連載小説  渚美智雄


『大和ファウスト』
第12回


「お着きになられたようです」
大和一は緊張した声を出した。私には何のことかさっぱりわかりませんでした。大和という男は、やはり狂人なのではないか、と思うばかりだったのです。

大和は両腕を床につき、上体を深々と折った。私は、さぞ呆れた顔をしていたのだと思います。大和は、それに気づいて、私にも同じように拝賀の姿勢をとるように、眼を鋭くさせて小声で命じた。そんな理不尽な命令を聞く理由もなければ、ましてや義理もない。しかし、その時、何故か私は、大和に倣って両腕を床についたのでした。

「顔を伏せなさい! 決してお上のお姿を見てはなりませんぞ・・・」
私は言うとおりにした。座敷の気配が奇妙なものに変わったことが私にも分かったのだ。私は金縛りにあったように大和一に従うはめになったらしい。

「・・・お上にはつつがなく新年を迎えられ恐悦至極に存じ奉ります・・・」
顔を伏せたままの姿勢で大和は言った。どうやら、我々に向かい合うところに、“オカミ”とやらが鎮座ましましておられるらしい。

「隣に侍ります者は、鎌倉からはせ参じました我らの新しい同志にございます」
ちょっと待ってくれ! なんで俺が“同志”なんだ! 私は抗議しようとしましたが、その瞬間、頭の奥の方で“オカミ”の声が聞こえた気がしたのだ。他人の声が自分の肉体の深部から湧き上がってくるような経験は私にはありませんでした。
「鎌倉の宮には、そろそろ梅が咲いておろうが・・・」
そんな言葉が私の頭の底から浮き上がってくるようでした。私は昔、クリスチャンの友人から、神の声は自分の内部から聞こえてくるものだ、といった話を聞かされたことを思い出しました。確かにこれは、この世にあるものの声にあらず、霊として漂っているものが、私の魂に溶け込んで、私に言葉を感じさせるような、そんな“声”なのでした。

「お上からご指示賜りました“秘部”の絵柄も特定できましたからには、この鎌倉の同志にも大いに働いてもらい、お探しの女人を捉えるようにいたします」
大和一の声は、私の横から、私の耳を通じて普通に伝わってきていた。

「急がねばならぬぞ・・・この国はいよいよ崩れ落ちようとしておる。すべてはあの女狐のせいじゃ・・・一刻も早く捉え駆除してしまわねばならぬ・・・それがこの国の万民の安寧のためなのじゃ・・・さすれば、この国は本来の国体に戻り、チンの新政によって再び輝かしい時代に戻るであろう。・・・しかし、急がねばならぬ。こうしておる間にも、あの女狐は、この国を呪いつくし破滅の淵に落とそうとしておる・・・今こそ真にこの国を愛する者どもは、命を投げ出して救国の眞を尽くすべし・・・」 再び、地鳴りのような声が私の頭の深部から湧き出してきたのでした。

ハッ! 大和一は上体を振るわせるようにして一声発したのです。それからしばらくは奇妙な間がありました。再び“オカミ”の声が聞こえました。
「鎌倉のご仁は連歌はなされるか?」
私は、イイエと言いました。自分の脳の底から浮き上がってくるものに急いで蓋でもするように、私の声が自分でも不思議なほどに明瞭で、しかし、どこか不気味な響きをもって出てきたのです。


「ならば、一文字連歌をいたそう。鎌倉のご仁は、戦後のこの国の有様を一文字で表すとすれば何を選ぶか・・・」
私は、しばらく黙っていましたが、“落”と応えました。吉野川の渓流に墜落した岩瀬志麻のことが気にかかっていたからかもしれません。

「ファウストは何とする?」
“オカミ”は大和一を“ファウスト”と呼んだのでした。大和は、しばらく考えた後、「私ならば、“迷”とでもいたしましょうか」と応えたのでした。

「ともに至言である。まことにこの国は、“迷”いの淵に“落”ちつつある。・・・チンならば、もう一文字、“狂”とでも読んでおこうかのう。この国はまこと“狂国”の如くである。・・・“キョウ”“メイ”“ラク”・・・。そうじゃ、今日から鎌倉のご仁は、“キョウメイ”と名乗るが良い。ファウストと組んで、救国の志士となって働いてくれ・・・」。

私の体は、“オカミ”の一言一言を受けて細かく震えるのでした。

「・・・では、盃を遣わす。この一献はチンとそなたとの誓いの固めである」
私は、床から両手を離し、顔は伏せたまま、差し出された朱色の盃を押し抱き、そのまま唇にあてがいました。すると、盃の中でかすかに震えていた透明な液体が、まるで生き物のように私の体内に闖入してきたのです。“呑む”という意志がないまま、私の身体は“オカミの御酒(みき)”に浸され、私は急激な酩酊に襲われ、気を失なってしまったようなのです。


気が付くと私は大船の自宅の二階の寝室にいつものように横たわっていたのでした。しばらくは訳が分かりませんでした。この手記を読んでいただいている方も、さぞかし奇怪な物語を夢のこととして片づける陳腐な算段かと、愛想をつかされたのではないかと思います。どんな迫真に迫る夢でも覚めた直後からしばらく経てば、夢であったことを納得し、平静を取り戻し、やがて夢など忘れてしまうものなのです。しかし、私が岩瀬志麻に誘われ奈良の国栖の大和一の家を訪れたことが現実ではなかったとは絶対に思えないのです。手帳には、簡単な旅程がメモされ、新幹線のチケットの購入の次第が記されていたのです。夢であるはずはない!

ただ、自分でも気味が悪いことに、“オカミの御酒”を飲まされ酩酊してからの記憶がまるでないのです。どうやって大船まで帰り着いたのか、まったく分からない。今までも酒量が過ぎて、記憶を取り戻せなかったこともないではない。しかしそれはほんの一時です。国栖から大船まで戻るには、少なくとも半日はかかる。その間のことが全く記憶にないということは尋常ではない。手帳には帰路の段取りも新幹線チケットの手配のことも何も記されていないのだ。まるで誰かが、意識を失った私を何らかの移動手段を使って私を大船まで運んできたのだ、と考えるほうが納得しやすいのです。
あの大和ファウストか、もしかすれば、あの馬上の男・・・クスノキとかいう男の仕業か。

私は、何日間か、釈然としない不可解な気分の中で過ごしました。岩瀬志麻があれからどうなったのかも気になっていました。私は後期高齢者とされる自分の年令のことを思い、認知症になるということは、こういうことなのかと自分の正気を疑ったりさえしました。

そうこうするうちに、あの男が再び現れたのです。神奈川県警の佐田刑事と名乗るあの男がです。

「いやどうも、あなたとはまたお目にかかりそうな気がしてましたよ・・・」と、佐田はじっと私の目を見つめて言ったものです。

「またまた奈良県警サンからお仕事を頂戴しましてな・・・。加田麻里子はここに来てから行方不明のままですが・・・っ今度はその姪御さんの、岩瀬志麻という女性が行方不明とかいうのですな・・・。どういうわけか、ご両人とも、あなたと会ってから姿をくらましている・・・。こうなりますと、あなたに重要参考人としてじっくりと話を聞かしてもらわねばなりませんな・・・」
加田麻里子のことはともかくも、岩瀬志麻にことを何故、佐田刑事が知っているのか、私には合点がいかなかったのだが。

「奈良県警が言うにはですな。岩瀬志麻が運転していた軽自動車が国栖市の吉野川の渓谷に墜落したのが発見されたというんですがな。運転していたと思われる岩瀬志麻当人が見当たらんのです。・・・あんな渓谷に墜落したら、まず助かりませんわ・・・。運が良かったとしても、重症をおっていることは間違いない・・・。しかし、全く当人の姿が見つからんとうんですな。県内の病院にも片っ端から当たったようですが、全く手がかりがない様でして・・・」

私は大和一の家の座敷でみたディスプレイの映像を思い出していました。やはりあれは夢ではなかった。志麻はクスノキに追われ運転を誤ったのだ。あのとき、落下する車のドアウインドウにクスノキは片腕を入れ、志麻の体を掴みだしていたはずだ。とすれば、岩瀬志麻は無事で、おそらくクスノキによってどこかへ連れ去られたはずではないのか。しかし、私はそんなことを佐田刑事に言うつもりはありませんでした。

佐田刑事は突然荒々しい声を出した。

「奈良県警の調査によると、あの事故の前に同地区の防犯カメラには、岩瀬志麻の運転する当該車の助手席には高齢の男が写っているというんだ!・・・その画像が送られてきてな、流石の私も驚いた。その男はアンタそっくりなんですからな・・・」 
私は仰天した。やはりあの一連の出来事は夢ではなかったのだ。

「署までお越しいただいて防犯カメラの画像を確認いただきましょうか・・・。それとも岩瀬志麻とドライブなさったご記憶でもおありですかな・・・」
私はやむなく、加田麻里子から渡された大和一のスケッチ帖を、姪の岩瀬志麻が返却しに行くのに付き合わされたのだという事情だけは話した。

「スケッチ帖ひとつ返すのに、奈良の奥まで行かれた?」
佐田刑事は口元に皮肉な笑みを浮かべて言いました。無理もないことです。
「よほど特別なスケッチ帖なんですかな・・・例えば有名な画伯の下絵か何かで、売りに出されれば驚くほどの高値がつくとか・・・」
私は黙っていた。そうかもしれないし、そうでないのかもしれない・・・。私は何も言わなかった。というより、何をどう話していいのか分からなかったのだ。

「奈良県警には、あなたが訪れたとおっしゃる国栖の“大和一”の家のことを伝えておきましょう。場合によっては、家宅捜索をすることになるでしょうが、アンタの話をどこまで信じるかは、奈良県警の判断次第ですな・・・」

佐田刑事はそう言ってから、引き上げる素振りを見せながら言った。

「こう言っちゃ何ですが、・・・高齢者の証言というのは、そのまま受け取られないケースが多いものでして・・・所謂認知力欠如という能力的な懐疑がありますのでな・・・。あなたのように、その症状がまだ見られない人でも、特異な体験に遭遇した場合など、認知力が突発的に失われることも医学的には認められておりますのでな・・・。いずれにせよ、また何か思い出されるようなことがあれば、ご連絡願いますよ・・・」。

私は、刑事が去ったあと、あらためて自分の認知力のことを考えてみた。たしかにあれは奇妙な体験だった。大和一の家屋に一歩足を踏み入れてからのことは、自分でも認知力を疑いたくなる。そもそも、大和一に会った瞬間、何故、志麻は“あの人、死んでる!”などと言って錯乱したのか?。

そして、あの“お上”などと呼ばれる人物は本当に自分の前に出現したのか・・・それとも横にいて、その人物を直視することを避けさせた大和一が私に催眠術でもかけたというのか。・・・もし、そうではなく、あの出来事が事実だったなら、あの“お上”とは何者なのか、私はその正体が知りたくて仕方なくなりました。

ヒントは、“鎌倉の宮の梅はもう咲いたか”、という一言でした。“鎌倉の宮”とは、どこを指しているのか、その宮を探すことから始めねばならない、と思いました。私は、このような場合、資料をあさることはしない。とにかく鎌倉を歩き回って何かを直感したくなったのです。

“鎌倉の宮”といえば誰でも思い浮かべるのは、“鶴岡八幡宮”。この源氏ゆかりの著名な神宮に私も出向いてみた。
ここは違うだろうな、という直感がすぐに来た。初の武家政権を打ち立てた源頼朝と、朝廷の側らしい“お上”とは矛盾する。もっとも、頼朝が死に、息子の頼家も実朝も暗殺された後、その政権を継いだ北条氏は、京都の公家の血筋から将軍を招き入れ、自らは執権として政権の実務を担ったため、“お上”を敬う気質が鎌倉から消えてしまったとも一概には言えまい。

そんなことを考えながら本殿に向かう石段の途上で立ち止まって後ろを振りむいた時だった。
石段下の社務所の陰に身を潜めた人影があった。
やはりそういうことか・・・。私を泳がせて何かを探ろうとしているのは、佐田刑事に違いない。定年間際でまともな事件の捜査から外されている老刑事の暇つぶしなら、止めてもらいたいものだが。

私は、このしつこい刑事をからかってやりたい衝動にかられた。尾行を巻くには目的地と違う思わぬ方向に向かうことだ。私は、佐田刑事に気づかないふりをして本殿の方向に向かい、本殿の横にある下り石段を急ぎ足で降りたのだ。石段下からなら、私の姿は見えないはずで、私には自信があったのだが。

この思わぬ方向転換が運命的なものであったことを私は後に思い知ることになる。私は道なりに歩き、鶴岡八幡宮の東側にある鎌倉宮に向かうことになったからだ。

鎌倉宮の拝殿の背後にある裏山の斜面には今も土牢の跡が残されている。ここに一年近く、護良親王が幽閉され、中先代の乱の混乱の中で、足利尊氏の実弟、足利直義の手で殺害されたと伝わっているのだが・・・。

拝殿の周辺には少なからず参拝客が見受けられたが、丘を登らねばならないこの土牢あたりまで昇ってくる者はいなかった。私は迷わずに斜面を昇った。若いころは登山が趣味だったから、多少の山道など苦にはならなかった。頭上には鳶が飛び交って甲高い鳴き声をあげている。土牢跡はすぐに見つかった。歴史の暗黒面を窺う気持ちで牢の中を覗き込もうとした時だった。

「これは奇遇ですな! まさかこんなところでお会いできるとはね・・・」
佐田刑事が歪んだ笑みを浮かべて私のそばに突っ立っていたのだ。さすがにプロだけのことはある。尾行を巻かれたふりをしながら、私を見失うことはなかったらしい。
「そうそう、奈良県警は、国栖の大和一とかいう人物の家屋を捜索したようですわ。全くの空き家で、周囲の家の人達の話では長年放置されてきた空き家だったらしいですな・・・」

佐田刑事は、人を疑うときに見せる険しい目つきで私の表情を窺っている。
そんなはずはない! あの時、あの村で人が住んでいるのは大和一のあの家だけだった。周りの家々は灯りもなく、誰も住んでいないことは明らかだった。佐田刑事の話は全くあべこべではないか!


(続く)

最初からお読みいただけます

戻る