嘉彦エッセイ


第37話(2007年04月掲載)


          



『住民投票と民主主義』


 今年の4月は統一地方選挙華やかな時期で、各地で激しい選挙戦が繰り広げられている。最近は官製談合による知事の収賄などで、当事者は激しい選挙戦なるも、選挙民は白けた反応を示し、多分私の記憶する選挙では最も関心の薄い選挙になっているのではないかと思う。被選挙人(選ばれた人)が好き勝手なことをして、選挙人(国民)が政治に参加しようとの意欲が湧いてこない恐ろしい現象ではないかと思う。

この話(事例)は、私のエッセイ「千載一遇」を最初に出版した頃(1997年)の話が発端である。新潟県の巻町(現、新潟市)で原発に対する住民の意見を聞く住民投票があり、結果は『反対』となった。更に当時の反対を唱えた町長は、賛成派の復活にとどめを刺すために、建設予定であった町有地を、条例で町長決済が許される小さな区画単位に分けて、反対派の中心的役割を果たした町民に売却してしまった。当時私は一見住民の意見で住んでいる地域のことを決めるのは素晴らしいこと、これが民主主義とも思ったが、少々違うのではないかと思うことがある。

 本書には政治的なことや思想的なことは極力含めまいと思っており、このコラムでも政治的、思想的に意見をするのでなく、我々の心の持ち方を切り口に述べてみたい。

  「みんなで決める」確かに民主主義のようだが、決める人がどこまで広く物事を考えて判断しているかによると思うのです。

過去に、消費税が登場したときに、某政党が一躍躍進したことがある。このときのスローガンは『増税反対、減税』。誰もが賛成したくなるようなスローガン。では国の財政はどうなるか。赤字国債も反対。では国の・・・・。と相成るのである。あの時の政策は所得税を下げて、諸外国が行っている消費税に一部負担させる。この考えだった。

例の原発でもしかり、日本の電力の三分の一は既に原発に頼っている。原発がなければもっとダムができて、山林が湖に沈んでいただろう。原発がなければ、もっと火力発電所がたくさんできて、大気も少なからず汚染されていただろう。

消費税に反対する限り、見合う収入財源を考えねばならない。法人税に頼れとヒステリックな人は言うかもしれないが、その分所得が下がることを覚悟しているのだろうか、

原発に反対する限り、国全体で三分の一の電力量を減らす提案が伴わない限り、その提案は成立しないのである。少なくも将来の電力量の増加対策で巻町に原発を設置しようとし、それを反対するなら、せめて『巻町の電力量は増やさないから、うちの町には要らない。電力量の増えるところに建設して欲しい』と言わなければならないと思うし、自分の町の増加抑制を保証しなければならない。ごみ問題なども同様で処理場は反対、でもごみは出すでは話にならない。

 民主主義とは自分達の都合だけを主張するものではないと思う。もっと視野を広く見なければ誤った選択をしてしまう。もし色々なことを住民投票で決めるようになれば(勿論そのときには議員さんなど不要になるが)、減税は限りなく賛成を得られるであろうし、福祉や医療補助、年金の増額、祭日の増加、間違いなく賛成多数。消費税率の増額、間違いなく反対。個別に行ったら必ずこのような答えが出て来ると思う。国民全体がそう視野が広いとは思えないから。総理大臣を国民投票で、等で選んだら松坂大輔やSMAPの木村拓也などが当選してしまうかもしれない。

民主主義とは、権利と義務の抱き合わせであると思う。何かが犠牲になってその犠牲によって何かが生まれて来る。入力と出力。ご都合主義ではならないのである。住民投票のようにして意見を求めるなら、“この選択をするにはこれを覚悟する”と義務を明らかにしなければエゴイズムのみが先行した結果になると思う。別のコラムで『部分不適、全体最適』を主張しているが、我々に罹る部分不適を覚悟しなくして民主主義はない。部分不適を最小にして、全体最適を最大にすることが良い政治であり、良い経営であり、小さくは良いサークル、良い人間関係になるのでは無かろうか。

(来月は『昔の名前で出ています』です。お楽しみに)

    (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE

              佐藤嘉彦 著 エッセイ集 「千載一遇」より