嘉彦エッセイ


第23話(2006年2月掲載)


         



『文化と習慣』



 『私の常識、世間の非常識』と意地を張る人がいる。一般的には『世間の常識、私の非常識』である。人それぞれ評価基準が異なり、その基準でジャッジし、基準の枠を超えると「非常識」になるのである。人の基準、組織の基準や会社の基準、それぞれ異なって面白いものである。

この「枠」とか「線」とかは、社会の習慣や文化によって異なり、「社会」は最小は個人、家庭であり、徐々に地域や、育った学校や企業へと広がって大きな常識ゾーンを形成する。大きくは国の違いなども常識の違いをもたらしている。

 「赤信号は止まれ」は常識中の常識、むしろ法律で決まっている事であるが、佐藤が勤務していた会社の本社が在る大森駅近くの交差点、車が来ないときに赤でも渡らないと、「異常」の様に思われてしまうところがある。車が少なかったこともあるが、昔からの横断道路、このズレはとても不思議なことである。

 海外、とくにアメリカ人や欧米人との付き合いが多いが、アジアの人に比べ、行動の基準や常識が異なる。習慣や文化の違いが原因であることは確かだが、言語も大きく影響していると思う。英語は主語の後に動詞がきて、主語の行動がいち早く分かるようになっているが、日本語や韓国語は動詞が最後にくる。更に語尾の音量が下がり(これもどこかで書いたが)「行きます」「行きません」十分聞き取れずしても、通用して済む習慣や文化。意志決定の段階、明確さは随分異なるようだ。

 西洋には古くから時計があった。日本に到来したのは織田信長の時代のようだが、普及は文明開化、明治以降のこと。それまでは寺の梵鐘の音が時をつげ、それも2時間に1回、これを「一時=いっとき」と呼んでいた。片や、時々刻々と時が分かり、もう一方では2時間に一度以外は腹時計に頼る文化、習慣。

 履物もおもしろい分析対象になりそうだ。靴と下駄・草履。行動のスピードはおのずから異なってくる。これに起因する文化、習慣。

これだけ時間差やスピードが異なると、伝達方法、意志決定、意識はおのずから代わってくる。「例の件だが、彼がなにしてくれるんで、後はよろしく」すごい会話。でもこれで通じてしまう。阿吽の呼吸というやつである。

 文化、習慣の違いは常識の違いにも通じ、身近なところでは企業間の仕事の仕方や、意識の違いにも現れている。それが数字の単位まで変えてしまう。良い例が稼働率だ。8時間操業だと人は480分働く。文化の違いで機械は昼休みの60分も稼動させている会社は稼働率の分母は540分。人と同じ分母の会社とは随分異なってくる。分母を480にするか540にするかだから。最も先端を行く企業では365日×24時間×60分を分母にしている。この企業と480分の企業とでは会話にすらならないのであろう。

今日のように国内はおろか、世界中が均質化してしまった時代、この文化や習慣の差は企業競争の差となって現れてくるように思う。問題があっても問題と思えなくなり、それが常識化してしまう。文化、習慣は恐ろしい魔力を持っている。異常が正常になってしまう。分母の捕らえ方で稼働率など問題が見えず、100%を超えてしまう会社もぞろぞろ出てくる。目標管理なども企業間で基準(常識)が異なり、前進すると許される会社と、マイルストンの目標に届かないとプロジェクトをとめてしまう会社。典型的な差で、それぞれの企業で育った人はそれぞれの常識や文化となってその世界で常識論が交わされるのである。会社の基準などはまだ良い方で(と言っても、最近の大きな事故やコンプライアンスはまさに文化と直結している。)一般生活での常識のずれは困る。更にマヒし、無秩序や犯罪にまで発展する。そして、それさえ気が付かなくなってしまう(正当化してしまう)、・・・・ああ、恐ろしい。

文化、習慣もそれぞれの組織、地域と比較し合う必要があるようだ。

(来月は『麦踏み』です。お楽しみに)

          (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE

                     佐藤嘉彦 著 エッセイ集 「千載一遇」より