マリア         

第2章第2話「悪魔の饗宴」

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 何とか凶鳥を倒してから1時間足らず。砂村は再び悪魔と対峙していた。

 それは姿を隠そうともせず、ゆっくりと歩いて近付いてきた。遠目に見ると一瞬人間かと思ってしまうような姿だったが、近付くにつれ赤銅色の肌に腰布だけを身に付け、棍棒を手にしているのが分かった。そして何より、無造作に伸びた前髪の奥から異様に光る目を見れば、それが人間で無いことは明らかだった。
 鬼だ、と砂村は思った。この悪魔は角こそないが、昔話に登場する鬼のイメージそのままだった。
 悪魔−闘鬼ウェンディゴは砂村がライフルを構えて牽制しているのも気にせず、鋭い牙を見せてニヤニヤ笑いながら近付いてきた。銃を知らないのか、それとも銃弾など怖くないのか。

 あと数メートルほどで悪魔の間合いに入る、というところで砂村はライフルの引き金を引いたが、一瞬早く悪魔は跳びかかってきた。想像以上の素早さに、彼は不格好に倒れつつも何とか棍棒の一撃を避けた。急いで立ち上がったところで、砂村の頭の数ミリ横を第二撃がかすめる。次も、その次の攻撃も、ぎりぎりのところで避けた。
 いや、わざと外してくれたというのが正しいのかも知れない。悪魔は反撃の糸口さえつかめない砂村を見下ろし、棍棒を持つ手をだらりと下ろした。まるでどこからでもかかってこいよ、とでも言わんばかりに。

 砂村としてはこのチャンスを逃すわけにはいかない。扱いに自信のないライフルはあきらめ、手首を一閃、メスは悪魔の顔を目がけてまっすぐ飛んでいった。しかし相手は棍棒を目の前にかざし、攻撃をいとも簡単にはじいてしまった。
 だが今度は、悪魔の方が意表をつかれる番であった。タイミングをずらして放たれていたもう一本のメスが、次の瞬間見事に闘鬼の棍棒を持つ腕に突き刺さった。
 意外とやるじゃないか、とでも言うようにニヤリと笑って、悪魔は棍棒を持つ手を再度振り上げようとした。しかし気合いばかりで腕は上がらない。砂村のメスは、悪魔の腕の腱を正確に断っていたのだ。
 悪魔は言うことを聞かない腕を何とか動かそうとやっきになっていたが、ようやく何が起こっているのか気付いたらしい。もう片方の手でメスを抜き、投げ捨てた。そしてニヤニヤ笑いながら傷ついた腕に力を込める。するとたちまち周囲の細胞が泡立ち、小さな傷は修復されてしまった。
 それは普段の砂村だったらすばらしいと感動してしまうような再生能力であったが、今はそれどころではない。腕を修復した悪魔は、砂村に見せびらかすかのように、2,3度棍棒を力強く素振りしてみせる。

 だが、闘鬼が再び振り上げた棍棒は、突然まっぷたつになって宙を飛び、地面に突き刺さった。
 いつの間にか、悪魔の背後からさらに巨大な影が近付いていた。それは人の体に牛の頭を持つ化け物だった。その手には鈍く光る斧を握っている。こいつで棍棒を折ったのだろう。
 午頭鬼はウェンディゴを押しのけ、砂村の方へに無造作に歩み寄ってきた。さらに手強そうな悪魔の登場に、なにか打開策はないかと頭をフル回転させながら、彼はじりじりと後ずさった。
 ところが、午頭鬼は突然後ろから頭を殴られて鼻息も荒く振り返った。半分になった棍棒を持った鬼が、相手を挑発している。午頭鬼は巨大な斧で薙ぎ払い、今度は胴体を両断してやろうとするが、身軽に避けられて、ますます頭に血を上らせた。

 2体の悪魔はもはや砂村のことなどすっかり忘れたかのように争い始めた。どうやら悪魔達はどちらも獲物を独占しようとしており、全く協力し合うつもりが無いのは砂村にとってせめてもの救いであった。
 しかし自分の力でも悪魔と渡り合うことが不可能ではないことが分かって、幾分自信を持てるようになった砂村ではあったが、それも1対1での話だ。相手の数が多ければかなうはずもない。ユキを起こして2人で応戦するか、車で逃げを決め込むか、それともこのまま1人で悪魔の相手をするか?
 難しい三択問題に答を決めかねている彼であったが、状況は思っていたよりずっと厳しいものであることに気付いた。

 悪魔は2匹だけではなかった。
 多くの影がある者は遠巻きに、ある者は物陰からこの戦いの様子を見守り、隙あらば分け前に与かろうとしているのだ。
「畜生、なんでこんなに集まってくるんだよ!」
思わずつぶやいて空をあおぐ。・・・あれのせいか!上空に先ほどと同じような凶鳥が何羽か旋回して、戦況をうかがっていたのだ。
 そして彼が今一番恐れているのは、悪魔達がユキの存在に気付いてしまうことだった。疲れ果てて休んでいる彼女に、これだけ多くの悪魔達が一斉に襲いかかったら、打つ手はない。
 

 砂村は遂に、心を決めた。悪魔達を引きつけ、ユキのいる自動車から遠ざけるように逃げるのだ。うまくいくかは分からないが、彼女の役に立たなければ無理矢理ついてきた意味がない!
 彼はそろそろと後ずさった。争っている2体の鬼は彼の動きに全く気付いてはいないようだが、周りを潜む異形の者たちが自分の一挙一動に注目しているのが、砂村にはありありと感じられた。

 その時、突然片方の足首を何者かに掴まれて、砂村は思わず「うわっ!」と声を上げた。
 そして均衡は崩れた。
 今までどうやって姿を隠していたのか、猿のような顔を持つ猛獣に似た悪魔が、現れたかと思うと砂村の白衣の襟をくわえて引きずり倒した。衝撃にライフルが飛ばされる。先に砂村の足を掴んだ悪魔−それはどう見ても人間の骸骨としか見えなかった−はその虚ろな眼窩に精一杯の恨めしそうな色を浮かべて略奪者に抗議したが、骨だけの体では到底素早い獣にはかないそうにない。

 妖獣ヌエは、砂村が何とか逃れようとじたばたするのを地面に押さえつけ、辺りを見回した。悪魔達は今や姿を隠すのを止め、獲物を奪おうとその包囲網をじりじりと狭めつつあった。
 妖獣はそれを強行突破でもしようというのか、体を沈め、全身の筋肉を緊張させた。
 しかし次の瞬間、銃声とともに悪魔は悲鳴を上げて獲物を取り落とした。慌ててライフルを拾い上げる砂村。だが悪魔達は、もはや彼の事など眼中に無い様子である一点を見つめている。
 それが何なのか確認するまでもなく、砂村は最悪の事態を察した。
 ユキが車の前で銃を構えていた。


 今まで先を争って砂村に襲いかかろうとしていた数十もの悪魔達は、一転して彼への関心を全く失ってしまった。突然降って現れたようなユキという新たな獲物にすっかり心を奪われ、引き寄せられていた。砂村を取り囲んでいた悪魔達が30メートルほど離れたユキの方へそろって移動したので、彼女は自動車を背に、扇状に広がった悪魔の群と対峙する格好となった。

 悪魔達は、砂村のことなど最早全く眼中に無かった。砂村が空に向けてライフルを放ち、いくら大声で挑発しても彼らは振り向きもせず、着実にユキに近付いていく。
 彼女は拳銃で応戦していたが、すぐに弾は尽きた。装填する余裕はない。
 ユキは今までにも何度か悪魔を退けてきた見えない力を爆発させた。周囲の悪魔が衝撃でなぎ倒されるが、彼女もまたよろめいて自動車に背中を預けた。悪魔達はしかし、ほとんどダメージを受けた様子もなく、多くはすぐに起きあがってきた。ユキは絶望感を意識下に押し込め、二度、三度と抵抗を繰り返す。その間にも、一部の悪魔は彼女の背後に回り込み、扇状だった悪魔の群は、円形の包囲網になろうとしていた。
「ちくしょー!やめろー!やめてくれー!」
 砂村はがむしゃらにユキを取り囲む悪魔に向かっていっては、虫でも追うように振り払われた。今までの戦いを通じて彼は察していたのだ。例えどんなエネルギーであれ、無から生じることはない。彼女の異常な消耗は悪魔に取り憑かれたせいというよりも、あの不思議な力を振るっているためではないかと。

 それはもちろん、ユキ自身が一番感じていた。一撃毎に、体力が奪われていくのが分かった。しかし彼女は悪魔達に対する、これ以外の有効な手段など持っていないのだ。
 だが彼女には一つの読み、というか打算とでもいうべきものがあった。それは他でもない、自身に取り憑いた悪魔の存在だった。昨夜メスを近付けられただけでかなりの抵抗を示した悪魔である、この宿主の命の危機に、手をこまねいているはずはない。
 最後の一撃を放ってなお、彼女は悪魔達を睨み付けるのをやめようとしなかった。それは目の前の悪魔達に対してだけではない。自らに宿る悪魔に対しても。
 さあ、出てこい。おまえの力を見せてみろ。

 果たして、もう指一本動かす力も残っていないと思われたユキの左腕が上がった。まさに彼女に跳びかかろうとしていた何体かの悪魔の体に青白い火花が走ったかと思うと、次の瞬間、彼らは塵となって消え去った。
 悪魔達の間に動揺が走り、包囲網が乱れた。
 だが・・・それで終わりだった。彼女の内にある悪魔に再び動き出そうという気配は無かった。少しの間は、周りの悪魔達も警戒して近付いてこないだろうが、時間の問題だ。
 少々この悪魔を買いかぶりすぎたか。しかし絶望や後悔を感じる力も残っていなかった彼女の体は崩れ落ちた。

 悪魔達は一瞬ためらった。この、魅力的であるが非常にあきらめの悪い獲物が本当にもう反撃してこないのか、測りかねているようだった。
 その時、わずかに風を切る音がしたかと思うと、最前列にいた1体の悪魔がはじかれたように飛び上がり、倒れた。そして悪魔達に考える間も与えず、エンジン音を高ぶらせ、1台のオフロードバイクが悪魔の群の中へ突っ込んできたのだった。
 強引に悪魔達を突っ切って来た男は、混乱に乗じて同じくユキの元にやってきた砂村に言った。
「何をしてる!早く車を出すんだ!」
 しかしすぐに、倒れている方が運転手だと察したのだろう、バイクを捨てて運転席に滑り込んだ。
 砂村がユキを抱えて乗り込むと自動車は急発進し、何体も悪魔を跳ね飛ばしながらも包囲網を抜け出した。追ってくる者もいたが、じきに遙か後ろに遠ざかった。

「うーん、やっぱり作戦はスピードが命やね。」
 満足そうに危険が去ったことを確認すると、ハンドルを握る男は後ろの砂村に尋ねた。
「もう大丈夫だよ。俺は菊池。菊池智晴。あんたらは?」
 


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