嘉彦エッセイ


第19話(2005年10月掲載)


          



『小さなチャンピオン』


 私事を事例にして恐縮であるが、私は子供のころ身体が弱かったせいか運動ができなかった。そもそも運動神経も鈍く、スポーツは何をやっても、人に勝ったことがなかった。徒競走はいつもビリ、なにしろ運動会では後ろの組に抜かれてしまうありさまで、負けず嫌いの性格でもこればかりは手の打ちようがなく、運動会がくるといやだ、いやだと言って母親に泣きついたものである。更に輪をかけて、肺門が結核に冒され、更に運動から遠ざかり、自分にとってスポーツとますます距離が開いていった。

 小学校6年の時、担任の河合先生が試験の点数の累計で、自分の名前が双六のように進んで行く、世界一周競争を仕掛けた。この教育方法は現代では物議をかもし出すのであろうが当時は大変な刺激だった。東京をスタートに、北京、上海、香港、ハノイ、マニラ、…デリー…ローマ、パリ、ロンドンと世界の主要都市が教室の壁に書かれて、そこに特典順に名前が張り出される。前にいる人を抜くのが楽しみになり、闘争心が沸き出した。一人抜き、二人抜きして行くうちに、そこそこのポジションに自分がいることに自信を持ったものである。

 中学で、運動禁止が解かれ、テニスをするようになった。家の前の道路でテニスボールをゴムのりで紐が付くように細工をして、学校の部活以外でもボールを打っているうちに、市内では随分高いランキングに入り、優勝の経験もした。

 神奈川工業に入った。新入生歓迎マラソンが、全校マラソンとして毎年行われると聞き、恥をかかないために毎日、毎日七キロ程走ってみたら、本番で何と全校で十九位、学年では三位となった。毎年歓迎、送別と二回行われるこのマラソン、順位は毎回上昇し5位、2位、2年生の後半からは三回続けて優勝した。勿論これには努力を欠かさなかったことが起因している。陸上部に入り何と毎日四十キロも走っていた。

 結果的に、神奈川工業のチャンピオンになったが、本校の水準は低く、横浜市や神奈川県の大会に行くと予選落ち。でも小さいながらも「オレはチャンピオン」のプライドは自分の努力に勇気を与え続ける元となったことは事実である。予選も通過するようになった。

 どんなに小さくとも、自分に言い聞かせるだけでも良いからチャンピオンになることをお勧めしたい。一番でなくとも、順位なり記録なりが数字に現れるようにすることをお勧めしたい。そうすると、今までより少しでも前へ行こうとする闘争心がでてくる。抜かれまいとする闘争心がでてくる。これが大事なのである。一つ勝ち、二つ前へ前進する。後ろを走る遅い相手と比較しても面白くない。前にいる相手がライバルだ。こうして行くうちに、いつの間にか自信がわいてくる。そして似かよった少し違う分野にも進出する気になってくる。自信を持てるものがなくば進出する気に決してならないものである。

 自分自身で考えると、走り→夏は肺活量を利用した水泳、冬は足を生かしたサッカー・ラクビー、へと幅が広がり、それも少年期を疑うがごとく、結構こなしてしまったものである。

 チャンピオンと言うと一番であるが、今のランクから一歩進めば良い。また一歩である。

身の回り、どんな小さいことでも1番になるまで一歩、一歩前進する、させる。

他人と競い合っても良いし、自分の記録と競い合っても良い。自分の記録を破る。これは結構楽しいものである。

会社生活の中でも比較するライバルはいろいろある。事業所同士でも勝っているところを抜く。そのうち一番になったら外部の企業と戦う。こうしていくうちに企業は有数な企業に成長する。自分との戦いでは、健康のために歩く歩数なども楽しい挑戦だ。1日1万歩の目標を持つと出張先でも歩数を確保するために歩くようになる。長崎の町など随分歩きつくした。先日はアメリカの(SAVE大会の)San Diegoを歩き回って1日1万歩を確保した。記録はすべて世界記録と思えば楽しくなる。

何でも一番を目指そうよ。


(来月は『麦踏み』です。お楽しみに)

          (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE

                     佐藤嘉彦 著 エッセイ集 「千載一遇」より