は難波の阿倍野の「阿部」になるのかもしれませんね。

読みからして、「伊都」、「出雲」、「伊豆」も合うのではないでしょうか。

[645] Re^5: 物部氏族のルーツ 投稿者:hn2602 投稿日:03/05/30(Fri) 22:35
> 私は、最近出雲神話は、紀元前8,9辺りのことではないかとも思えてまいりました。

私は日本人の起源論について、原日本語=倭人語を有する「倭人」が、前13〜12世紀頃から始まる東アジアの民族移動の一環として
日本列島に入ったことが、「弥生時代」の開始となったという異端の説を唱えておりますので、実は「出雲」の方言が、東北(この場合は新潟、奥羽六県)の方言とどういう関連があるのかがどうしてもひっかかるのです。「出雲」が「東北」とつながるなら、「縄文系」部族と、「東国」(尾張から関東南部)に連なるものなら「上代日本語」の「東国方言」を用いた「三遠式銅鐸」を祭器とする尾張氏→物部氏?との関連も考えられるのですが。

> ギリシャ神話でさえ、紀元前13から20辺りの投影だったかもしれないと、かすかにではありますが記憶してます。

ギリシャ人はホメロスの言う「アカイア(アケーア)人」(後のイオニア人やエオリア人など東部ギリシア方言所有者と、「ドーリア人」などの西部ギリシア方言所有者に二分されますが、従来(最近の本は読んでいないので学説が変った可能性があります)アカイア人は前20世紀の印欧語族の(第一次)民族大移動時に、ドーリア人は前13世紀の第二次の移動(イリュリア人の移動)時に、それぞれギリシアに入ったとされています。ギリシア神話で「ヘラクレスの子らの帰還」とされる一連の神話・説話はこのドーリア人の南下(ギリシア侵入)を物語ったものとされています。

> 出雲もギリシャも、海沿いで、交易で栄えたんだと思ってますが、出雲と内陸大和の物部は結び付くんでしょうか?

私は邪馬台国以前の地域国家分立時代に、倭人諸部族は大体10個くらいの地域国家群に分かれていたと考えています。

先ず

@半島南岸の残留倭人の「任那(加羅)」が列島外にあり、列島内では
A広形銅矛を祭器とする「筑紫」、
B「出雲形銅剣」を祭器とする「出雲」、
C平形銅剣を祭器とする「吉備」、
D「大和式銅鐸」を祭器とする「大和」、
E三遠式銅鐸を祭器とする「尾張」、

以上の5つは弥生後期の文化圏を説く近藤(1986)説を援用したものです。

この近藤の青銅祭器による亜文化圏地図(「民族の世界史2、日本民族と日本文化」江上波夫編、第四章p246図2)にはいくつかの空白部分(亜文化圏に入っていないところ)があり、九州南部、北陸〜東北地方日本海側、他にも山口・島根の一部、伊豆・駿河から狭く北方に伸びる地域があります。

また東京湾沿岸から東北南部にかけて「遊郭石斧」の祭器圏があります。私はこのうち

F南九州を「家形石棺」などを共通点とする隼人族諸部族、
G北陸地方に「古志」諸部族、
H三遠式銅鐸圏の「尾張」とおそらく縄文人の可能性があり、倭人化の進行していないと考えられる有角石斧圏の「日高見」(と仮に命名)の間に倭人の最東端としての「吾妻」諸部族の存在を比定し、これに
I琉球列島に南下して後の琉球語を形成する集団「原琉球人」を想定し、「三韓」ならぬ「十倭」が、邪馬台国あるいは大和朝廷による統一以前に存在したという仮説を立てています。

これらの倭人諸部族は「西部(九州)」「中央(現在の日本語西日本方言の祖)」「東部(現在の日本語東日本方言の祖)」の三大方言に分かれ、

A筑紫、F隼人I原琉球人は『西部方言』、

C吉備、D大和は『中央方言』、

B出雲、E尾張、G古志、H吾妻は『東部方言』の所有者であったと考えています。

尚「日高見」国?は後に日本語化により現在の日本語「東北方言」の祖となったとかんがえるか、あるいは「吾妻」語に(縄文語から)言語を取り替えたのではないか(勿論倭人集団の移住が同化を促した主因せしょうが)と考えています。「日高見国」の北方、北東北は「原アイヌ」諸族の居住地と考えました。

出雲と尾張が同じ倭人の東部方言所有者だとすれば上述の通り物部氏との関係が説明しやすいのですが、

もし「日本語の東北方言」と同じく「縄文人が倭人化を受けて」日本語に言語を取替えたとすると

「尾張氏→物部氏、あるいは同族の天海部氏」との関係は否定的に捉えざるを得ません。

石見に物部氏が進出したのを「出雲」への監視・牽制と捉える説に従えば、出雲と物部はむしろ対立的に捕らえるべきでしょう。

[657] Re^6: 訂正(恥っ!) 投稿者:hn2602 投稿日:03/05/31(Sat) 22:21

> この近藤の青銅祭器による亜文化圏地図(「民族の世界史2、日本民族と日本文化」江上波夫編、第四章p246図2)にはいくつかの空白部分(亜文化圏に入っていないところ)があり、九州南部、北陸〜東北地方日本海側、他にも山口・島根の一部、伊豆・駿河から狭く北方に伸びる地域があります。
>
> また東京湾沿岸から東北南部にかけて「遊郭石斧」の祭器圏があります。私はこのうち

「遊郭石斧」は勿論「有角石斧」の誤変換です。恥ずかしい・・・。

[651] Re^6: 紀元前13〜12世紀 投稿者:菊池元宏 投稿日:03/05/31(Sat) 08:23
> 日本列島に入ったことが、「弥生時代」の開始となったという異端の説を唱えておりますので、


いや、異説というか私はhn2602さんに洗脳されそうです。(笑)
私も日本人の起源は、このくらい古いと思えてきました。
記紀神話のスタートライン(イザナキ、イザナミ神話)もこの辺りの風景が描かれてる、時空の遠大な壮大な叙事詩ではないかと思えてまいりました。

[646] 出雲 投稿者:あきんど 投稿日:03/05/31(Sat) 00:41
> 出雲と尾張が同じ倭人の東部方言所有者だとすれば上述の通り物部氏との関係が説明しやすいのですが、もし「日本語の東北方言」と同じく「縄文人が倭人化を受けて」日本語に言語を取替えたとすると

一口に出雲といいましても、何回か入れ替わりがあるようです。
出雲族が単一とすれば問題はないと思いますが
出雲には何度かの部族流入があり
時代により中核となる部族が違います。
これをどうされますか?

[648] Re: 出雲 投稿者:hn2602 投稿日:03/05/31(Sat) 01:39
> 出雲には何度かの部族流入があり
> 時代により中核となる部族が違います。
> これをどうされますか?

勿論、民族移動は1回だけではなかったと思いますが、基本的には縄文晩期末〜弥生時代開始期にかけての数百年が列島の将来を決めた時期と考えています。実は私は殷周革命が、弥生時代を開く民族移動の画期と考えていました。

おそらく殷周革命自体がいわば「民族移動」の大波のなかで「商民族」の覇権消失をまねいたもので、民族移動は前13〜12世紀に、西方民族の東進と北方民族の南下の形で開始されましたが、倭人が日本列島に入る時期については、前10世紀以前が想定されるべきであるが、日本列島の弥生時代の開始が筑紫あたりでどう見積もっても、前7世紀くらいにしか溯れないようなので、殷周革命後の殷に遺民による箕氏朝鮮の建国に弾き出された集団が、倭人だと考えたのです。

しかし弥生時代の開始が前10世紀に溯るとすると、倭人の移動は東夷諸民族の南下運動の開始の時期と考え、九夷の主力が山東から淮河方面に南下すると同時期に半島を一気に南下して前10世紀以前に列島に進入するという本来の仮説に戻った方が良いように思います。

この倭人の南下には、おそらく倭人の南方に居住していた「韓族」やさらにその南方や東方に広がっていた「古アジア語族」系のギリヤート族類似の集団も参加し、半島南岸では九夷の南下に圧された山東や淮河、泗水あたりの水稲耕作民を含む集団(百越、南島語族やタイ、ミャオ・ヤオ系など)も前後して移住しており、これらの集団も倭人と相前後して列島各地に入り、出雲や古志は「韓族」や「古アジア系」の要素が大きく、これが「倭人語」に影響して「後の東国方言」に発達したのではないかとも考えています。この場合本来の倭人語は後の日本語の九州方言と西日本方言の所有者の言語ということになります。

出雲には「韓族」「倭人」「縄文人」更に「越系」の部族が重層していると思いますが、どの系統の部族が何時来住したかは、まだ成案がありません。

また日本語は半島内で既に後の三大方言が成立していたという長田夏樹説を採っていましたが、弥生時代の開始が溯ったことにより、7世紀の日本語諸方言の祖語がそれより1000年以上前だという長田説を採っても、列島内の基層言語の相違によって「三大方言」が成立した可能性が十分に考えられ、東部〜東国方言の成立過程をもう一度シミュレーションし直す必要がありますので。

[656] う〜ん 投稿者:あきんど 投稿日:03/05/31(Sat) 22:21
お〜い hn2602さ〜ん

あのですね
自分は、もっと、狭い世界の話として突っ込みをいれたのです。

自分が指摘しているのは
年代ももっと短いスパンですし、部族ももっと小規模の集団です。

地域区分や大グループの部族単位等の大まかな分類
歴史の流れとして長いスパンで見た場合は
hn2602さんの説に賛意を持っています。

ですが
細かいスパンで見た場合
相当の齟齬があると思えたので

何か、
見ていると大きい物差しで小さいモノも測ろうとされている気がします。
勿体無いです。
折角、良い仮説なのに
無理して小さいモノを測ろうとして全体像を崩さないで下さいよ

無理して自説と融合されなくても
個別事項として処理された方が良いと思います。

[659] Re: う〜ん 投稿者:hn2602 投稿日:03/05/31(Sat) 22:37
> 歴史の流れとして長いスパンで見た場合は
> hn2602さんの説に賛意を持っています。

ご理解有難うございます。

> 無理して小さいモノを測ろうとして全体像を崩さないで下さいよ
> 無理して自説と融合されなくても
> 個別事項として処理された方が良いと思います。

仰ることはよくわかります。実のところ「倭人の民族移動」を、前13〜12世紀の西ユーラシアのイリュリア人の移動(第二次印欧語族の移動)やインド亜大陸でのインド・アーリア人のガンジス河流域への進出と並行する東部ユーラシアの民族移動の一つと捉えながらも、弥生時代の開始時期に引きずられて、列島への移住を300〜500年繰り下げて解釈したために、無理がきているのです。出雲地域のみの個別の部族移動として処理した方が、良さそうなのですが、その場合には一気に倭人、韓族、古アジア族、越人などが相前後して、移住してきたという仮説を、部族ごとに「先後」の順番をつけなければなりません。これが難しいのです。まあゆっくり考えてみます。

[703] 物部文書 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/04(Wed) 13:54
やはり
唐松神社と物部文書ですね

しかし、物部文書の解説書は読んでいないですね
物部文書は残念ながら何度かの火災等で一部が失われています
よって、かなり歯抜け状態になっていますが

出羽物部氏の物部文書によりますと
各地の物部氏の降臨伝承と同様に
まず、鳥海山にニギハヤヒが降臨し
その後、ヤマトへ移動したと記されています。

現在の出羽物部氏は、守屋の滅亡後、その遺児と郎党達が祖先の地へ逃れたものです。

但し、この出羽逃亡も2説あり
一挙に、出羽に入ったという伝承と
何代に渡り徐々に移動していき、最終的に出羽に辿り着いたという伝承の
2つあります。

[702] 大阪城にあった磐船神社 投稿者:あきんど 投稿日:03/06/04(Wed) 13:44
現在の大阪城の位置にあったとされる磐船神社の件ですが

それって
某HPのコピーですね
勝手に使わないでね

とりあえず
ご説明の通り

勝井純という人による『神武天皇御東遷聖蹟考』にあります。

但し、これには古地図には記載があるとあったのですが
ある機会に平安時代の大阪の古地図を見ることが出来た際に
古い地図を詳細に見ましたが確認できませんでした。

ただ、地図の様式上、正確な位置が判り難く
恐らく、大阪城の辺りと推測される場所に
高津社、四天王寺の分社があることは確認できたので
これが該当するのかもしれません。

事実、聖徳太子以降、磐船神社は四天王寺になったという説
高津社がもともとは石山にあったという説もあるため
これより、古い地図で確認するしかないのでしょうが
聖徳太子以前の地図が現存しているとも思えず
確認のしようがありません。



『住吉大社神代記』「胆馬神南備山本記」によりますと

生駒山は太陽神を祭祀した山となっており
ニギハヤヒの付与されている神格部分に太陽神があることを考えますと
それなりの根拠はあることになります。

但し、ニギハヤヒの大和への侵入は
出雲族の進出があったとしても、それ以降となります。