嘉彦エッセイ


第14話(2005年5月掲載)


        



  『器用と不器用』



 私が子供の頃、学校への往復の行程でしばしば興味のある出来事に出会った。電柱の敷設工事や家屋の建築工事である。当時は機械化がほとんど行われておらず、電柱工事はスコップ、建築は大工さんの鋸や鑿・鉋が主力の道具であった。朝の登校時は忙しく時間を割くことができなかったが、帰宅時は十分過ぎるくらい時間があり(当時遊びの材料が乏しかったこともあり)、しばしば足を止め、職人さんの一挙手一投足に釘付けになっていたものである。

 電柱の工事では、細いスコップをクルクル回転させながら穴を掘る。常にスコップの表側は円芯の方向を向いている。掘り上がった穴は電柱の太さのわずかに大きなサイズ。子供心に感動した。細ければ細いほど作業量は少なく、立てた電柱もグラつかない。立てる作業もやりやすい。何とすばらしいことか。

大工さんは、鑿をやはり同じように回転させながら(と言うより鑿の裏表を掘る穴の向きに合わせて)金づちで叩く。鑿の頭を見ずに打つ動作に「よく握る方の手を打たないな」と感動しつつ、頬杖を突きながらしゃがみ込み、日が暮れるまで見とれていたものである。何度母親が探しに来たことか。彼女も息子の居場所の発見は容易だったようで、探す事なく獲物(息子)を射止めてさっさと家路についたものである。

 人間はそもそも生まれた時から、模倣性、探求性、連帯性と言う3つの本性を持っていると言われている。模倣=真似である。真似るには真似る元を知らなければ真似る事はできない。知るにはただボーとしていても頭の中に残るものではなく(それほど人間の側頭葉は有能ではない)関心を持たねば記憶にはなってくれない。関心を持てば、その関心事に見出しをつけて記憶の宝庫、側頭葉に保管されるのである。

必要に応じてその記憶は引き出され、記憶に沿った行動をする。
植木を植えようと穴を掘る。「スコップ」とか「穴を掘る」とかの見出しにより、側頭葉のファイルから過去の記憶がよみがえって来る。それを真似る、即ち電柱の工事が植木の工事に応用されるようになるのである。ある人は過去の記憶が無いと、自分の想像の範囲でスコップを使い、過去の事例を知る人は「応用」しながら使う。当然差が生じ、後者の人は『上手な人』『器用な人』と言われるのである。

 私はここ30年近く床屋に行ったことがない。すぐ近くに従兄弟が床屋をやっていて、子供のころからずーとそこで散髪していたが、散髪だけでなく酒を飲みに行ったりで、その時が来る迄の待ち間に彼のしぐさをいやと言うほど見て来た。その後自分の子供の調髪をするようになり、三人の子供も父離れするまで私の手にかかって髪形を整えさせられて来た(本人たちにとってははなはだ迷惑だったかも知れないが)。子供達の調髪から、ついぞ自分の頭までやっつけるようになってしまった。最近は自分の調髪したい部分が少なくなって、調髪のしがいがなくなってきたが、このこと(自分で調髪していると)を他人に言わない限り自分で散髪をし、襟足まで剃っているなどほとんどの人が知らない。(出来栄えもそこまで来ていたのかもしれない)

 もともと私は器用な部類ではなかった。少なくも小学校の夏休みの作品や、図画・工作でほめられたことは記憶にないが、最近は何でもこなすようになった。やっと記憶量が増えて真似ができるようになったからであろう。

 物事に関心を持つ人は持っただけ前進をするので、勇気さえあれば真似ることができる。もちろん最初から成功するものなどはない。何度かの失敗の結果、すばらしい成功がやって来るのである。成功には試み(挑戦)と努力が必要なことは言うまでもない。一度覚えるともうしめたものである。最近はパソコンに向かって仕事をして周囲が何をしようと関心がない種族が多い。よその職場や工場や、他業種の工場、ライバルの工場などに関心を持たない種族が増え、少々憂いを感じるものだ。関心を持てば改善が始まるのに…と。

 私は『この世に不器用はいない』と思っている。もし自分が不器用だと言う人は、そのことに関心が薄く、挑戦して見る勇気か機会が少ない人だと思う。書を書く人の筆の運びを見ていると、いつか自分もうまく書ける気になるものである。

あなたも器用なのです、勇気を持って挑戦して見てください。(努力のいることを忘れずに)

(今月は特別に、昨年佐藤が作ったサイドボードをお見せしよう。中段の引き出し=網の籠以外は全て手作りです。山梨のボロ小屋においてありますが、結構いけるでしょ)

(来月は『感謝が幸せを呼ぶ』です。お楽しみに)

          (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE

                    佐藤嘉彦 著 エッセイ集 「千載一遇」より