嘉彦エッセイ


第31話(2006年10月掲載)


          



『兄弟げんか』



 私は3人姉弟のちょうど真ん中の長男として育った。姉は3つ上、妹は3つ下。あの時代にしてはわが親の命中率の素晴らしさは、まるでアーチェリーの選手のようである。

太平洋戦争終了間際(19年9月)に生まれ、終戦後に幼年期を過ごしたが、我々姉弟は今考えると想像できない(我々の親からすると大変贅沢と思われるが)時代に育った。3人姉弟と言えども、食べるものが3つ揃っていたためしはない。家で飼っていた鶏もなぜか、生む卵の数は半端な数で、3の倍数や5の倍数であることはなかった。その都度争いの元になったものである。新潟(父の故郷)からお客でも来ようものなら、産卵機が一羽ひねられて、食卓に載ってしまい、翌日からの産卵数は更に低下してしまった。

 本当に食べるものが乏しく、小学校5年生の時には、栄養失調で肺門を結核菌にやられてしまったほどである。このようなことは決してわが家だけではなかったようだ。

三人姉弟は本質的には仲良しであったはずであるが、よく喧嘩をした。体力のない私など、姉が私の上に跨がってしまえば、もう田村亮子が抑え込みに入ったように何も動けなくなってしまった。そもそも争いの元は大半が食べ物である。数の少ないものはいかに早く、手中にいや口中に収めてしまうかが勝負。意地の悪い姉は一番おいしいものを最後まで取っておく癖があって、それをそっと口中に入れる癖のある弟がいたから争いは絶えなかった。すぐ抑え込みと相成る訳である。

 今、私と家内の間に3人の子供がいる。3人とも成人し、2番目の娘は私達夫婦に孫まで贈ってくれた(と、我々夫婦は勝手に思っている)。こんな3人、小さいときから喧嘩をしたことがない。よく考えると争う材料がない。一般的に争いの元はまずお金、そして生活の豊かさの差、豊かさも食生活や持ち物、部屋・スペースなどの優劣から妬みが始まり闘争の元になる。我が家は決して豊かではなかったが、3人の間に妬みが発生しなかったのだろう。一番下の皇太子などはみんなにちやほやされていたし(今も)、上の子供達も4人いた祖父母から、何だカンだと言っては資金を調達していたので、たいしたリッチであった。奪い合う必要も戦う必要など全くなかったのである。物資は余り、毎年一回確実にお正月が来てまたまたリッチになって行く。

 一見平和のようであるが、私には憂いること大である。かすめ取る戦術でも、自分の力でしっかり食料を確保した経験のある我々世代、戦い取る事も覚え、ひもじさに絶えることも体験して来た。闘争は励み、切磋琢磨の刺激、成長の源。戦いがあるからその後の満足も増える。耐えることも重要な体験だった。

さてこの子らは何に刺激を求めて将来生きて行くのだろうか。国民全員平和ボケ、世界が同時に平和ボケになるなら何の心配も要らないが、平和ボケが日本だけであったらこんなチッポケな国、すぐどこかの国の属国にと、吸収されてしまうのではないだろうか。現に隣国など、いろいろ難癖をつけては闘争の種を見つけ国民に闘争心を煽っている。

勿論本質的に仲が良いことは誉められる点であることは事実。思いやりもあり、いざとなると助け合っている。これも大事だし素晴らしいことだ。しかし兄弟同士でなくとも、喧嘩しろと言っているのではない、闘争心、競争心は持ち合わせねばならないことを申し上げたいのである。それが亡くして成長はない。平和ボケで失ってはいないか、申し上げたいのはここである。

老後になってから、ハングルや北京語、又はタガロイ語を学ばねばならないなど勘弁してほしいと願うものである。

おいっ!純(長女の名)、文(次女)、大樹(長男)、今からでも争ってみなさい。競い合え!。でもひっぱたいたりするな、お姉さんのほっぺは可愛いんだから。暴言もそこそこにしろ。なるべくサラットやれ。頼むぞ。・・・なんだ親が平和ボケではないか。


(来月は『戦争の話は嫌いだ』です。お楽しみに)

    (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE

              佐藤嘉彦 著 エッセイ集 「千載一遇」より