連載小説  渚美智雄


『大和ファウスト』
第四回


「姉さんは、あの映画(『雪国』)で自分のすべてをさらけだしたと思うんです。人気女優だった人が一躍、演技派女優として持ち上げられたんですから、それなりの手応えはあったでしょうけれど・・・」 加田麻里子は、そう言ってから押し黙ってしまった。

「岸景子はあの映画の直後に引退してしまいましたね。フランス人医師と結婚してパリに移り住みました。『雪国』で燃え尽きたんでしょうかね?」 私がそう言った時、再び、麻里子の唇は開いた。いささか早口になったように感じたが・・・。

「そりゃ、もうこれ以上の役は来ない・・・そんな気持ちはあったと思いますけど。実際、『雪国』の岸景子は駒子そのものでしたから・・・。でも、私は、引退は結婚が理由じゃないと思っています。結婚なさっても女優を続けるという生き方はありますし・・・相手の方は芸術に理解の深いフランス人ですしね・・・。本数は減っても、役を選んで女優業を続けることは出来たはずなんです・・・。だから、あの時の姉さんの気持ちは、“女優なんて辞めたい”が先にあって、だからこそ、あの方のプロポーズをお受けになったんだと思うんです。もちろん、姉さんは、そんなこと一言も私に言いませんでしたけれど・・・」。

「何か、よほど嫌なことがあったんですかね?」と私は探りを入れてみた。麻里子は反射的に唇を動かした。「あの当時の映画界は滅茶苦茶でしたから。とにかく量産主義で、一本でも多く作った映画会社が勝つみたいな時代でしょ・・・。時間外労働規制なんてないに等しい状態で、大船撮影所も“不夜城”でしたよ。セット数に限りがありますから、撮影終了と同時にセットを解体し、翌朝からの別の映画の撮影のため徹夜で新しいセットを組まなきゃいけません。そのために“深夜組”と呼ばれた裏スタッフが採用されてましてね、今でいう非正規社員ですわ。とにかく人出をかき集めるため、身元の怪しい人も多かった。・・・ほとんど男性です。セットを組む仕事というのは資材の運搬がメインの肉体労働ですしね。そりゃ、気性の荒い男が多い。セットの隅には一升瓶が何本も隠してあって、時間待ちで飲みながら博打を打ってたりね・・・。岸景子はお嬢様育ちですから、そういう撮影所の雰囲気が嫌だったと思います・・・」。

「姉さんは、私にも、若い女が夜まで撮影所に残ってちゃイケナイ。早く帰りなさい、と真剣な顔でしょっちゅう言ってました」と麻里子が言い添えたとき、私は、そういうことか、と思った。“セクハラ”とか“性加害”なんて言葉は当時はなかったと思うが、そういう行為が日常的にあったことは想像に難くなかった。今でも、日本の大手映画会社は制作を下請けに出すことが多くなったが、請負う弱小プロの現場では、加田麻里子の言うかつての大船撮影所のようなブラック職場が存続しているのだ。

「岸景子も何か被害にあったんですか?」と私は聞いてみました。「卑猥な言葉を投げかけられたようなことはしょっちゅうあったでしょうが・・・。新人の若手女優のように“深夜組”の餌食になるようなことは・・・なかったはずです」と言う。それでは、岸景子が絶頂期で引退を決意する理由は何なのか・・・、私は聞かずにはおれなくなったのです。

「・・・あくまで、私の推測ですけれどね・・・。原作の川端康成先生に裏切られたんじゃないかと思うんですよね・・・」 
加田麻里子の目が思わせぶりに光ったのが今も記憶に残っています。恵まれた美しい同性の不幸を喜ぶ女の底意地の悪さのようなものが一瞬覗いたような気がしました。

「『雪国』には駒子の引き立て役で葉子という清純な若い女性が出てきますでしょ。映画では、その役が加賀まりこに振られたんです。当時、“小悪魔”なんて言われて人気急上昇の若手で・・・。最初は岸景子は彼女にライバル意識を持ったとは思いませんけれど・・・格が違いすぎましたから・・・。でも、あることがきっかけになりましてね・・・あの大女優が、素人レベルの新人女優に激しい嫉妬を燃やし始めたの・・・傍にいた私には、女の直感ではっきり分かりましたわ・・・」。

私は好奇心にとらわれすぎたかもしれない。再び口を閉ざした加田麻里子から、何があったのかを聞かずに、この女を返してはならないと思い始めた。私は、空になっていたグラスにウイスキーを多めに注いだものでした。麻里子はゆっくりと飲んだ。それから、深い吐息を吐き出すように、“真相”を語り始めたのです。

「或る日、川端康成先生が撮影所に見学に来たんですよ。原作者ですからね、撮影所のお偉方を先頭に『雪国』のスタッフや俳優が門のところまで出迎えに出て、岸景子は花束を先生に渡す役目だった。川端先生は美しい女性がお好きなんでしょう、上機嫌に見えましたよ。出迎えの一団の中に、加賀まりこもいた訳です。先生は彼女の前を通り過ぎようとした時、足を止められた。加賀まりこは臆すことなく、“こんにちは、私、加賀まりこデス”と文豪になれなれしい挨拶をしたのね。横にいた監督が“葉子役に抜擢いたしました”と口を添えたとき、川端先生は、“おおっ・・・あなたが葉子か・・・そりゃ良い・・・”なんて言うんです。主演の岸景子には一言もかけなかったのに・・・」。

私は加田麻里子の話を聞いて、その場面を思い描きました。川端康成という孤高の作家が、孫のような歳の若い加賀まりこに心を奪われたことを、いかにもありそうなことだと思った。川端文学の根底には、常にあの『伊豆の踊り子』が・・・“性を知らない未成年女性”が存在することに気づいていたからです。つまり『雪国』の本当の主役は、駒子ではなく葉子であることも、私には理解出来ていました。岸景子ではなく、加賀まりこなのです。

「川端康成先生は、『雪国』の映画化の話を聞いたとき、最初は難色を示したらしいんです。駒子は難役ですから出来る女優がいるとは思えない、なんておっしゃったとか・・・。それを監督がいろいろ説明して、“岸景子なら出来るかもしれない”と最後に先生も承諾なさったらしいんです。それを聞いた岸景子は狂喜したのよ。あの人は女優になる前から小説家になりたいという夢をもっていて川端先生に私淑していましたからね。その尊敬する文豪に認められたんだから、誇りに思ったことでしょうよ・・・。それまでは田舎芸者の役なんて私には似合わないなんて文句言ってたのに、一転してスイッチが入ったんですよ。私にも繰り返し光栄だわ、なんて言ってましたから・・・」

その後も、川端康成は幾度か大船撮影所に顔を出したという。鎌倉の私宅からなら車でいくらもかからないという地の利もあったかもしれないが・・・。ただ、来訪は決まって加賀まりこの出番のある時だったらしい。そして必ずそっと何かプレゼントを手渡したという。加賀まりこは少女のように無邪気に喜んだし、それを見て川端康成はますます加賀に恋慕していったらしい。天真爛漫なふるまいが嬉しかったのだろうが、岸景子には、その態度は許せるものではなかった。あまりに礼儀知らずと、撮影所長に注意するように談判したらしいが、出演女優が原作者のお気に入りになることは撮影所にとっても歓迎すべきことだった。加賀まりこには何のお咎めもなかったらしい。岸景子のいらだちが募れば募るほど、まりこの方は川端康成に、これ見よがしな甘えた態度を一層とるようになったらしい。ついに川端は、撮影終了前のタイミングを見計らってやってきて、加賀まりこを食事に誘ったという。まりこに遠慮などなかった。私おなかペコペコなの、嬉しい! なんて燥いで見せて川端の腕を取るようにして、その華奢な上体にもたれ掛かったのだという。その場にいた岸景子は、川端からの一言のねぎらいもなく置き去られた格好になり、その顔面は屈辱に蒼ざめていた、とその場にいたすべてのスタッフも口をそろえて証言しているというのだが。

北鎌倉の隠れ家のような座敷で川端康成に向かい合った加賀まりこは、妖精のように無邪気にふるまい、川端の恋慕を一層かきたてることになったらしい。“先生、こんなにごちそうになっちゃって悪いわ。お礼に何かさしあげたいわ、お望みのものあります?”という。川端は、特に意味もなく“キミの身近にあるものなら何でもいい・・・”と言ったらしい。加賀まりこは、少し悪戯っぽい目をして微笑を漏らした。まさしく小悪魔的しぐさだったろう。いつものようにサイズの二回りも大きいセーターをかぶるように着ていた加賀まりこは、その下にブラウスなど着ていなかった。ちょっと間をおいてから、セーターの背中に逆手を入れて、ブラジャーをはずし、川端に渡したという。川端はよほど感激したらしい。毎夜、それを口元に置いて寝ていたというのだが・・・。どこまで本当の話なのか、どこから聞いた話なのかを明かさないまま、加田麻里子は、私の反応を探るような思わせぶりな目をして言うのだった。私は以前、加田麻里子がどこか加賀まりこの若い頃に似ている印象を持ったと書いたが、この時には、“老いた加賀まりこ”が、若い頃の自らの“黒歴史”を告白しているような気がしたものだった。


(続く)

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