連載小説  渚美智雄


『大和ファウスト』
第九回


鎌倉市役所の志村正に脅かされて多少の憂慮はあったが、その後、県警の佐田刑事が顔を見せることはなかった。しかし、忘れてしまえるほど私は楽観的にはなれなかった。何しろ手元に、加田麻里子から渡されたスケッチ帖があるのだ。
あれがある限り、私が再び平穏な心持になれることはない気がする。

そもそもの持ち主の“大和一”(ヤマトハジメ)という男が気になる。私のことを“旧知の仲”と言ったそうだが全く心当たりがない。唯一の手がかりとも言うべきスケッチ帖も問題がありすぎる。描かれている10枚程度のスケッチは、いずれも女性器の克明な写実絵だった。単なるいやがらせにしては、入念すぎる力作だった。変質者の作品とも思えない。こんなものを私に託そうとした意図が読めないのです。テレビを見たり本を読んだりしていても、ふと、このスケッチ帖のことを思い出し気が滅入ることが多くなりました。

加田麻里子の“失踪事件”からひと月ほど経過した頃だったでしょうか。またしても、私を尋ねてきた女性があったのです。その女は事前に何の連絡もなく突然、玄関のチャイムを鳴らしたのです。高台にある一軒家のわび住まいにも、たまにはチャイムが鳴ることはあった。たいていは何かのセールスであったり、新興宗教とおぼしき勧誘役の中年女であったり・・・。私はドアホンのテレビ画面を見ながら、間に合ってますとか、興味がありませんと言って、相手が立ち去らせるのが常でした。

その時もそういうたぐいの訪問者だと私は思っていた。しかし、テレビドアホンに写った女に私はドキッとしました。美貌だったこともありますが、まっすぐに家の中を凝視するかのような目つきに殺気のようなものを感じたのです。

「私、先日こちらにお伺いしたはずの加田麻里子の身内のものです。すこし話を聞いていただきたいことがあります・・・」
そういって瞬きすらせずにこちらを見つめているのだった。私は玄関のドアを開けてしまいました。
「長居公一さまですね?」。そういう女はドアホンの画像の印象と違って小柄だった。そして、画像以上に顔は美しかった。年令は30台前半ぐらいだろうか。地味なベージュのコートを着ていて、髪は後ろに束ねて結わえているだけで、ネックレスやイヤリングといった装飾品の類は一切、身に着けていないことが見て取れた。
「ええ、そうですが、あなたは?」 

「岩瀬志麻と申します。加田麻里子の姪に当たります・・・」 女は会釈すらせず微笑すら浮かべない。私をじっと見つめてそれだけを言った。私は、加田麻里子の言葉を思い出していた。あのシニアライフパートナーの仕事の話の時に一度だけ出てきた気がする。共同経営者だが、考え方が合わないという愚痴を聞かされた記憶が蘇った。そういえば、ナースの資格を持っているとか言っていましたが、なるほど白衣が似合いそうな感じがありました。

私は、岩瀬志麻を中に入れ、加田麻里子のときのように、玄関近くにある粗末なソファをすすめました。女は躊躇うこともなく、コートも脱がずに腰を下ろしました。背中がまっすぐに伸び、上体を動かすこともなく、相変わらず微笑もなく・・・。

「叔母はこちらさまに何かお預けしませんでしたでしょうか?」 女はそう言うなり私を凝視する。

「いきなりそう言われましてもね・・・叔母様、加田麻里子さんでしたか・・・こちらにいらっしゃったのは、たった一回だけで、もうだいぶん前のことで・・・何とも・・・」。
「私、困っているんです! 急に行方不明だなんて・・・仕事のこともありますし、何かあるときは私に必ず連絡をくれてました。それが急に行方不明で何の音沙汰がないなんて信じられません。事故か、何か事件に巻き込まれたに違いないんです!」
女は早口に言う。
「もちろん、警察に相談しました。でもラチがあかないんです!。神奈川県警にも連絡して捜索中ですので・・・なんて何度も聞かされましたが、本気で調べているとは思えません!」
私は女を少し落ち着かせなければいけないと思いました。二階に上がってコーヒーをいれ一階に戻って女の前に湯気の立つコーヒーカップを置きました。加田麻里子の時にはウイスキーを出したことを思い出しましたが、今回の岩瀬志麻には、そんな気も起こりません。いや、私にそんな気を起こさせなかったというべきでしょうか。女は少しコーヒーをすすると声に多少の落ち着きが戻ったようだった。

「私は・・・叔母が担当していたお客様を疑いました。シニアライフパートナーなんて言ってますがね、叔母は男心をくすぐるのが上手いんです。お客の中には本気で叔母と結婚したがっている人もいるなんて聞かされたこともありますし・・・そういう気持ちのもつれで事件に巻き込まれた可能性が高いと思うんです。私は、叔母の顧客名簿を頼りに片っ端から電話を入れ、急に当人が具合が悪くなりサービスを中止させてほしいと謝って・・・でも、急なことだけに納得してくれない人もいますし、会費の清算なんかもしなければいけませんでしたし・・・」
私は多少の同情をもって女の話を聞いていたが。

「あなたが麻里子さんの仕事を引き継ぐ方法もあるんじゃありませんか?」 私はそう言ってみたものです。

「嫌です! 私がお世話するのは女性だけです」 女の語気には鋭いものがあった。私は、加田麻里子の話をまたも思い出した。岩瀬志麻本人を目の前にして、麻里子が言った“男性嫌悪症”という言葉に実感が伴った。志麻は相変わらず背筋を延ばしコートの前をしっかりと閉ざしたままでいる。高齢とはいえ、私も“男”の部類ではある。しかも独居となると、志麻は相当の警戒感を秘めていたに違いありません。

「でもまぁ皆さん、最期には仕方ないと諦めてくださったんですが・・・お一人だけ難しいことをおっしゃる方がおられまして・・・ヤマトハジメさんという方でして・・・。叔母に鎌倉の長居さん宅を訪ねて届け物をお願いしたとおっしゃる・・・。それを取り返して来てくれとおっしゃって、でないと訴えるとまで言われるものですから・・・こうしてお邪魔することになったんです。私も言いましたよ! わざわざ奈良から鎌倉の大船まで行くんだから、長居さんが何も預からなかったと言われたら諦めてほしいとね」。

「しかし、そんな貴重なものなら・・・私も何か思い出すはずですがね・・・。あの日、加田さんは、こう言っては何ですが、手土産ひとつお持ちにならなかった・・・」 
私は、預けられたあのスケッチ帖のことを話すべきかどうか迷っていたのです。女性器の描かれたスケッチを見て、この女がどういう反応をするのか想像してみた。“男性嫌悪症”の女なら、こういうものを描く男に対して異常な反応を起こすかもしれない。それを厄介に思いながらも、好奇心も働き始めていたのです。

「そう言えば、何か事務封筒のようなものを渡されたかもしれません・・・。しかし、その大和氏が大騒ぎするような貴重なものとは、とても思えませんがね」

「それ、今もありますか?! 見せてください!」と志麻は言う。目が異様に光っていた。私はわざと、どこにしまったか覚えがなくて、と言い、探してみましょうと勿体ぶりながら二階にあがった。机の引き出しの奥からスケッチ帖を取り出し、あらためて茶封筒に納めて、セロテープで封をした。自分は中は全く見ていないというカムフラージュのつもりでしたが。

一階に戻り岩瀬志麻に封筒を見せた時、志麻は立ち上がって私から奪うようにそれを手にした。再びソファに腰を下ろすや、封を切ってスケッチ帖を取り出し躊躇いもなく中を開いた。
想像に反して、志麻は女性器のスケッチの群れに何の動揺も見せず、一枚づつ点検するかのようにページをめくり続けた。10枚ほどのスケッチを見るのにどれほどの時間が経ったろうか、女はようやく顔をあげた。私はきまりが悪かったが、あえて驚いた表情を作って見せましたよ。

「いやはや、驚きましたな。・・・こんなものがそんなに値打ちがあるんでしょうかね」と言ってみる。
女は黙ってもう一度はじめから一枚一枚スケッチを点検し、ページをあわただしくめくったり戻したりして、それぞれのスケッチを細かく比較してみているようだった。

「こんなものをせっせと描くなんて、大和一とかいう男はなんて暗くて嫌らしい奴なんでしょうね・・・」とつぶやいてみる。
「あなたのお友達なんでしょ?」と女はスケッチ帖から目を離さずに言う。
「違いますよ! 大和一なんて私は全く知らないんです。叔母さんにも言いましたが、会ったこともなければ喋ったことさえありません。こんなものを描くような男と友人だなどと・・・迷惑千万ですな」と私は憤って言いました。

「・・・これは長居さんがおっしゃるような性格の絵じゃないと思いますよ。前に勤めていた病院で、内臓を執拗に描かれていた外科の先生がおられましてね。手術の前になると、執刀する臓器の絵を丁寧にお書きになるんです。イメージをしっかり掴む為だったんでしょうね。このスケッチには、同じようなものを感じるんですけど・・・」

私は驚いた。岩瀬志麻は私にスケッチ帖を見せながら言ったものでした。
「女性器というのは人間の器官の中でも最も多様な形状を見せるものです。男性器の単純さと比べると月とスッポンです。凸部と凹部では一般的に凹部の方が複雑な形状になりやすいんですけど、女性器は典型ですね。でもいくつかのパターンはあるんです。ひとつは大陰唇の厚みです。厚い薄いで女性器の外形は全く違います。非常に厚い場合、小陰唇は完全に覆われて筋のようにしか見えません。男性はよく、“スジマン”なんて仰るようですがね。逆に大陰唇が薄いと小陰唇と一体に見え、バラの花びらのように多層な皴状に見えます。“ハナマン”なんて言う男性もいるようですが・・・。小陰唇もひだの多い少ないがある訳です。つまり、大陰唇の厚みと小陰唇のひだの多少の組み合わせで大きくは4パタンに分かれると言って良いのです。・・・長居さんがおっしゃるような性的な変質者の場合、女性器のカタチの多様性に執拗に好奇の目を向けるものですが、この10枚のスケッチはいずれも一つのパタンに限定されていますでしょ」

私はあらためてスケッチ帖をめくって確かめてみた。岩瀬志麻の言うように分類的な見方をしたことはないが、言われてみればどれも一つのパタンの女性器だったのです。大陰唇は厚く、小陰唇のひだは少ない。その加減を微妙に変化させて、10枚のスケッチは描かれていたのです。

「そう言えば、どの絵にも左下隅に“×”が小さく書いてあります。・・・最期の10枚目にだけは“〇”とも“△”とも見える印が付けられています。まるでこれが正解とでも言うような・・・」
「大和という人は、モンタージュスケッチを描く要領で、ある女性器の“似顔絵”を描いていたんじゃありませんか。この10枚目の絵こそ、苦労して到達した答だったんですよ。だからこそ必至で取り返そうとしたんじゃありませんか?」

岩瀬志麻はニコリともせずに言う。しかし、そんな“貴重な”ものを大和一という奴は、何故、私に預けようとしたのか、そして、その使いをした加田麻里子は何故、直後に失踪したのか・・・見当が付きません。私は困惑を隠せなかったのだと思います。

そんな私の顔を正面から見て志麻は言ったのです。
「長居さん! 私と一緒に大和一さんのところに、これを返しに行っていただけませんか。・・・このままでは長居さんも気持ち悪いままじゃありません?」
「そんな!」と私は思わず反発したのですが、岩瀬志麻の冷たく澄んだ目に見つめられて、思わずつぶやいてしまった。
「大和一は・・・奈良のどこに住んでいるんですか?」

志麻は、抑揚のない声で言った。
「奈良の吉野の方ですわ・・・」


(続く)

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