マリア         

第1章第2話「鼓動」

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 ユキが目覚めたのは、大学病院のベッドの上だった。
 悪魔の侵略は終わったものの、そこはまだ野戦病院の雰囲気を残して騒然としている。
 まだよく状況を把握していない彼女がゆっくり半身を起こして見ると、そこはベッドを詰め込んだような大部屋であった。空いたベッドは無く、同室の人々といえば、点滴を受けながらじっと目を閉じたままの者、見舞客を迎えている者など様々である。
 しかし自分の置かれた状況を知ったところで、彼女の感じる違和感には何の変わりもなかった。なぜ病気でもない自分が病院のベッドにいるのだろうか?
「あら藤堂さん、目、覚めたんですね。」
一人の看護婦が声を掛けてきた。
「すいません、どうして私、ここに?」
「敷地のすぐ外で倒れてたところを運ばれてきたの。先生は過労でしょうって。1週間くらい前かしら。」
「・・・・・。」
ユキの釈然としない様子に気付いたのか、看護婦は続けた。
「最近多いのよ。気が抜けて今までの疲れが出るんでしょうね。そのせいで病院はまだまだ大忙しなのよ。」
看護婦は笑って去っていった。
 ユキは彼女を呼び止めようとしたが、余りに忙しそうなので気が引けた。

 話を聞くほど違和感は強くなっていた。そもそも1週間前、自分は瓦礫の中をかなり歩いて自宅の近くまで行ったはずだ。その後・・・。
 とぎれた記憶に苛立って、彼女は前髪を乱暴に掻き上げた。とにかく、大学のすぐ外で倒れていたとは信じられない。
 それに1週間も意識が無かったにしては体の不調が全く感じられない。それどころか体の隅々まで力の行き渡るような、不思議な感覚があった。
 彼女の周りの世界も、以前とは異なる鮮やかさをもって五感を刺激した。ドアの外を行き交う人々の気配が手に取るように感じられ、庭木の葉一枚一枚が触れ合う音さえ聞き分けられるような気がした。
 そして、一つの気配が急激に近付き、体当たりしてくるような感覚の直後、病室のドアが開いた。

 現れた砂村は、ユキの様子を見てしばらく固まっていたが、すぐに安堵の表情を見せて駆け寄った。
「良かった、藤堂さん。全然目え覚まさないから、どうしようかと思いましたよ。」
「お見舞いになんか来る必要無かったのに。何でもないんだから。」
 彼女はここ一週間意識がなかったのだから覚えていなくて当然だが、砂村の頭には高熱に耐える彼女の姿が残っている。すぐに退院すると言って聞かないユキに何とか留まるよう説得し、どうしても聞き入れられそうにないと見るや、強引に荷物持ちを買って出た。

 病院ではベッドが不足しており、また非常時ということもあって、退院の申し出は医師にすんなりと受け入れられた。
 大学病院から生物学部は歩いても10分かからない距離である。その道をユキはどんどん歩いていってしまい、砂村が小走りについていく。
「藤堂さん、本当に退院しちゃっていいんですか?」
 彼女は無言で歩を進めるばかりだ。砂村が自分に好意を寄せているのは分かっていたが、自分としては何とも思っていない。だから余計な期待を持たせないよう、黙々と歩いた。


 研究棟へ戻り、同宿の仲間達が心配して次々に声をかけてくるのに礼を返し、ユキはようやく自分の研究室にたどり着いた。非常事態宣言が解除されたちょうどその日から寝込んでいたので、どう状況が変化しているのかが彼女の最大の関心事であった。しかし研究棟の人々によると復興計画が発表されるわけでもなく、東京はこれまでと大して変わらない状態が続いているようである。悪魔も数は少ないがたまに出るらしい。多くの住民が避難し、商店は店を畳み、企業が撤退してしまっている。街が元に戻るにはまだ時間がかかるだろう。
 研究室のソファーに一人落ち着き、それでも何か新しい情報はないかと雑音の多いラジオに耳を傾けているうちに、窓の外は暗くなっていった。
 
 節電のために照明が抑えられている建物の中には、夜の闇が遠慮なく入り込んできた。人々が有史以来街に明かりを灯して必死に駆逐してきた闇。しかし今や街は夜に屈し、闇の中に浸っていた。
 ふと、ユキは誰かに呼ばれたような気がしてハッと体を起こした。
 誰もいない。しかしそれがきっかけになったのか、どうしても思い出せなかった1週間前の夜のことがおぼろげながら蘇ってきた。
(そう言えば女の人に会った・・・。私に何か託すと・・・)
 無意識に自らの体を抱こうとした右手が、左腕の違和感を感じ取った。腕の外側だったので今まで気付かなかったようである。虫にでも刺されたのだろうと思うような小さな腫れだったが、ユキはそれが独自のリズムを刻んでいるのに気付いてしまった。
(其は永遠に転生を繰り返す呪われし魂・・・。)
 彼女の脳裏に、地獄の平原で出会った緑衣の女の言葉がはっきりと思い出されていた。


 しかし、驚愕の最初の波から立ち直ると、生理的な嫌悪感はひとまず棚に上げ、左腕を鏡に映してそれの観察を始めたのは、さすがに研究職に就くことを自ら選んだ人間と言うべきか。
 生物学が専門の彼女も、人間の皮膚に取りつくこんな生き物は知らなかった。一見したところ直径1センチくらいのただの丸い固まりだったが、鼓動があることから見てある程度成長が進んでいるはずだ。
 空想の産物と考えられていた悪魔が現実となっている今、科学にどれほどの信頼性があるのだろうか?そう思わないではなかったが、とにかくこのままにしておくのは危険かも知れないし、珍しい生き物なら貴重なサンプルである。摘出してしまうのが得策だろう。

 薄暗い廊下を渡ると実験室はすぐである。道具を探してガチャガチャやっていると、「誰だ?」と懐中電灯を片手に近付いて来る者があった。
 一番面倒なことになりそうな人間に見付かってしまった。いや、実験好きの砂村はいわばここのヌシ、見付かって当然だったかも知れない。
「あれ、藤堂さん。実験ですか、珍しいですね。」
「悪魔騒ぎもおさまったことだしね。」
 砂村を適当にごまかして部屋を出ようとした彼女だったが、彼は目ざとくユキの腕を掴んだ。
 ユキが抗議の声を飲み込んでしまうほどの剣幕で、砂村は彼女の左腕を掴んだまま自分とユキとの目の前に持ってきた。
「何ですか、これは・・・!」
「さあ、何かの虫に刺されたんじゃないの?」
 対照的な言葉とは裏腹に、実際には二人の認識はほぼ一致していた。これは今までにないような生物・・・もしかしたら悪魔の一種・・・であり、過労と言うには奇妙なユキの症状の原因だったのではないか?
 砂村はユキの顔をのぞき込み、諭すように言った。
「とにかく、このままにしておく訳には行かない。オレが摘出します。」
 彼は研究のため解剖を行うので、手術道具の扱いには自信を持っている。だがそれ以上に、異常を見逃した病院を信用する気など全く無くしてしまったのだ。ユキもここは彼に任せようと覚悟を決めて、ゆっくりと頷いた。


 砂村は慣れた様子で道具を揃えた。いくつもの電気スタンドに照らされた実験室の机の上にユキの左腕が置かれる。明るい照明の元で見てみると、それは腕の皮膚のすぐ下に潜んでいるのが分かった。さすがに二人の表情に緊張が走る。
「大丈夫ですよ。オレこういうのは慣れてますから。」
 砂村が自分に言い聞かせるように言って、麻酔薬を注射器に取る。そして針を彼女の腕に近づけたその時、それの表面に変化が生じた。魚のように無表情な一つ目が現れ、砂村を睨み付ける。次の瞬間。

 明るく照らされた机の上でもはっきり目に見えるほどの放電が起こり、砂村に襲いかかった。彼は思わず飛びずさったが、普段のマイペースな彼からは想像もできないほどの闘志を見せて、火傷と手のしびれにもひるむことなく、すぐさま注射器を握り直し再び挑戦しようとする。
「この野郎。」
「待って。」
 ユキが制止した。不思議なことに、あれだけの放電だったにもかかわらず、彼女にはなんの被害も及んでいない。
「オレは平気です。今のうちに何とかしないと、きっと取り返しが付かなくなる。」
 砂村が自分のために危険を冒すことはないというのもあるが、それよりユキは何か他の差し迫った危機を感じ取っていたのだ。
「何か来る・・・!」


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