東京・芝宇田川町で「奥野一香商店」という盤駒店を営んでいたのが、初代・奥野一香こと本名・奥野藤五郎(1866〜1921年)である。商店のブランド名であり、駒師としての号が奥野一香なのだ。藤五郎は将棋四段で、2代目の息子・幸次郎(1899〜1939年)は、名人駒師と称されるほどの名工だったという。現在、その奥野家には、盤は残されているものの駒に関する資料や道具は、残念ながら見あたらないという。
別項で紹介している豊島龍山と奥野は、ほぼ同時代を過ごした。その龍山と技を競うためか、後述する独特の駒形をはじめ、奥野は独自の駒作りをめざしていたようである。
先の「宗歩好」は、江戸時代から伝わる「安清」という書体を奥野流にアレンジし、「宗歩好」と命名したと思われる。また、龍山が売り出した通常の「錦旗」に対抗して、かつてからあった「昇龍」〈三味線弾きが本職で、将棋好きで能書だった昇龍斎の駒銘)という書体を改良し、同名の「錦旗」という駒銘で販売したという。それが、下記の抜粋字母(玉将、歩兵、と金、錦旗駒銘)である。
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奥野作の「錦旗」の抜粋字母と、「錦旗」の駒銘
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書体や駒形も奥野流
歴史的名勝負として知られた名人戦(昭和46年第30期)の大山対升田戦で、「升田式石田流」が出現したときに指されたのが、この奥野作の「錦旗」である。東京の「福田家」(現在では対局は行われていない)所蔵の「錦旗」が、その歴史の一翼を担ったのだ。その駒は鮮やかな虎杢だから、「新手一生」を標榜した升田がその駒を手に盤上で舞う姿を想像するだけでも、将棋ファンのみならず駒マニアにとってもたまらない光景だろう。
また、この「錦旗」は、現在では通称「奥野錦旗」として、ことにアマチュア駒師にはなかなか人気を博している書体の一つだ。勇壮でもちろん盛り上げにぴったりの書体だが、彫り駒にしても味わいと個性があり、意外といいものである。
ここで紹介したこれらの書体に限らず、奥野作の書体はすべて奥野流にアレンジされているといっても過言ではないだろう。その個性は駒形にも表現されている。奥野の書体で実際に作ってみればわかることだが、通常の駒形で作るとどことなく違和感を覚える。というのは、下の末広がりの角度が、宮松影水などに比べると、極端に鈍角なのである。実際には微妙な差なのだが、こんなところにまで奥野流が貫かれているのだ。