連載小説  渚美智雄


『大和ファウスト』
第10回


京都に向かう新幹線の中で、私は幾度も、いまいましい気持ちに襲われた。あのような“いかがわしい”スケッチ帖を返すために、会ったこともない“大和一”という男の処へ行かねばならないはめになった自分のふがいなさが腹立たしかったのです。

加田麻里子の姪だという岩瀬志麻という女は強引だった。「あなたが預かったものである以上、あなたがお返しに行かれるのは当然じゃないでしょうか」といった言葉を何度繰り返されたことか。その執拗さに根負けしたということもあってでしょうが、決定的だったのは、その大和一の住所に気を取られてしまったからなのです。

志麻は最初、おおまかなことを言った。“吉野”という地名には魅かれるものはあった。もう大昔のことになるが、花の季節に学生時代の友人の何名かと一目千本のあたりを物見遊山した記憶もあった。私は、さらに、「吉野のどこでしょうか?」と聞いてみた。志麻は面倒くさそうにバックから顧客名簿を取り出し、少し眉間にしわを寄せながら、名簿に記されていた住所を読み上げたのです。

「・・・大和国吉野郡・・・」
志麻はその先を読めずに私に名簿を示したのです。そこには、“国栖村”とだけ記されていました。大正時代そのままの住所が記されていたらしいのですが、加田麻里子が記したとすれば、どういう戯れのつもりだったのでしょう。
志麻は、何これ? といった顔をしている。“大和国”が今の“奈良県”だということも知らなかったのかもしれません。

“国栖”は“くず”と読む。谷崎潤一郎の高名な短編小説である『吉野葛(よしのくず)』の舞台なのです。どういうわけか、昔から私はこの小説が気になっていました。谷崎が本当に当時は険しい山間の僻地であった、あのあたりを歩いたのかどうかは分かりませんが、義経の愛妾であった静御前の形見とされる“初音の鼓”の伝承を巧みに織り込み、読者を奇妙な時空に誘いこむ構成の巧みさに感心した思いは今も強く残っていたのです。というより、そこに単なる小説上の技巧以上のものが潜んでいるのではないか、と今も考えられるのでした。いつか国栖の地を見てみたいという思いが私にはあったのです。

行くのなら、こんな怪しげな用で行くこともなかろうに・・・私は新幹線の窓際の席に身を沈めながら、飛ぶように流れていく景色を眺め、自分の人の好さに自己嫌悪を感じていたのでした。

それにしても、あの小説の初音の鼓は、小説の小道具として出色だと思います。謡曲や歌舞伎などで有名ですが、静御前には義経の臣下である“狐忠信”が密かに身辺を警護しています。静が愛用する鼓には親狐の皮がはってあって、その音は子狐である忠信には特別の響きとして聞き分けられるのか、静は危機に出会うや鼓を打ち鳴らすのです。これは単なる物語の展開上の便宜を超えて、谷崎潤一郎が生涯秘めていたとされる母親への思慕を密かに告白しているのではないか、と私は長年考えてきたのでした。

そんなことを考えると、いまいましい思いも薄らぎ、何故か、この忌まわしいスケッチ帖にも母親狐の体温が籠っているような気さえしてくるのでした。

久しぶりに乗った新幹線は昔に比べずいぶん速度が増した気がする。考えていた以上に早く京都駅に着いたのだ。そこからは、岩瀬志麻に指示された通りに近鉄に乗り換え、特急で樫原神宮前に向かう。これもまた想像以上に早く、私は、志麻と落ち合う約束の駅前のロータリーに着くことが出来たのだった。

約束の時間には約半時も早かったのだが、岩瀬志麻は待っていた。ロータリーの片隅に、驚いたことに白衣姿で突っ立っていたのだ。すぐ後ろに白い軽四輪車が停めてある。まさしく女医が往診に出向くような姿だった。

「お待たせしてしまったようですね。こんなに早くからおいでとは思いませんでした。」 私は愛想笑いを浮かべながら言ってみたが、志麻はにこりともしない。「前のお客さんの用事が早くに済んだのです。長居さんには約束より早く来ていただいて助かります。それではすぐに向かいましょう」 それだけ言うとさっさと車の運転席に乗り込んだ。

私はあわてて車の向こう側に回り、身を縮めるようにして助手席に乗り込んだ。私はまず近くで志麻と昼食でもとり、大和一の家に向かう段取りなどするつもりだったが、志麻にはそういう話を切り出す隙がない。もう、昼近くになっており、私は多少の空腹を覚えていたのだが。

「ここからなら、そんなに時間はかからないはずです。さっさと用事を片づけてお互い自由になりましょう!」。

「岩瀬さんはヤマトハジメさんの家にいかれたことはあるのですか?」 
「全くありません。電話でお話ししただけですから」
「国栖のあたりは今でも相当に過疎地帯のはずですが、ヤマトさんの家を見つけるのは簡単ではないのでは?」
「この車は叔母が使っていたものです。ナビに運転履歴が残っていますから、それに従って行けば、迷わず行けるはずです」

会話はそれだけだった。志麻は背中を延ばした姿勢でハンドルを握り正面を見据えたまま一度も私の方を向かなったのです。私は気まずいまま身を固くして、国栖の地に運ばれていったのです。曇り空の日だったことをはっきりと覚えています。駅前を離れて幅の広い国道を走り、やがて吉野川沿いの細い道に分け入り、あたりにほとんど人家もみないエリアに入ると、周囲の景観は無彩色に包まれていく気配が濃くなりました。何か嫌な予感が大きくなっていく気がしたものです。

やがて、渓谷の山間を車は縫うように動き、吉野川は渓流となって、白く沸き立つように変容していきました。私は、『吉野葛』で主人公と親友が積もる話を交わした大岩があるのはこのあたりだろうかと思ったりしていました。突然、ナビのアナウンスの声が車内を圧するように響きました。“目的地周辺です。運転お疲れ様でした”という機械的な音声を聞いて、志麻は舌打ちをした。

「こんなところで車を停めても、家なんてどこにもないじゃないのよ!」 志麻が苛つくのも当然だった。そもそもこんな狭い車道で車を停めておいたら、他の車がくれば通行できなくなる。志麻は仕方なくそのまま車をゆっくりと進めて行った。やがて視界を遮っていた左右の樹林がまばらになり川の向こうに小さな村落が見えてきた。私もほっとしたが、その瞬間、ドンと音がして車体が揺れた。志麻の横のウインドウに、ヘルメットとマスク姿にサングラスをかけた男の顔が現れ中を覗き込んでいる。その顔が近づいたり離れたりしながらついてきた。再び、ドンという音が今度は私のすぐ横でした。やはり、ヘルメットを目深にかぶったマスク姿の顔が車内を覗き込んでくる。どうやら、二人組の不良ライダーのようだった。

ドン、ドンとライダーが左右から我々の車を片足で蹴ってくる。目的が分からない。単なるいやがらせか、それとも小遣いでも稼ごうというつもりか。順調だった志麻のハンドルさばきが俄かに狂った。車が右に大きく傾き、ライダーの男の悲鳴が聞こえた。突き出していた木の枝に身体をぶつけたらしい。私の側でオートバイを走らせていた男が減速して、ウインドウから遠ざかっていった。

私は後ろを振り返った。はたして男たちは並んでオートバイを走らせ、我々の車を猛追する構えを見せている。志麻もバックミラーでそれを認識していた。アクセルを踏み込んで速度をあげた。本気になった二輪車のライダー達を軽自動車が振り切ることは難しい。ドギーンという鈍い音がして車が前のめりになるような衝撃が来た。男たちのどちらかがオートバイの前輪を車の後部バンパーにぶつけてきたらしい。再び同じ衝撃が来た。男たちは交互に車にぶつかっては面白がっているようだった。

ここで車を停めたらどうなるか、と私は考えていた。二対二とはいえ、こちらは老人と女。相手は体力旺盛な若い半グレに違いない。車を停めたら終わりだな、と思った。志麻も同じことを思ったに違いない。アクセルを緩める気配はなかったが、ハンドルは小刻みに震えている。車道の凸凹がハンドルに伝わっているのか、それとも志麻の両腕が震えているのか。おそらく両方だろう。志麻の性格から考えて車を停めることは考えにくい。燃料も十分にある、となれば車を吹っ飛ばすだけ吹っ飛ばすことになるだろう。最悪のケースは、志麻の動揺が限界に達してハンドルを切り損ね、吉野川の急流に墜落することか・・・。これが最もあり得ることだと私は直感した。

あっという志麻の声がした。正面のフロントガラスのはるか向こうから物凄い速度でこちらに向かってくる何かに気づいたのだ。私も認識したが、それが何かは分からない。

それは一頭の馬だった。みるみるこちらに向かってきた。正面衝突を覚悟して志麻は反射的に急ブレーキを踏んだ。車は左右に車体を揺らしながらも直ぐには止まらない。
衝突不可避と思った瞬間、フロントウインドウから馬が消えた。

ようやく停車した車の中で、一瞬我々は顔を見合わせ、それから後部を振り返ったのだった。

我々がそこに見たのは信じられないような光景だった。馬は悠々と我々の車を飛び越え、馬にまたがっていた男は手にしていた鞭を奮って、二人の男たちをしたたかに打ちのめしていたのである。
やがて、男たちは、エンジンがかかったまま倒れていたオートバイを起こし大急ぎで逃げていくのが見えた。馬に乗っていた男は後を追うこともなく、我々の車の前に出て片腕を上げて誘導し始めた。志麻も素直に従った。

やがて車の向きを変えられるスペースを見つけて、男の指示するままに方向転換できた。それから男は馬をギャロップさせて、通り過ぎてしまった村落のほうに我々を誘導したのだった。

男は馬から降りようともせず、志麻の横のウインドウから覗き込むようにして、我々が行くべき大和一の家の方向を指さしたのだった。我々は車を車道の脇に寄せ、歩き始めた。見ると、馬上の男は、もう一度右腕を高く掲げ、大和一の家の方向を指さした。サングラスをかけていたので人相は分からなかったが、面長の顔立ちで年令は30代に見えた。贅肉のかけらもない体重を極限にまで絞り込んだ上体から、騎手なのでは、と思ったが。

私は、既に遠くになった馬上の男に向かって軽く上体を折って礼をした。馬上の男は軽く答礼したかとみるや、馬を駆って消えていってしまった。今思い起こせば、国栖の不良ライダーに追いかけられ、謎の馬上の男に救われた時から、この世に並行して存在するという異次元世界(パラレルワールド)にワイプしてしまったのではないかと思わぬでもない。

そこが集落であったことは間違いなかった。十軒程度の古びた木造の平屋が吉野川の渓谷をはさんで散らばるように建っていたが、そのほとんどに人気を感じなかった。大和一の家があるとするなら、ひょっとすれば、彼はこの集落に残っている最期の居住者なのかもしれなかった。

日没までまだ幾時もあったはずだが、あたりは黒く厚い雲に覆われて夕刻のように暗くなっている。それが目的の家屋を知るのに役だった。たった一軒、明かりが漏れている家屋があったからである。

志麻と私は無言でそこに向かった。はたしてその家屋の入口には表札が掲げられていた。墨で書かれた文字は半ば消えかけてはいたが、それでも、“大和一”と読めたのである。


(続く)

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