マリア         

第1章第3話「標的」

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 果たして、窓ガラスの割れる音がその場の緊迫した空気を裂いた。振り向いた砂村の目に、実験室に侵入した奇妙な生き物が映る。それは幼児のような体型に蝙蝠の翼をはやした小悪魔・・・インプだった。
「今すごくおいしそうなにおいがしたぞ?ごちそうはどこだ?」
 悪魔は尖った牙と舌をのぞかせながら、人間には分からぬ言葉を発した。そして部屋の中を見回しユキを認めると、鈎の付いた長いしっぽを歓喜に震わせる。
「くそっ!なんで学内に悪魔がっ!!」
 砂村が手にした注射器を力一杯投げつけた。 しかし一瞬早く、悪魔は奇声を発してユキに飛びかかった。
 悪魔の素早い動きは砂村の予想をはるかに上回っていたが、それ以上に驚くべきはそれをユキが難なくかわしてしまった事であった。一番驚いたのは彼女自身だったかも知れないが、そんなことに構っている場合ではない。彼女は壁際まで後ずさりし、とにかく悪魔との距離を取った。
 最初の一撃をかわされたインプは、身軽に空中でくるりと向きを変えて再びユキの方に向き直ると、
「生意気なニンゲンめっ、これでもくらえ!」
 と両腕を振り下ろし、魔力を放つ。それはたちまち無数の針となって一直線に飛んできた。悪魔は獲物が予想外の攻撃にひるんで動けずにいるものと見て嬌声を上げる。
 しかし、獲物は甘んじて狩られるのを待っている訳ではなかった。彼女は明確な反撃の意志をもって、悪魔を正面から見据えたのだ。その視線は逆に悪魔のほうが射すくめられてしまう程だった。同時に両者の間に突風が巻き起こり、魔力の針を掻き消してそのままの勢いで悪魔に襲いかかった。
 悪魔は避けることも出来ず壁にたたきつけられ、ぎゃん、と悲鳴を上げた。
「ちくしょー!覚えてろよ!お母さんに言いつけてやる〜。」
 インプは割れた窓から、まさに脱兎のごとく飛び出した。捨て台詞の最後の方が遠く聞こえなくなるほどの逃げ足であった。

 砂村が窓の方を警戒しながらユキに駆け寄った。
「怪我はないですか?・・・でも藤堂さん、格闘技でもやってたんですか。」
 先ほどの身のこなしを見れば誰でもそう思って当然だったろう。
「そんなのやってる訳ないでしょ。」
 彼女はそれを一蹴して考え込んでいる様子だった。1週間前までと比べ、明らかに高められた感覚と運動能力。そして悪魔の魔力を打ち消した力。なぜ急にこんな事が出来るようになったのか、思い当たることは一つしか無かった。
「この悪魔が、宿主に死なれては困るからこんな力を与えた、・・・ってこと?」
「そ、それは・・・!どういうシステムなんでしょうね?」
 砂村が、研究意欲を刺激されたのかつい口走って、「すいません。」と小さくなった。 
「と、とにかく続けましょう。」
 気を取り直し、彼は散らばってしまった手術道具を拾い集め始めたが、またしても邪魔が入った。急にばたばたと足音が近付いてきたかと思うと、誰かが廊下から呼びかけてきたのだ。
「誰かいるのか!?今の音は?」
「大丈夫、悪魔が入ってきたけど追い返したわ。」
 とユキは答えたが、廊下の声は
「それどころじゃ無い。大学にすごい大きな悪魔が近付いてるんだ。避難した方がいい。」
 と走り去っていった。
「まだ出やがるのか?非常事態宣言は解除されたんじゃなかったのかよ!」
 二人が窓の外を注意して見ると、黒く佇む建物の向こうに巨大な影が近付いてくるのが見えた。いつか怪獣映画で見たような光景だ。
「まさかあれが「お母さん」じゃないわよね・・・」
 ユキが皮肉っぽく呟いた。


 巨大な悪魔の接近に混乱するキャンパスを、人の流れとは逆に悪魔に向かって走る二つの姿があった。それは奇妙な組み合わせで、雄獅子のような立派なたてがみを持つ獣が先に立って走り、その後ろを刀を手にした中年の男が遅れがちに走っていた。
 人間の方・・・武内直樹はワイシャツのボタンもきちんと留まっておらず、悪魔のせいでたたき起こされたのは明らかだった。
「くそー、1週間前で悪魔騒ぎは終わったと思ったのに、いつまで続くんだ?」
「油断して防衛線を解いたのが悪い。」
 魔獣オルトロスは、人々の間を軽々と走り抜けながら指摘した。
「まだかなりの悪魔が残っているのだ。無防備なニンゲンが集まっていれば寄って来るに決まってる。」
「まあたお前は。分かってたんなら教えてくれりゃ良かったのに。」
「使い魔は主人の命令で動くものだぞ。」
「はいはい、お前はいつも正しいよ。」


 悪魔は堀とバリケードをものともせずキャンパス内に突入し、その様子はユキ達のいる実験室の窓からもはっきりと見ることが出来た。それは巨大な蛇のような姿をしていた。胴の太さだけでも1m以上ありそうで、全長ときては想像もつかない程だ。
 キャンパスには人の姿がほとんど見えなくなっていた。皆建物の中や大学の外へ避難したらしい。大学にいるのは皆自分達の力で悪魔に立ち向ってきた者ばかりだったが、これ程の大物を見るのは初めてだ。人間の力でかなう相手ではないと、誰もが戦意を無くしてしまったのかも知れない。
 しかしその前に魔獣オルトロスが走り出て、胸を反らして告げた。
「龍王ユルングよ、ここは我が主人の縄張りだ。直ちに立ち去ってもらいたい。」
 龍王はオルトロスを見おろして荒々しく鼻を鳴らした。
「ここにニンゲンを沢山隠しているのは分かってるんだ。お前ごとき犬畜生には勿体ない。オレ様が全部喰らってやる!」
「立ち去るつもりが無ければ、力づくで追い返すだけだ。」
 ユルングは答えず、牙を剥いて魔獣に襲いかかった。
 オルトロスは龍王の巨大な顎を2度、3度とかわしたが、突如予想外の方向から飛んできた太い尾の一撃を避けきれず、校舎にたたきつけられ、地面に落ちた。凄まじい衝撃に校舎の外壁には長い亀裂が入っていた。
「ニンゲンの使い魔に堕した者など、所詮この程度よ。・・・オレ様は違う!ニンゲンを喰って喰って何者にも負けぬ力を手に入れる!」
 龍王は建物に潜む人間を引きずり出してやろうと、値踏みをするように周囲を見回した。その目が実験室から様子を伺っていたユキの姿に止まる。彼女の方も悪魔と目が合ったのに気付いて身を固くした。
 しかし次の瞬間、龍の頭はどうと地面に落ちた。いつの間にかその懐に入っていた武内が、悪魔の首を一刀両断にしたのだ。彼はやれやれと額の汗を拭って言った。
「よしオルトロス、もういいぞ。」
 すると龍王の一撃を受けて倒れていた魔獣は、何事も無かったかのように起き上がった。
 巨大な悪魔の体が砂のように崩れ去っていく。危機は去ったのだ。


 目の前で立て続けに繰り広げられた戦いに呆然としていた砂村だったが、一緒に窓際にいたはずのユキの姿が無いことに気付いた。振り返ると彼女は静かに部屋を出ていこうとしている。その背中に悲壮な決意を感じて、砂村は必死に彼女を呼び止めた。
「藤堂さん、どこ行くんです!」
 彼女は立ち止まったが、何も答えず、振り返ろうともしなかった。
「大学を出て行くつもりなんですね?」
 悪魔からキャンパスを守ってきたこの一年間、ユキを近くで見てきた砂村である。彼女が口には出さないが周りの人の幸せを大切に思っており、それゆえに戦いを影から支える物資調達に貢献してきたことは分かっていた。自分も彼女のそんな所に惹かれたのだ。
「行かないで下さい。オレが何とかするから。」
「どうも私、悪魔に好かれるみたいなのよね。砂村君も一緒にいると危険な目に合うかもよ。」
 彼女はそう言って立ち去ろうとした。砂村は自分の無力に激しい怒りを覚えて、崩れ掛けた壁を拳で殴りつけた。
「おかしいですよ。やっと平和になるんだってのに、何で一生懸命みんなを支えてきた藤堂さんがこんな目に遭わなきゃいけないんですか!?何でオレじゃないんだ?
「・・・藤堂さん、さぼってばかりですいませんでした。今度はちゃんと手伝うから、オレも連れてってください!」
 床にひざまづき、土下座せんばかりの砂村が顔を上げると、ユキが厳しい表情でこちらを見下ろしていた。
「砂村君、あなたは私の何だって言うの?」
 彼は迷うことなく答えた。
「何だっていい。ただ藤堂さんの役に立ちたいんです!」
 予想外の答だったのか、ユキは戸惑いの色を隠すように再びきびすを返した。部屋を出る所で声を抑えて言う。
「20分後に出るわ。それまでに用意を済ませて。」


 その後、ユキと砂村は生物学部の研究棟を出た。1年間の戦争状態を経た後である。銃などの武器の他にはそれぞれ鞄に一つだけの最小限の荷物しか持っていない。
 間もなく日の出を迎えるという時刻であった。二人とも、この20分間で自分なりに気持ちの整理を付けたのだろう、先ほどまでの激情や困惑は嘘のように、普段と変わらない様子だった。
「それで、これからどこへ行くんです?」
「特にあてはないけど・・・。ちょっと待って。」
 ユキは通路脇の小さな建物に近付くと、シャッターの鍵穴を探し当てて持っていた鍵を差し込んだ。
 一年以上放置されていたため鍵を開けるのもシャッターを上げるのも一仕事だったが、砂村もやって来て力任せに押し上げた。
「おお、これ、藤堂さんのですか?」
「ううん、工学部で作ってた燃料電池車よ。私も少し関わってたの。非常時だし借りてきましょ。」
 それは軽自動車を改造したものらしく、短いボンネットと屋根の上はソーラーパネルになっている。幾つかパーツが取り外されたままで、電気の配線がのぞいていた。ユキは車の周りを歩いて簡単に点検しながら、
「あなた運転はできる?」
「いいえ、免許無いです。」
「それじゃ後ろね。」
 彼女はさっさと運転席に乗り込んだ。砂村は助手席を期待していたようだが、よく見るとこの車には助手席が無く、前が一人、後ろが二人掛けになっていた。
 彼が乗り込むのを待って、二人を乗せた小さな自動車は、元気なモーター音を発しながら人気のない早朝の街へ走り出した。


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