連載小説  渚美智雄


『大和ファウスト』
第三回


加田麻里子は、ああっ・・・と溜息にも似た、聞きようでは嗚咽にも似た声をあげて、その場にうずくまってしまったことを私は今も鮮明に覚えています。私はあわてて麻里子の背に覆いかぶさるような態勢をとり両肩に手を添えて、大丈夫ですか、と何度も尋ねたものでした。その有様を人形の駒子が見下ろしていた気配を何故か私は感じたものでした。

「すみません・・・急にめまいがいたしまして・・・」。そういう麻里子の両の上腕をつかんで持ち上げるようにして入口の脇に置いてあるソファまで運びました。大丈夫ですか・・・私はもう一度声をかけてから二階に駆け上がり、コップに水を入れようとして、ふと思い立ってコップではなくグラスを取り出し、冷蔵庫の氷を多めに放り込み、ウイスキーのボトルを掴んで階下に降りて行ったのでした。

麻里子はソファの上に横たわっていた。黒いパンタロンに包まれた両脚を軽く曲げてソファに乗せ、脱がれたヒールはソファの下に転がっていた。横寝になった麻里子の腰のふくらみは年齢を忘れさせるほどに艶やかな印象を私に与えたが・・・。

「少しお飲みになれば・・・」と言い、私は氷の鳴るグラスにウイスキーを注いだ。女はゆっくりと上体を起こし両手でグラスを包むと、そのキツネ色の液体を躊躇うことなく喉の奥に流し込んだ。“キツネ色”などと書かず“琥珀色”と書くべきかもしれなかったが、女の髪の色とウイスキーの色が溶け合うようで、やはり“キツネ色”と言わざるを得ない。

そのキツネ色の液体のせいか、女の顔面はみるみる上気して、目立っていたシワもたちまち吞み込まれていったかのように滑らかな肌色に変貌していった。女は何度かに分けてコップの中の“キツネ色”をすっかり呑み込んでしまった。「ああ・・・おいしい」、と麻里子は溜息をもらすように言う。私はその顔を見つめながら、ますます“加賀まりこ”そっくりだと思った。

「すみません・・・朝早くに奈良から出てまいりましたもので・・・疲れが出てしまったようです・・・。ご迷惑をおかけいたしまして・・・」。麻里子はそういって私を見ました。私は、ちっとも迷惑じゃありませんよ等と言いながら女の両手に包まれて空になったグラスにウイスキーを注いだ・・・。女は再びグラスに唇をつけ今度はなめるように少しだけキツネ色の液をすすった。目がとろんと潤んでいたように思う。それからあわてて両足をソファからおろし身づくろいして見せた。

「さっき、駒子の人形を見て、姉さん・・・とおっしゃったようでしたが・・・」と私は聞いてみました。麻里子は深く頷きながら、岸景子さんそっくりなのに驚いてしまったものですから、と言いました。私は岸景子さんとお知り合いなのかと質問を重ねました。麻里子は少し恥ずかし気な面持ちながら自分から来歴を告白してくれたものでした。もっとも、今になってみますと、それがどこまで真実だったのかは、まことに心もとないのですが。

「私、若いころ、少し大船撮影所でアルバイトのようなことをしておりました。奈良の山奥で育ちましてね、都会へのあこがれが強かったんでしょうね、洋裁で身を立てようと単身、東京に出まして・・・まぁ、家出ですよね、早い話が。アパート暮らしでバイトしながら池袋の洋裁学校に通っていました。その学校を通じて大船撮影所からのアルバイト募集がありましてね。女優さんの衣装合わせの仕事です。当時の撮影所はものすごい本数の映画を撮っていたらしく、女優さんの衣装合わせの余裕すらない状態だったようで・・・。撮影直前に衣裳部屋に女優さんがいらして監督さんと衣装を選ばれる。その衣装を女優さんの体にフィットするように短時間で衣装調整しなければならないんです。その“縫子”の手が足りなかったんでしょうね。私は奈良にいたときから映画が大好きで憧れもありましたから直ぐに応募しまして・・・」。

私は納得しました。この部屋に入ってきて撮影用の資料類を見るときの麻里子の、青春を思い起こすような、狂おしい気配と、今の話は無理なく符合していたものですから。

「そこで憧れの岸景子さんとお会いしまして。衣装サイズを調整するときには身体に触れることにもなりますし・・・もう緊張して指先がぶるぶる震えてしまって・・・岸さんはそれに気づかれてお笑いになったんです。“私をその辺のオバサンだと思えばいいのよ”、なんておっしゃってくださいまして・・・大女優なのに本当に気さくな方でした。スター女優さんは、私みたいなバイトが衣装合わせに付くことを嫌がられる人が多いのに、岸さんは若い私と友達のような口を聞いてくださいましてね・・・」。

私は加田麻里子から当時の大船撮影所の知られざる逸話を聞き出せるかもしれないと期待した。映画評論家を副業にしてきた職業病のようなものだったろうが・・・。女は総じてそうだが、一度気を許して口を開くと、もうとめどなく話を続けたがる。この時の麻里子もまさにそうだった。

「決定的に親しくなれたのは、岸さんが『雪国』のヒロイン、駒子役に抜擢されたときです。岸さん自身はこの田舎芸者の役が気に入らなかったんです。モダンな洋服が似合う方がダサい着古したような着物を着なきゃいけないのが不満だったんでしょうね。私も、あの岸さんのちょっと当時としては珍しい西洋風の顔立ちが着物の上に来るのに違和感を感じたんです。そこで私なりに襟巻を工夫して岸さんに見せたんです。それを岸さんは本当に喜んでくださって、ちょっとモダンな感覚に仕上げた襟巻を巻くことで田舎芸者の着物と岸さんの顔が無理なく繋がったんです。監督もOKされたようで、岸さんはその時から私を妹のように可愛がってくださって、私もいつのまにか、図々しくも、大女優・岸景子を“姉さん”なんて呼ぶようになりまして・・・」

あの駒子人形の首に巻かれている襟巻は、加田真理子の意匠だったのかと思うと、わざわざ大船まで足を運んできたことは頷かれるのだ。私は、この時から麻里子にタダならぬ好意を感じてしまったようなのだ。それには、今一つの理由もあったように思う。麻里子によく似ている“加賀まりこ”が『雪国』で、洋子という、駒子を引き立てる無垢な少女の役を演じていたからである。

原作の川端康成は、あの有名な“国境の長いトンネルを抜けると雪国であった”という書き出しに続けて、“向側の座席から娘が立ってきて、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れ込んだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」”・・・と書く。そして数行後に、“悲しいほど美しい声であった。高い響きのまま夜の雪から木魂してきそうだった”と続けている。私は、目の前にいる麻里子が加賀まりこに違いないとさえ思った。私は、人形になった駒子と、生きて訪ねてきた葉子と、一つ屋根の下で自分が主人公の“島村”になったような気がしてしまったのだ。思えばそれは、私を不可解極まりない異次元世界に誘う最初の幻覚だった気がするのだが・・・。


(来月号に続く)

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