嘉彦エッセイ


第24話(2006年3月掲載)


           



『麦踏み』




 子供のころの農村の風景画や写真に、初春の麦踏みの風景が良くあったものだが、最近は都市化が進み、田畑が少なくなったり、作物もビニールハウス栽培などに変わって、その姿はとんと見ることができなくなった。手を後ろで組み、下を向き、小刻みに歩く、寂しさや郷愁を感じる姿であった。事実私は子供の頃、父親が借りていた狭い農地で体験した記憶がある。

これは芽が出て伸び始めた直後に根元(人間で言う足の付け根)を踏み、根元の関節を強化し、後々大きくなった際に、風などに負けない強い麦に育てるための作業である。

 我々の社会は最近この逆を行っているような気がする。文句を言うとプイとふくれる若者(だけでなく結構の年配者にまで蔓延し始めている)、何かあるとすぐやめてしまいそうな若者。ついぞ甘やかし、おだてて仕事をさせるような環境や習慣になりつつあり、根元の間接が弱っているような気がする。

 人間関係に気を遣い過ぎるのか、トラブルを避けたがるからか、おしゃべりばかりしていても注意する人が少なくなり、パソコンに向かって仕事をしているのかと思いきやメールのやり取り(その多くは付加価値を生まない連絡事項、時に私信)それも黙認(管理者自身も同様?)出来栄えが悪くとも、指導を恐る恐るやっている。問題が起きても、責任を明確にしなかったり転嫁したり、問題解決の先送りをしてしまったり、どうやら、ひ弱な水栽培のもやし作りのようになっているような気がする。

 組織の縦割りが進み過ぎて責任が分散し、平和ボケも手伝って、ピリピリすることが少ない。バブルであれだけたたかれても大半の企業が生き延びてきていることも平和ボケの一つになっているのかもしれない。日々さまざまな障害の「何か」がおきているものだが、その「何か」に対しても「まっ、いいか?」の先送り対処。先送りしても当座は困らない(実際、進歩それはは止まり後で効くが)。これで良いのだろうか。このままでは企業も、日本も将来がおかしくなってしまいそうな気がする。

 人間は追い込まれないと強くならないと思う。切羽詰まらないと知恵も出ない。

毎年行っているある行事、年々準備日程が長くなり、リソースのかけ過ぎのきらいが強く、敢えて今年は準備時間の取れない期日をセットしてみた。なんとそれなりにアイデアが出てくるではないか。「こんな日程ではできない」「開催時期を変えよう」従来のぬるま湯に向かった提案がたくさん出たが、追い込んでみれば何と見事にこなしてしまった。こんな事例を体験した。まだ強さは残っているようだ。徐々にぬるま湯化してきたところに刺激を与えてみた訳だが何とかできる。しかし、このままぬるま湯に浸っていると(それがぬるま湯と気づくか気づかないかで大きな違いが始まる)、いずれ対処できなくなってしまう。まだ今だから対処できたが、これが常識、当たり前になったら、どうにもならなくなるだろう。日本の企業の中にはかつての様々な資産に支えられて現在どうにか回っている企業や見掛けの利益に安心している企業も多く見る。あと、数年したら・・・ぞっとすることがある。

 厳しさの中で人間関係をどうするか考えれば良い。追い込まれた中で、時間短縮や知恵を出す習慣を考えれば良い。厳しさや追い込まれ感が無ければその気にはなれない。そのためにマネージメントの仕掛けがいる。仕掛けなければ変われない。仕掛ければ動く・変わる。そして少々高い目標も上手に仕掛ければ乗り越えようとする。仕掛け=マネージメントだ。

あの冬の寒い中でトボトボ麦を踏む、この厳しいプロセス、我々日常生活の中にも取り入れないといけないのではないだろうか。

踏まれ強くなれないと・・・・。そして踏まれて立ち上がれないヤツは去れと言っておきたい。


(来月は『マーケットイン』です。お楽しみに)

          (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE

                     佐藤嘉彦 著 エッセイ集 「千載一遇」より