嘉彦エッセイ


第41話(2007年08月掲載)


          



『戦争の話は嫌いだ』


 毎年八月になると、昼間のテレビは高校野球か、バラエティ、夜になると戦争を回顧するものが各局競って登場し、原爆だの慰安婦問題だの、そして沖縄の激戦や基地の話、はたまた今年はきっと久間前防衛相の原爆発言などが話題になるのであろう。

新聞のコラムにも多く戦争の話題が取り上げられているであろうが、私はどうも戦争の話が苦手である。昭和一九年の生まれであるから、胎教は大日本帝国の血潮が全身に流れるようになっていたはずであるが・・・・。

 確かに、後世にあの悲惨な戦争を繰り返させないために、何かを教えなければならないし、事実も記録しておく必要はあろうが、『南京大虐殺』とか『従軍慰安婦』とか『韓国人の強制連行』などの写真や記事が報道されては、その写真は別のものだったとの謝罪記事が載ったり、写真展を開いたらやはり別の写真を展示してしまったなどと、何か事実を捕らえずに、それぞれの立場、主義主張の違いを道具として表に出してしまっている気がする。

 原爆は人道的でなかったと騒ぐ人達もいる。では鉄砲で人を殺すのは良いのか。戦争をする限り、多かれ少なかれ罪の無い大衆が犠牲者になるのである。それが大規模になると、「大戦」と名付けられるのである。最近の戦争は、ピンポイントアタック等と称して、本当の狙い所だけを攻撃するやり方から、戦争なのか犯罪なのか分からなくなるテロ活動に主軸が移り、イラクやイスラエル、そして九・一一以降主要国の大都市での自爆テロなどが予想もしないところで発生する。イラクの内戦?などでは連日何十人と犠牲者が出るが、大きな問題にはならなくなるくらい麻痺してしまっている。

戦争ではマスコミや大国の指導者達が大衆を犠牲にすることがあたかも悪いことのように言ってはいるが、戦争をする限りルールもモラルも無いことは当たり前な事だと私は思う。

八月、毎年語られる日本軍の悪行は敗戦国だから言われるのであって、戦勝国は原爆を落としても攻められない。事実か見届けたわけではないが沖縄の米国兵の日本人婦女暴行も全てが事実か分からないが0ではなかったと思う。

軍人は殺してもよいが民間人は殺してはならぬなどとは到底思えない。沖縄の犠牲、広島・長崎の原爆、そして東京始め空襲で被害の大半は民間人だった。ピンポイントアタックだって、中には罪のない人が多く犠牲になっていることも事実である。

 そして歴史は全て勝者が作り、敗者が責められ、敗者の主張は抹殺されて行くだけである。勝者と敗者の見解の違いが、毎年この暑い時期に話題を提供しているに過ぎない気がするのである。特に嫌いなのは悲惨さと、作り上げられる数々の(非)事実。大事なことは、「どうしたら二度と戦争が起きないようになるか」を議論することではないだろうか。そのために事実を訴えることはわかるが捏造までして再発防止を仕掛けるのは面白くない。

 全く話が異なるが、 鳥インフルエンザやBSE問題、はたまた不二家や苫小牧のコロッケやさんのような不祥事、食に関する問題はしばしば生活の中の話題をさらう。何年か前にO−157と言う病原大腸菌が集団食中毒を巻き起こし、世の中を騒がせた事件があった。その時に「かいわれ大根が原因」との説がニュースステーションを中心に流され、全国の野菜売り場から、かいわれが消えてしまったことがあった。このような事件は、原因究明は重要であるが、かいわれが大腸菌を持つはずが無い、何故ならばかいわれは植物であるからである。ある特定の工程で病原大腸菌が付着したかもしれないが、かいわれが悪いのではないのである。悪いのはその特定の環境と工程か材料であるはずである。しかし、かいわれを犯人に仕立てる非常識がまかり通り、ニュースステーションもワイドショーでも大学教授などを押し立てて信憑性を照明するかのように、そして鬼の首を立ったような報道があった。結果、全国の売り場からかいわれは消える。このようなヒステリックな事が報道から生まれ、騒がれ、そしてついこの前まで大盛況だった商品がある日突然消える。でっち上げられた対象品の関係者はたまったものではない。この手の報道の仕方は戦争の話しに良く似ている。真実も分からないのに、あたかも生き字引のように解説して、ごく一部の出来事を全体で起きたかのように針小棒大化する。そして悲しみを誇張する。

 これらのことは、我々の仕事や生活の中でもしばしばよく見られる光景だ。「問題が発生した」│「だれが悪いのか」。多少救われるのは「原因は何か」の追跡が加わった時である。 戦争もかいわれもそうだが。重要な事は「何故このようなことが起きたか」の議論と、「これからどうしたら同じことが起きないか」を論ずることである。ケースによっては「何故・・・・」を省いても差し支えない問題もある。戦争の話でも何故を論じる事が多いが、論じ切れない奥深い当事者の思い入れがあるのであろう。何故を問うても解が見えない事が多い。分からないことを推論してもしょうがない。それよりも建設的で夢を追えるのは、将来のことを考えることではないか。

 戦争の話も落ち込んでいく話ではなく、手を携えて復興に努力して貧しき中にも明るさが増していく報道には一緒に涙する。自分達に何か出来ないか(実際には何もしない自分が情けない)考え、そしてもっと元気になれ、と心の中で祈るものである。



    (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE

               佐藤嘉彦 著 エッセイ集 「千載一遇」より