連載小説 渚美智雄
『大和ファウスト』
第七回
「知らん・・・大和一なんて男はまったく覚えがない」と私は何度か、加田麻里子に言いました。
麻里子は、「もう何十年も会っていないとは、大和さんもおっしゃってましたから、直ぐに思い出されないのも無理はありませんわ・・・」と、微笑を返すのです。そこには、私の認知力の衰えを仄めかすような、憐みと言うか、寂しさのようなものが含まれていたと思います。
「大和さんは、長居さんが書かれた映画評論を熱心に読んでらっしゃいましたよ。雑誌に書かれたものなどは、わざわざスクラップ帖に整理されて大切にしておられたぐらいですもの」
「そりゃありがたいお話ですがね、その方は、私の書くものを気に入られて、いつの間にか、私と旧知の仲のように錯覚しておられるのではありませんかね・・・」 私がそういうと、麻里子は少し考え込むようにしていましたが、「いいえ、だってこちらへ寄せていただくことをお話ししたときには、お土産代わりにと、こんなものをお預かりしてきたぐらいですから」と言って、小さな角封筒を私の前に置くではありませんか。
「うっかり忘れるところでしたわ。私もこのごろめっぽう忘れっぽくなりまして・・・歳は取りたくないものですわね・・・」
上目遣いに私を見て微笑を大きくしている。私にも同じことが言えるはずだと言いたげに見える。私は憮然として、その角封筒をとりあげた。それは封をしておらず、中には小型のスケッチ帖が入っているのが分かった。
「あっ! それは後でご覧になってください。お一人でそっと・・・。私の前でご覧になると、さすがに私も恥ずかしいですし」。
「中をご覧になったのですか?」と私は聞いてみた。「封をしてございませんでしたし・・・現金なんかですと、ちょっと責任がございますし・・・スケッチ帖だと分かった時には、そのまま開かずにしておくべきだったんでしょうけれど・・・大和さんは絵を描かれるのかと興味が沸きましてね・・・。さっきお話しした通り、私どものシニア・ライフ・パートナーの仕事では、お客様の嗜好を知ることがとても大事なものでして・・・」
「何か特別のものが描かれていたのですか?」
「まぁ・・・特別と言えば特別・・・ありふれたものといえば、これほどありふれたものもありませんが・・・」 麻里子はちょっと困った顔をしていた。
「とにかく私がお暇させていただいてから、ゆっくりご覧になってください」 麻里子は私から角封筒を取り上げると、あらためてスケッチ帖をしっかりと中に納め、裏返しにしてテーブルの上にあらためて置いたのだった。それから、麻里子は私の部屋の大半を占拠している映画関連資料の方に向かって立ち上がった。私も自然にそのあとに従う形になったのだが。麻里子が特に関心を寄せたのは、編集されなかった膨大なフイルムを納めたアルミ製の円盤状の収納ケースだった。
「この中には、“雪国”の未編集フイルムもあるのでしょうか?」
「さぁ、どうでしょうかね、ラベルにせめてタイトルでも記入されていれば探しやすいんですが、ご覧の通り数字しかかいてませんからね。長く保存する意図などなかったんでしょうから・・・。おそらく編集段階で、監督がNGにしたカットを使いたいなんてことを言い出すのに備えて、助監督がキープしていたものでしょうから、彼らに分かれば十分だったんです。しかし、何でもない映画だったら、こうして撮影所もわざわざ取っておかなかったでしょうから、やはり名作というか、大船撮影所にとって記念的な映画のNGフイルムが残された可能性が強いのです。だとすればだ、“雪国”があってもおかしくはない」。
私がそう言った時、麻里子の目が輝いたのを、私は今でも覚えている。
「でも、探し出すのは大変ですわね、こんなに量があるんじゃ・・・。これっていちいち、映写機にセットして上映しないとチェック出来ないんでしょうか?」。
「いいえ。そこに編集用のビュアーがあるでしょう」。私はフイルム棚の横に埃をかぶっていた道具を取り出した。左右にあるアームの先端にはフィルムをセットする金具が鈍い光を放っている。
「これにね、フイルムをかけるんです。ハンドルがついてますから自分で回していくと中央部分のモニターにフイルムの映像が浮かぶんで簡単にチェックできますよ」
私はそういって、テーブルに戻り、ビュアーをセットしてみせた。先ほどの角封筒が下敷きにされた形になったが。
私は棚の一番上にあったフイルム収納ケースのひとつを取り出してセットして見せた。中央部のビュアの鮮明度は低い。テレビ画面のような明度を期待していた麻里子を一瞬、失望させたようだったが。
「何が写っているかが判別できれば十分だったんでしょうね。これは何が写っているのかな・・・」。私はビュアの不鮮明な画像を見つめながら少しハンドルを回しフイルムを先送りしてみた。麻里子も興味深そうに見つめている。小さなビュアの画面を覗き込むため、私たちの顔は至近距離に置かれることになった。このとき、私の鼻腔に鋭く侵入してきた麻里子の香水の匂いを今も忘れない。キツネのような哺乳動物特有の匂いが香水の下からにじみ出ているような臭気だった。決して不快感はなかった。オスをひきつける本能的な魅惑の匂いというか・・・。
ビュアの画像が次第にはっきりしてきた。どうやらそれは、男女の接吻シーンだった。
「昔は、この程度のラブシーンでも問題だったんでしょうね」と私は言った。
「検閲でひっかかることを恐れて、所内の自主規制でカットされたんでしょうかね」 麻里子の顔は興味津々といった色合いを濃くしている。今ではこんなシーンは平気でテレビでも放映されている。隔世の感がしたが、思えば、大船撮影所は当時の映画界で最も保守的な撮影所だった。映倫にひっかかることは家庭映画を主にしていた映画会社として世間の信用に関わることだったのかもしれない。
「きっとこのフイルムの山の中には、こういうシーンがいっぱいあるのね。私、この中に“雪国”の禁断のシーンも潜んでいるように思うんです」と言う麻里子の目は見開かれて燃えるように光っていた。
「禁断のシーン・・・。ひょっとして、島村が駒子に再会したときに言う“この指が覚えていた”というところですか?」
「ええ、あのとき、島村役の二枚目男優は、駒子役の岸景子の着物の裾から指を入れるアクションを監督に指示されたという話を、私は岸さんから聞いたことがあるんです。その若い二枚目は緊張してほんのちょっと手を入れるだけで震えてしまったらしい。“それじゃ、この指が覚えていたなんて言えるか。駒子の身体の奥に触ったからこそ言えるセリフじゃないかっ”て監督は激怒したらしい。岸さんは若い男優が可愛そうになったらしいの。本番では、男の手を自ら手に取って着物の奥に導くようなしぐさをしたらしい。監督は感激したらしいのよ。でもこれは、撮影所長の“あまりに官能的すぎる”の鶴の一言でカットされたらしい・・・。岸さんは“私の人生最高の名演技だったのに”と悔しそうに言ってましたからね。そのフイルムがきっとこの未編集フイルムの中にあると思います!」
それから、麻里子は意を決したかのように言った。「あのう、私、明日もう一度お邪魔してよろしいでしょうか。出来たらこのビュアをお借りして、出来るだけ探してみたいと思うんですが・・・」
もちろん、私に異存などなかった。いつかは自分でやらねばならない作業なのだ。その一部を、この奇妙な訪問者がやってくれるなら大助かりである。
「では明日早めにお邪魔したいと思いますので」
麻里子はてきぱきと身づくろいして東京のホテルに帰っていった。
次の日、私はいつもより早めに起きだした。朝食を済ませ、麻里子がいつきても良いように身構えていたのです。
9時になり、そろそろ来るだろうかと思ううちに10時を過ぎ、やがて11時になった。私は、わざわざ二階のベランダに出て、大船駅のほうを見やりました。麻里子のあのいでたちなら、遠目にもすぐ分かるはずでした。電車が到着するのが見えるたびに、あの電車で麻里子は来たに違いないと、何度思ったことでしょう。私は昼食もとらずに麻里子を待ち続けていたのです。横に見える大船観音の横顔が、煩悩を押さえるべしとしきりに諭しておられたような気がします。あたりが薄暗くなっても、ついに加田真理子はやってくることはなかったのですが。
私は、昨日、別れ際に電話番号を麻里子に教えていました。来ないなら来ないと電話のひとつもくれれば良いではないか、と腹立たしい思いがしました。
それから一週間経ち、二週間も過ぎたころには、次第に麻里子の記憶は薄れていき、ひと月もたったころでしたでしょうか。私は、テーブルに出しっぱなしにしていたビュアを元の場所に片づける気になったのです。そして、その下に置かれていた大和一のスケッチ帖を再発見したのでした。
ページを開いて私は唖然としました。どのページにも女性器の実に写実的なスケッチが描かれているのです。私は麻里子が、私の前では見ないで、としきりに言っていた意味がようやく分かったのでした。それにしてもこのような女性器の描写を飽きずに繰り返した大和一という人物をあらためて奇異に感じました。変質者かもしれない。覚えのない男がわざわざこんなスケッチを私に預けた意味は何なのだろうか。私は“ヤマトハジメ”という男が私を厄介な世界に導こうとしているのではないかと非常に不気味なものを感じました。
その瞬間、玄関のチャイムが鳴りました。
私は慌ててスケッチブックをテーブルの下に置き、玄関のドアを開けました。よれよれのコートを着た中年の男が一人突っ立っていました。
。
「神奈川県警の佐田ですが・・・」、男は警察手帳を右手で示し、私をじっと見つめました。