嘉彦エッセイ


第28話(2006年7月掲載)


         



『無駄づかい』



 私の趣味の世界にスキーがあると本文に何度か出てくる。昔はスキー場の食堂と言えば、場末の飲み屋のように古びた木のテーブル、錆の出始めたパイプの椅子、ガラス窓には和紙で割れた部分を貼ってある、こんな光景が一般的であったが、最近はカタカナや数字だけの店の名前で、郊外のレストランなど太刀打ちできないほどの設備や店構え、天井は高く、もちろん椅子やテーブルは超近代的なもので、メニューと言えば舌を咬みそうなものが並んでいる。最近は年配の方々も随分見かけるようになって来たが、やはり若者の本拠地であることは否めない。

 その若者たちの行動を見ていると、自分で食べたい食材をカフェテリヤの棚から取り出し、そしてレジに。料金を支払った後で、箸やコップ等をピックアップする。最後にペーパーナプキンをお盆に乗せる。そのペーパーナプキンの量の多いこと。仲間が使うであろう、の気配りかと思うとどうやらそうでもなさそうである。他の仲間もしっかり大量に持って来る。

よく見ると、プラスチックの使い捨てのコップなども無造作に数多く持って来ている。要は量に対して無頓着なのである。食事後トレーを下げ膳棚に戻すとき、使わずに残ったペーパーナプキンやコップはそのまま捨てられる棚に並んでしまうのである。ペーパーナプキンは衛生上の問題があるので戻す訳に行かなかろうが、コップは・・とも思うのである。

 今の若者はと思っていたらさにあらず。先日ゴルフ場の浴場で、かっぷくの良い、いかにもスコアーも良さそうな年配の人が、タオルをたくさん使うのに驚いた、普通のタオルを三本も四本も使うのである。更にバスタオルを二本も三本も。読者は本文より私の観察力の方に関心が移ってしまったかもしれないが、前の部分を覆うために一本、濡れた頭髪のふき取りに一本(私と同じ拭くほどなかったが)。調髪の際に方にまた一本。いやいや驚いた。

 スキーの若者にも、かっぷくのご年配にも共通していることは、意識の中に「これも支払う金のうち」と思っているのであろうが、私は貧乏人の家に育ったからか、もったいなく感じてしまう。ペーパーナプキンはなくなったら後の人が不自由するであろうとか、資源からして大変なことだとか、タオルは洗濯する人が大変なことだとか、片付けるのもえらいことだとか。もう少し広くものを見る必要があるように思うのです。いくら使い捨ての時代だからと言って、許されるものとは言いがたいものである。そしてこのような例が枚挙に暇がないほど身近に多く見られるから問題なのである。

 この人達、自分の家でもそうなさっているのでしょうか。タオルの御仁。絶対一本のバスタオルを家族全員で使っているのと違いますか。そうか、だからこの時ばかりは二本も三本も使いたくなってしまうのかも知れませんな。


(来月は『敵を作る』です。お楽しみに)

          (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE

              佐藤嘉彦 著 エッセイ集 「千載一遇」より