連載小説 渚美智雄
『大和ファウスト』
第八回
「この女性をご存じですね・・・」 佐田と名乗った刑事は私にスマホの画面を突きつけるようにして言った。画面には、あの加田麻里子の写真が大きく取り込まれている。
「知っているか、と言われたらちょっと抵抗がありますが・・・。確かに一度だけ、ここに映画関連資料を見に来られたことがありました。もうひと月になりますでしょうか、お会いしたのはそれっきりですし、電話の一本もありませんから・・・。刑事さんに言われるまで忘れていましたよ・・・」 私は悪びれずに言えた。まったく嘘はないのだから。
「実は、親族の女性から行方不明の捜査依頼が奈良県警に出されましてね。私ども神奈川県警に調査要請が回された次第でして・・・」
上目遣いに私を見る佐田刑事は微笑さえ浮かべずにじっと私の表情の変化を追っている。端正な顔つきで若いころなら映画俳優にスカウトされてもおかしくないな、と私はふと思ったものだが。
「ここへはお一人でいらしたのですね?」 私は素直に頷いた。佐田刑事は何か言うたびに脚をわずかづつ前に踏み出して、すっかり私の住居に入ってきてしまっている。「ここにある映画資料を見にですか?・・・わざわざ奈良から出向いてまで・・・いらしたという訳ですか・・・」佐田は室内を見まわしながら釈然としない表情で言う。
「若いころに大船撮影所で働いていたことがある、なんて言ってましたから、なつかしかったのでしょう・・・」
「ここは公開されているんですか?」
「いいえ。これは私が個人研究用にと、大船撮影所が閉鎖されるときに引き取ったものです。したがって公開なんてことはしてませんし・・・情報提供すら全くしていません」
「となると妙ですな。加田麻里子は、どうしてお宅の存在を知ったのですかね・・・あなたとはそれまで一面識もなかったとなると?」 嫌な言い方だと思いました。いや、言い方というより、その時の佐田刑事の目つきに人を疑うときの独特の鋭いものが感じられたからです。佐田は厚かましくも映画資料を納めた室内をゆっくりと何かの痕跡を見つけようとでもするように歩き回っています。それを岸景子の等身大の駒子人形が迷惑顔で見つめているのです。
私はその時になって、麻里子から渡された例のスケッチ帖が気になりました。無造作に応接セットのテーブルに投げ出したままになっていたのです。それを、佐田刑事が手に取って開いたらどうなるか・・・。何ページにもわたって写実この上ない筆致で描出された多くの女性器・・・。
私は、佐田が資料類に目を移している隙にスケッチ帖を隠してしまおうかと思ったものです。しかし、それは自制しました。刑事というのは、他に関心を移しているようにみせて、さりげなくこちらの動きを探るものだというのを私は何となく知っているつもりでした。もっともそれは多くの刑事ドラマを見てきての“知識”で現実の刑事がそういう鋭いものかどうか知りませんでしたが。
私は代わりにこう言ってみました。
「そういえば今思い出しましたが、あの人はここへ来る前に鎌倉市役所に連絡したらしく、そこの担当者から私に問い合わせの連絡がありましたな・・・」。
佐田は反射的に内ポケットから手帳を取り出し、担当者の名前を聞き出した。私は素直に、市役所の志村正の名前を苦労して記憶を呼びおこすような振りをしながら口にしたものです。
「いや、ありがとうございます。加田麻里子は周到に準備したうえで、ここを訪問したということですからな。非常に有力な情報と言えます」
佐田刑事は内ポケットに手帳をしまい込み、おそらく視野には入っていたに違いないスケッチ帖に特別の関心を移すことなく、市役所の志村を尋ねようとしているようだった。「何か他に思い出すことがあったら遠慮なく電話をください」と言って足早に玄関に向かった。
扉の前で佐田の身体がピタッと止まった。私に振り向いて言う。「その日、加田麻里子はあなたに何か渡しませんでしたか? お土産か何か普通なら渡すことが多いでしょうが・・・」
私はあえて何も渡されなかったと言った。それが、この佐田刑事に私がついた初めての嘘になったのだが。
私は二階のバルコニーにあがり、佐田が背を丸めながら急ぎ足で大船駅に向かうのを確認してから、一階に戻り、例のスケッチ帖を開きながら考え込んだ。別に隠す必要など何もなかったのだ。むしろ素直に刑事にありのままを伝えておいた方が良かったのではないか、と多少の後悔を感じながら思いました。奈良在住のヤマトハジメなどという人物からの預かりものとして手渡されたと言ったなら、あの初老の刑事はどう考えたろう。私が、そのヤマトハジメという人物を本当に知らないのか、という詮索に及び、余計に厄介なことになると、私は隠したことが間違いではなかった、と思った。スケッチ帖に描きこまれた女性器の数々が何か悪意を秘めた罠のように見えてきたものでしたが。
私は二階の寝室を兼ねた書斎にスケッチ帖を持ち込み、執務用デスクの引き出しの奥に納めてから、かなり時間が経った頃だったと思います。あの鎌倉市役所の志村正から電話が来たのです。
「また、やっかいなことになりましたなぁ・・・」と志村はいきなり言った。「あの佐田刑事、今、帰りましたよ。まぁ、相変わらずご熱心なことですよ・・・いつもながら・・・」と続けてくる。
「あのデカさんは神奈川県警きっての変人で有名でしてな。年令は私と同じぐらいですから、もう定年近いはずですがな。高卒で警察に入って、新米刑事の時代に例の逗子のマンションでの川端康成自殺事件に出会いまして、それが彼の刑事人生を狂わせたんですな・・・」
またしても川端康成か・・・私は不気味な因縁を感じました。加田麻里子からさんざんに聞かされた『雪国』の逸話が思い出されます。
「川端康成は日本人で初めてノーベル文学賞を受賞して栄光の絶頂にあると世間は思っていたんですがね。受賞から数年後での自殺でしょう。それも仕事場にしていた逗子のマンションでガス自殺・・・。部屋は内側からロックされ周到に隙間が目張りされていた訳で状況的に自殺としか考えられなかったんですがね。やっこさん、新米刑事の分際で、これは事件だと言い出した。川端には自殺する理由が見当たらず、確かに遺書の類は一切なかったんですがな・・・」。
確かにあの事件は世界的な衝撃だった。しかし直ぐに、世間は川端文学に流れる深い無常観こそが招いた自殺という風に納得してしまった。ノーベル賞を得たことで逆に何の目標ももてなくなったのだろう、という精神鑑定医の判断もあった。しかし、疑問をさしはさむ意見もなくはなかった。あの岸景子もそうだった。エッセイストでもあった岸は総合雑誌の追悼特集で、「センセイの死が文学者独自の人生観から来たものだとは思います。私が納得いかないのは、その方法です。川端文学ほど美学にこだわっったものはありません。センセイは多分に自分の人生を作品のようなものだと考えておられた。だとしたら、ガス自殺なんていう幕引きほど川端美学に矛盾するものはないじゃありませんか。私は、事件である可能性は非常に強いんじゃないかと思えてならないのです」と。
「まったく奇妙な事件でしたな・・・」と志村は溜息をつきながら続けてくる。
「自殺の動機は芸術家特有の人生観で片づけられ、他殺と考えても、その動機がない。鎌倉市内の自宅でなら、書画骨董類の収集だけでも莫大な財産ですから、それらを盗む目的で押し入って偶発的に作家が被害にあったというなら分かりますわ・・・。しかし、仕事場に借りていたマンションなんかには、原稿ぐらいしか“金目になる”ものはないということで、動機の線からも事件性は完全に否定されたんでしたが・・・。あの佐田刑事だけは捜査陣の中でただ一人、自殺での幕引きに納得しなかった。本部が解散されてからも、佐田は休日をつぶして周囲への聞き込みを続けたんです。・・・もちろん、何も手がかりも掴めません。あそこは一帯がヨットハーバーですからね。富裕層がレジャーにやってくるだけで、コミュニティとして成熟してませんから、見知らぬ人間だらけの村で有力な手がかりなどある訳がない。・・・しかし、それこそ佐田刑事には事件性の根拠に思えた。金目狙いでない怨恨が動機としたら、これほど殺害しやすい場所はないという訳です。たしかに一理はあった。ハーバーに面したベランダを使えば侵入にそれほど苦労しないのは確かなんです・・・」
「しかし、怨恨のセンでの捜査となると、下手をすれば、世界的文豪の名誉を毀損する展開にもなりかねない・・・ということで“円満に”自殺で決着した。佐田は個人的な捜査行為を叱責され、彼は問題児扱いで、警部にすら昇進できずにくすぶってきた。まぁ、良い歳をして今回のような他県警からの捜査依頼の窓口をやらされているとはね・・・気の毒だとは思うが、それにしても、長居さん。あんな変人刑事に疑われたのは不運でしたな・・・異常に“真実”に執着する性質ですからな・・・行方不明捜査なんて、適当にやっときゃいいんですがね、全く・・・」
しばらく間をおいてから、志村が声を潜めるようにして言い出した。
「それにしても、監視カメラというのは厄介ですな。大船駅周辺も結構、多く設置されていましてね、加田麻里子が駅を出て、長居さんの高台の家に向かう坂道を昇る姿がカメラに捉えられていたというんです。佐田刑事というのは、それを入念にチェックしてから、長居さんに聞き込みに行き、私のところにウラを取りに来た訳でしょ。長居さん、本当に災難でしたな・・・」
私は一瞬不快な気持ちになったが、加田真理子が家に来たことは事実であり、監視カメラに写っているのは当然のことだった。志村が何を災難というのか分からない。
「カメラに写っているのは当然でしょう。彼女はここに来たんですから」
「そりゃ一日目に限ればそうでしょうが、佐田刑事に言わせると、二日目にも坂を昇る姿が写っているというんです」。
私はそんなはずはないと思った。そもそも、あの日、私は麻里子の再訪を期待してベランダから大船駅をウオッチしつづけていたのだ。まさか、私がベランダにいるときに、麻里子は一階の玄関から侵入したとでもいうのだろうか。
。
「長居さん。あんた、あのデカに疑われてますよ」、受話器から押し寄せる志村の声が一瞬遠くなったような気がしました。