連載小説  渚美智雄


『大和ファウスト』
第五回


「男の方は女と違って、純情ということなんでしょうかね・・・」 加田麻里子は、そう言ってから押し黙ってしまった。

「川端康成のことですか? 文学者とか芸術家はちょっと違うんじゃないですかね。一般論として片づけにくい人種ですから・・・」 私がそう言った時、麻里子は間髪を入れずに返してきた。「女から見れば、芸術家も会社員も銀行員も役人も違いはありませんわ。みんな、オトコなんですから!」 いささか抗議する口ぶりにが感じられたが。

「そりゃまあ、そうでしょうが。しかし、あんたのおっしゃるようなこと、つまり、川端康成が新人女優の加賀まりこを熱愛してしまったということですが、まさか結婚したいとか、そんな話でもないでしょうに・・・。世間から見れば、老人と孫娘ぐらいの年齢差でしょ。週刊誌だって相手にしませんでしょうに・・・」。私は愚にもつかないことを言ってしまったかもしれない。

「男の人は、老人になってからオンナに目覚めることがあるんですよ。何でも、川端先生は『雪国』の撮影が終り加賀まりこが東京に戻ってしまってからも、執拗に手紙をお出しになってらしたそうですわ・・・。まぁ、恋文でしょうよ。でも加賀まりこからの返事はいっさいなかったんです。もっとも相手は人気急上昇中のスターですからね、大量に届くファンレターのひとつぐらいに思ったのかもね・・・。付き人なんかが十羽ひとからげにして加賀まりこに渡して気づかなかったかもしれないし・・・。まりこがホントに気づかなかったのか、気づいて無視したのか知りませんが・・・、川端康成先生は深く傷ついたと思いますよ・・・。そのあたりが世間の普通の人と違うんでしょうね・・・」。

「一方の姉さん(岸景子)は、ざまみろといった気持ちだったと思いますよ。結婚するためにパリに移住して、郊外の素敵なお城で結婚式をあげることになったとき、川端康成先生に仲人を依頼したいと言い出したの。川端先生は断りにくかったんでしょうね、承知したんですね。姉さんは大喜びで、多分、加賀まりこから敬愛する先生を取り戻したという気持ちだったんじゃないかしら・・・。オンナってそういうものですから・・・。大女優も私のような庶民のオンナも、そこは違いがないんです。男性にはなかなか理解しにくいことかもしれませんがね・・・」。確かに、と私は思う。そもそも仲人なんてものは世間の義理の世界のものであり、川端康成にせよ、自分の代表作である『雪国』の映画化が評判を呼び、主演女優がパリで結婚するとなれば、フランスでも読者を獲得する絶好のチャンスになる。川端自身がどうであれ、出版社がこの話に乗らない理由はなかったろう。案の定、フランスのメディアは積極的に報道し、『雪国』の仏語訳はちょっとしたブームになったのだった。川端康成は岸景子の存在によって国際的作家としての注目を浴びたと言えないでもない。さすがに、それが日本人初のノーベル文学賞受賞に繋がったとまで言うつもりはないが。

「岸さんは幸福だったでしょうけれどね・・・、私は川端先生は深い喪失感を胸の奥に抱えたまま晩節を迎えられたと思いますね。加賀まりこに仮託なさっていた“何か美しいもの”を永遠に失ったような深い諦観と言うのかしら、孤独魔に捉えられたと言いますか・・・私には上手く言えませんけれど・・・」。私は、まさかこの女は、加賀まりこへの“失恋”が川端康成が後に、鎌倉の海を望む逗子のマンションで自殺したことの遠因になったとでも言いたいのか、と呆れてしまいました。しかし、女性の直感というやつは、根拠不明であるだけに妙に当たることがある、とも思ったのです。

「岸景子は十年以上パリで暮らして、離婚して日本に戻ってきたでしょ・・・あなたはお会いになりましたか?」 
岸景子は卒寿を超えた今も、横浜でエッセイを綴りながら一人暮らしを続けていると聞く。はるばる奈良から大船まで出かけてくるぐらいなら、岸を尋ねてもおかしくはあるまいと、思ったのだが。

「いいえ。あの方がフランスに行かれてからは一度もお会いしません。私のことなんか覚えてられる訳はないですし・・・。それにハッキリ言って、日本の映画界に戻ってからの岸さんは、私にはあこがれでも何でもなくなりました・・・。“昔の名前で出ています”みたいな感じでしょ・・・。あの時、結婚なんかなさらなければ、とんでもない大女優になれたかもしれないのに・・・ホントにもったいないことでしたよ・・・」。

私は、宙の一点を見据えながら言う加田麻里子に、いささか釈然としないものを感じた。大船撮影所での岸景子との出会いが青春の華やかな思い出であり、わざわざ撮影所の資料が並ぶ私の家まで尋ねてくるぐらいなら、岸景子にも会いたいと思うのが自然なのではないか、むしろ、そちらが主で私の家などオマケと考えるのが自然な気がしたのです。私の疑惑に気づいたのか、麻里子はあわてて言い添えました。

「それに、私のほうも仕事が忙しくなりましたし・・・」。私は“仕事?”と聞いてさらに怪訝な顔をしてしまったのだと思います。仕事をしているタイプには見えなかったものですから。

「これは申し遅れまして」と言うや、加田麻里子は傍らのバックから名刺を取り出して私に手渡したのだった。肩書には“シニア・ライフ・パートナー”とあった。「あんまり聞かないお仕事ですが・・・どういった?」と私は正直に尋ねた。麻里子は含み笑いを浮かべて言う。「まぁ、高齢の方の生活のお手伝いと言いますか・・・まぁ“何でも屋”と言いますか」。私は介護関係かと思ったが、麻里子の説明によるとそうではないらしい。「まだ、要介護まではいかない方がお客様でして・・・。独居の高齢者は食事や買い物、掃除、洗濯といった家事全般がついつい杜撰になりがちなんです。私の仕事は、日常的な家事のお手伝いをさせていただく出張サービス業とでも言えばよろしいでしょうか」。そうか、だから“何でも屋”か、と思いましたが。

「単なる家事代行なら世の中にいっぱいありますが、私どもはそこにちょっとした工夫を加えまして・・・。精神的な空洞を埋めるお手伝いと言いますか・・・。世間には、話し相手もなく、さみしい思いの方がいっぱいおられるのです。特に男性は女性と違って、なかなか隣近所の方とコミュニケーションを深められるのが苦手と言いますか・・・。だから私は、男性高齢者だけを対象にした会員制のお世話ビジネスを思いついたんですの・・・」

加田麻里子は“お世話ビジネス”というとき、妙に色っぽい目をしたのが気になったのでしたが。「実は今お話ししました川端康成センセイの“加賀まりこ失恋事件”からヒントを得たのですの。男性は出世なさって名声を得られた方ほど、リタイアしてからの寂寥感が深いという現実に気づいたんです。高齢男性は皆、“加賀まりこ”を求めてらっしゃるんだと・・・」。

「事務的な関係を超えたパートナーとしての信頼関係を築くまでが大変なんですが、そこを超えれば非常に利益率の高い事業ですの。そもそもお客様は、お金は十二分にお持ちですしね。一年間分の会費を納めていただいたら細かい清算なんかなしで“お仕えするだけです”し・・・ま、今はやりのサブスク型ビジネスと言いましょうか。でも、お客様に打ち解けていただくにはコツが必要なんです。私は、“加賀まりこ”的なふるまいがベストだと気づいたんです。天真爛漫で男性に全く気を使わせないと言いますか、男性特有のプライドに触れることのない無邪気さと清純さ、と言いますか・・・。要するに“ちょっと可愛い孫娘”になるのがコツだと悟りました。そこでちょっと、顔も加賀まりこ風にいじったりもいたしまして・・・」。そうか、整形だったのか。私が最初に麻里子を見たとき、若いころの加賀まりこに似ていると感じたのは的外れでも何でもなかったのです。「しかし、気難しい老人相手の身の回りの世話となると、いろいろ大変なことも多いでしょう」と私は聞いてみました。すると、麻里子は、「そりゃ、いろいろございますですわ」と言い、それから少し間をおいてから、「高齢とはいえ、やはり“男性”でございますのでね・・・」と何やら羞恥の気配を急に漂わせたのでした。


(続く)

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