マリア        

第1章第1話「受胎」

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「全くみんな先生に頼りっきりで、しょうがないですね。」
 と苦笑しながら、東都大学の防衛本部にいた武内をその日最後に訪れたのは、一人の女性だった。
「ええと、確か君は・・・。」
 見覚えはあった。学生か職員か、判断に迷うような年齢と落ち着いた雰囲気である。肩までの黒髪を片方へ流し、スラックスにタンクトップ、Gジャンという、動きやすいスタイルだ。
「生物学部の藤堂です。」
「ああ、蜂巣先生のところの。」
 藤堂幸(ユキ)。確か本来は生物学部環境科の助手だが、現在は大学の物資調達を担当しているはずだ。彼女は武内の傍らの魔獣にわずかな警戒と好奇心をひそめた視線を一瞬向けたが、そのまま二人に近付いた。
「あの、お疲れさまでした。敷地内で野菜の収穫がありましたので。」
と食料の入った重たいビニール袋を手渡す。
「すまない。おっ、缶コーヒーなんて良く仕入れてきたなあ。」
 一礼して立ち去ろうとしたユキだったが、思い直したように足を止めて振り返る。
「ちょっと思うんですが・・・。ここのみんなが、先生に頼ってばかりいるのは問題だと思います。彼らのためにも、責任を分担させる事も必要では・・・。」
「うん?そうだな。その方がオレも楽だし、考えてみるよ。」
「いいえ、生意気な事を言いました。」
 彼女は今度は深々と礼をして、足早に去っていった。
「大したもんだな。」
その足音が遠ざかると、いつの間にか目を覚ましていたオルトロスが言った。
「ああ、ずばり問題点を指摘されたなあ。」
と頭をかく武内に、「あのニンゲン、相当なマグネタイトを持ってるぞ。」
 舌なめずりするオルトロスをよそに、武内は窓の外を見やった。
 東の空がわずかに白んでいた。


 病院を後にしたユキは早朝のキャンパスを、現在の彼女の実質的な住まいである生物学部の研究棟に向かっていた。この非常事態に大学に通ってくる酔狂な人間などいない。比較的安全なこの大学内に住みここを守ってゆくか、家にとどまるなり疎開するなりして自分や家族を守っていくかのどちらかなのだ。
 ユキは歩きながら考えていた。
(武内先生、気を悪くしていないだろうか。)
 しかし、考え抜いた末の進言ではあった。たった一人の人間の才能に頼りきっていると、彼に何かがあった場合、組織は全く機能しなくなる。悪魔の侵攻がいつまで続くか分からない以上、大学の防衛組織も責任を分担させることで耐久力をつけておく必要がある。
(でも先生、悪魔を仲間にしてたわね。悪魔がこの世界に居続けるなら排除ばかりじゃなく、他の道も考えなくてはいけないかも。)
 来るべき世界に思いを馳せる間もなく、ユキは研究棟にたどりついた。
 

 ユキがある実験室の前を通りかかると、勢い良くドアが開いて「やったー!」と叫びながら一人の青年が飛び出してきて、ユキの姿を認めるなり言った。
「あっ、藤堂さん、いいところに。なんか食い物ないですか?腹減っちゃって。」
「私は配膳係じゃないの。砂村君、まさか一晩中実験してたんじゃないでしょうね?」
 彼は動物生理学の大学院生。なかなかの長身で伸びかけの髪に無精ひげ、ジーンズとTシャツの上から薄汚れた白衣をはおっている。
「いや、えーと(腕時計を見て)おとといの夕方くらいからです。」
「しょうがないわね。昨夜は満月で悪魔の攻撃がひどかったのよ?死んでしまったら実験も何もないんだから、ちゃんと防衛に協力しなさい。」
 そうして彼の顔を睨み上げる。「分かった?」
「は、はい・・・。」
 彼女の後ろ姿を見送りながら、砂村照夫は空腹も手伝って世にも悲しそうな顔で呟いた・・・。「この研究で悪魔の強さの秘密が解明できれば、きっと人類の役に立つんだけどなァ。」


 それから半月後。
 東都大学のメインキャンパスにはその後も幾度か攻撃があったものの、オルトロスの加勢もあって、悪魔の侵入を許すことは無かった。
 そしてその日、キャンパスの防衛の中心である武内教授が待ちに待っていた、ある知らせが届いた。
 政府が東京の非常事態宣言を解除したのだ。
 どうやって事態が収拾されたのか明らかにはされなかったが、武内には分かっていた。悪魔召還プログラムDIOを手に入れたある人間の男と魔界の女が力を合わせ、人類抹殺をもくろむ魔王サタンを倒したのだ。
 決して東京から悪魔の姿が完全に消えたわけではない。しかし指導者が倒されたことで組織的な活動は見られなくなり、その数も目に見えて減ってきていた。
 この大学の、砦としての役割も終わりに近付いていた。武内はリーダー格の学生や教職員を召集した。
「非常事態宣言も解除されたことだし、ここらで日常生活に戻ろう。詳しいことは学長も事務長もいないので決まっていないが、各自、自主的に、生活の復興に努めること。そしてここからが大切だ、しっかり聞いて欲しい。
「悪魔の攻撃は一段落付いたが、全然いなくなったわけじゃない。油断はするな。それから悪魔の一番怖ろしいところは、人の心を操れることだ。・・・オレは自分で考えることをやめ、進んで悪魔の支配を受け入れた奴らを知っている。お前達には決してそうなってほしくない。分かったな。」
 彼の知る未来では、悪魔による表立った襲撃はこの日を境に無くなるが、今後は人間社会を内面から侵食していく一見目立たない、しかし深刻な侵略が始まる。そして東京の住民二千万の命がかかった、有力悪魔達の代理戦争という事態に発展していくのだ。それは彼が守ると決めた、歴史の流れの結果である。しかし彼は、警告せずにはいられなかった。

 その日東都大学のあちこちでは、夜通し巨大な篝火を囲んで宴が開かれた。アルコールもろくに無かったが、皆なんとかこの困難な運命を乗り切ったという達成感に酔いしれたのである。
 1年間苦楽を共にしてきた生物学部研究棟の面々も、誰からともなく集まって宴会が自然発生していた。中でも先陣となって悪魔と戦ってきた者達は、全て自分たちの手柄だと言わんばかりに浮かれている。
「もお、みんなオレ達に感謝しろよな。オレら防衛隊は体を張って大学を守ってきたんだからなあ。」
「何言ってんのよ。武内先生がいなくちゃ何も出来なかったくせに。それにあんた達が毎日食べてた食料、誰が用意してたと思ってるのよ。」
 しかし東京が壊滅的な状況にある中、ほとんど犠牲者も出さず今日の日を迎えられたという功績を思えば、少々浮かれるのも無理もないだろう。
 ユキはみんなが言いたいこと言って騒いでいるのを面白そうに見ていた。 もともと宴会であまり騒ぐ方ではなく、雰囲気を楽しんでいる。
 砂村は参加していなかった。また研究に没頭しているのだろう。

 
 ユキは宴会から一足先に退散して、自宅へ帰ってみることにした。家には一年近く戻っていないので、どうなっているのか心配だったのだ。
 これは大変な道のりだった。彼女が一人暮らしをしていたマンションは、大学から徒歩で1時間もかからない距離にあるのだが、暴動と悪魔の攻撃で様相を一変した新月の夜の街では、通い慣れた道でさえ見失いそうになる。
 道路の上に長々と横たわるビルの上をやっとの事で乗り越えたとき、彼女は何か異変を感じて辺りを見回した。
 さっきまでは、街のあちこちで勝利を祝う人々のざわめきが聞こえていたのだが、今や全ての音がラジオのボリュームを絞るように引いていく。
 見上げる星座も、ユキの知っているものとは違うような気がしてくる。
 彼女の周囲に広がるのは瓦礫の街。のはずが、いつの間にか骸骨と躯に埋め尽くされた地獄の平原になっている。
「何よここは。大量虐殺でもあったの?」
 声を出すのもためらわれる静寂の世界で、ユキはささやかな抵抗をしてみる。と、何かの気配を感じて彼女は振り返った。
 そこには一人の女性が立っていた。深い緑色のマントの中で顔だけが異様に白く、無表情である。胸の前で手のひらをゆったりと合わせ、何かを持っているようだ。
 彼女が両手を静かに開くと、そこから青白い光が飛び出した。
 死体の燐が燃えているのかしら。ユキはあくまで科学的に考えようとするが、それには明らかに自分の意志があるようだった。ユキを観察するかのようにぐるぐると周囲を飛び回る。身の危険を感じた彼女が身構えると同時にそれは突進してきた。
 咄嗟に腕で体をかばったが、急激に膨れ上がった光に視界一面が白く覆われた。一転、ユキの意識は漆黒の闇に落ちていった。女の声が、いんいんと響きながら遠ざかっていく。
「其は永遠に転生を繰り返す呪われし魂・・・。なれどこたびの生はおぬしに委ねられた・・・。全ては汝ら人の子次第・・・ゆめゆめ忘れぬことじゃ・・・」
 


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