旧王朝の物語


第六回

 両親の美点を受け継ぎスマートで賢い(したがって一面で面白くない)2代目のボンチは、早速3羽のヒナを孵しました。1981年の秋から1982年の初頭のことと思います。ボンチと米太郎の夫婦はそつなく子育てをしていましたが、手乗りにするため人間が引き取りました。
 生まれる仔は桜文鳥か白文鳥のはずでしたが、みなネズミ色の桜文鳥のヒナのようでした。それでも私は、大きくなると白文鳥になるのかもしれないと思い、せっせと餌付けに励みました。ムキえさの湯漬けという劣悪な食事にもめげずに3羽はすくすく大きくなっていきました。名前は大・中・小、極め付きに安易なものでした。

 春だったはずです。3代目の3羽はヒナ換羽で大人の毛色になりつつあったころだったと思います。当時の習慣として、晴れた日には2階の窓辺(外側に簡単な手すりがついている)に鳥カゴを置いて日光浴をさせていました。3羽は当然一つのカゴに入っていたのですが、悲劇はそんなところにもありました。人の目の届かないその窓辺で死闘が展開されたのです。大と中が大喧嘩となり、人間が気づいた時には2羽とも重傷を負っていました。オスであった大と中が、メスの小をめぐって争いになったようです。兄弟妹の間ながら、三角関係の構図が生み出した悲劇でした。

 小鳥を診てくれる獣医の存在など考えにくい当時としては、負傷した2羽の手当ても飼主がするしかありません。しかし、あの状態では獣医さんがいても結果は同じだったかもしれません。『赤チン』(傷薬)などつけたものの、すでに虫の息だった大はすぐに死んでしまいました。太ももから出血していたように思うので、結局出血多量だったのでしょう。中の方は生き長らえましたが、片脚になってしまいました。関節の下、人間で言えばスネの部分が失われたです。大の一撃は関節部を大きくえぐってしまっていたのです。恐るべき兄弟喧嘩でした。

 それから間もなく、小も死んでしまいました。病気だったのではないかと思うのですが、人間的に見れば、兄弟の悲劇を目の当たりにしたショックもあったような気もします。
 片脚の中だけが生き残りました。文鳥でも片脚で生活は十分出来るのですが、軽快さは失われ、性格がゆがんでしまったものか、彼については、いつも険しい顔をしていた印象があります。結局白文鳥とはならず、ゴマ塩だったと思いますが(脚が印象的過ぎて配色が思い出せないのです)、不自由な体でその後何年も一人暮しを続けました。若気の過ちが尾を引いたわけです。それは悲しい様子でした。

 1982年秋から1983年の春までの繁殖期には、ボンチと米太郎夫婦は2羽のヒナを育てました。当然のように人間が引き継ぐのですが、1羽は早々に死んでしまいました。従って残された1羽は3代目を継ぐ存在として期待を一身に集めつつ成長することになったのですが、それが幸ちゃんです。この名前は姉が当時まだマイナーだった『アルフィー』のファンになっていて(「メリーアン」のヒットでメジャー化するのは1983年夏、その前のシングルは「暁のパラダイスロード」などと言う野暮ったいものでした)、3人のメンバー中でも坂崎幸之助さん派だったので、「幸ちゃん」となったのでした。男性のミュージシャンにちなんだものだったわけですが、やはりと言うべきでしょう、メスでした。そして当然のようにゴマ塩頭だったのです。
 ゴマ塩の箱入り娘は勝手気ままに成長しました。姿は小柄でズングリしていて、ゴマ塩・・・、はなはだ美的とは言えませんでしたが、わがままで愛嬌のある文鳥でした。


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