嘉彦エッセイ


第118話(2014年04月掲載)


           



『塩の道:現地・現物・現実と茫然自失』



先月号は、タイトルにある「茫然自失」状態から抜け出せず、お休みさせていただいた。その分?
今月号は長くて恐縮ですがお読みください。



 「現地・現物・現実」はマネージメントやモノづくりの世界では、机上で物事を判断せず、
現場に行って事実を把握せよ、とのいわれを「三現主義」と言っている。


 2月14日に関東甲信越に降った雪、私にとって、今まで体験した事のない精神的にも肉体的にもショックを受けた日になった。
 その体験は塩の道で起きた。そこで感じた現実と報道や飛び交う情報の現実と差、周囲の関係者それぞれの見方、
判断の相異、そして自分が参っていく弱さ、についてお話ししてみようと思う。

2月14日、記録的な大雪が関東甲信地区に降った。
甲府では100年以上前からの観測記録(49cm)を大幅に更新して、何と1m18cmに達した。


(この話の理解には、山梨県北部から長野県、松本、白馬近辺=塩の道の入った地図を見ながら話を追ってみてください)
その日、私は、VPM研修所のある山梨県北杜市大泉での用事を果たし、
40年もの歴史ある自分の所属するスキークラブの行事のある長野県白馬村に向かう。

実はその途中、家内と孫が特急「あずさ」で松本まで来て、合流して白馬に向かう手筈だった。
大泉での用件を済ませて、松本での合流には余裕があったので研修所で少し体を休めていた。
雪は黙々と降り続いた。「あずさ」の運行が怪しくなったとの情報で、家内と孫は「あずさ」を諦め、
藤沢工場から出るスキー部のバスに乗せてもらうことにした。


雪は相変わらず黙々と降る。わが愛車は長坂ICで中央高速に乗ったものの、次の小淵沢で降ろされる。
国道20号に出て行くには約3Kmほどだが、車はぎっしり、大渋滞。
それはそうだ、高速2車線を突っ走ってきた車が下に降りるのだから、下の1車線は混むのは当然。
スキークラブのメンバーとの交信で中央道閉鎖の情報を伝え、バスは関越を行くことに、
私は白馬へそのまま20号線の渋滞にはまりながら、僅かずつ前進。


ここで現実と机上論の話の一つ目だが、この大雪の後5日ほどして
(漸く国が大問題に気づくがそれまでに5日もかかった=現実)太田国交大臣が、
「大雪の時には高速を直ちに閉鎖して、全て一般道に降ろす」と発言。では一般道はどうなるか。
現実をご存じない軽率な発言だと私は感じた。下に降りたら進むのか。食料は、燃料はあるのか、各お店は皆閉まっている。 

元に戻って、国道20号線に漸く出て、信濃境、富士見から茅野を経て、諏訪湖岸を走る。
小淵沢から30Km、既に4時間は経過する。通常は20分足らずで通過する距離に、ますますこの先どうなるかの不安が募る。
刻々と時計は時を刻み、夜8時過ぎ、昔は難所の一つであった塩尻峠を超えて塩尻の街に入る。完全にストップ状態。
9時半過ぎになった。更に不安が増す。


クラブのバスは集合場所の藤沢工場を1時間半ほど遅れて出発、11時になっても10Kmしか進まないことから、英断を下し、
行事は中止を決める。この結論は大成功だった。
もし進めたら、現地には着かず、雪の中に埋もれ、どう過ごしたであろうか。
私がリーダーだったら、クセの希望的観測に乗じて、進んでいたかもしれない。
判断の重要さだ。リーダーの決断の素晴らしさ。


この報告を11時過ぎに聞くも、私の車は上下大渋滞にはまり、戻ることもできず、
やむなく脇道を上手く抜け乍ら(これは冒険で、スタックしたら救助の手はない。幸運にもうまく抜けた)
今思うと本当に戻れなかったか????
松本、そして降り続く雪の中を安曇野、旧松川村から大町を通過、白馬に向かい、
ここは少し車が流れて(白馬に行く人はスキーに行く人以外いない)1時過ぎに宿舎のロッジ五竜に着いて、
布団の中で半泊をさせていただく。100Kmほどを10時間の悪戦苦闘だった。


翌朝、現地の関係者に挨拶をして、10時頃、自宅(神奈川県相模原市)に向かうも、再び松本の近くから渋滞が始まり、
茅野から先の完全ストップを受けて、原村の山道から小淵沢に向かう。雪はやんでいたが、積雪は非常に多く、
わが愛車も新品のスタッドレスに変えた直後でしっかり走ってくれたが、何と、小淵沢の手前の富士見町に着いたのが夕方6時過ぎ。
(通常白馬村から相模原の自宅に帰るのは約4時間)ここで行く先の道路はトレーラーの事故で上り線不通。
戻ってどこか宿を探そうと思っても、戻る先でも同じくトレーラーがスリップ事故で道路を封鎖。
20号は完全に上下線停止した。八ヶ岳と南アルプスに挟まれる谷に位置する20号、脇道は無い。
抜けるに抜けられない。夜が深々と迫る。自分にできる選択肢はそこに留まること以外無くなった。


家内や、子供たちがいろいろな情報を携帯に送ってくれる。いくつもの選択肢が出てきた。
近場のホテルは空いている、がそこへの移動ができない。
情報を発信してくれる側の想定する環境と困窮状態の私の環境との間にあまりにも大きな状況把握のずれが出る。
「車を投げて、電車で・・・」案が出るが、線路は駅のホームと同じくらいの高さの積雪で電車はとっくに運休、
選択肢は狭められ、結局旅館を探す過程から辿り着いた富士見駅で夜を明かすことを決心。
計画外の宿泊は約70歳にして全く初めてだ。

近くにあったコンビニで食料を求めるが、パンもおにぎりも売り切れ、カップ麺も残り極少、お湯をもらって駅に向かう。
宿直の駅員に頼んで待合室の(ささやかな)暖房を消さずに、お借りするお願いをし、待合室解放を判断してくれた。
外は多分-15℃くらいか?感激して駅前で夜を明かす覚悟の車の人達にも声をかけた結果、
待合室は10人以上の賑わいを見せ、人との触れ合いがとても嬉しい。
何時間ぶりに肉声の会話をしただろうか。カラになりかかった携帯の充電も、充電器をお借りして満タンに。


実はこの時私には重要な使命があった。この富士見にてビバーグしたのは土曜日の夜。
月曜日から浜松で本業の3日間のVEセミナーが待っていた。月曜日朝9時には教壇に立たねばならない。
佐藤を慕って多くの受講生がエントリーし、待っている事になっている。 

長くなるがもう少し悪戦苦闘の事実に触れておくが、金曜日の夜中は白馬の半泊、土曜の夜中は富士見駅、
家内たちからの情報は、まだ山梨が孤立していることにはなっておらず、鉄道もネット検索では、
東京-富士見間不通がと出たそうだ。従って「富士見から電車で茅野に移動してそこで泊まったら?」鉄道は富士見から先は
JR東でなくなるのだそうで情報もここで切れている。誰のための情報か、現場と机上の大きな相違点だ。


そして夜が明けた日曜日、快晴なるも記録的豪雪は、高速はもとより大型トレーラーの転覆で国道も完全遮断。
回復に数日との情報。浜松がある!!! 富士見駅から小淵沢を経て大泉のVPM研修所までせめて戻りたい。
駅で続けて寝るわけには行かない。そろそろ下着も気持ち悪くなってきた。


研修所まで距離は僅か15Km。しかし記録的豪雪は私の進路を阻んだ。
8時に出て同じ道を何度もぐるぐる回りながら通れる道を探しつつ(NAVIは積雪のない状態を表示。どこにも向えない)、
漸くわが研修所の近くにたどり着いたのは3時過ぎ。県道から先の市道は除雪が全く回っていないため、
300m先の研修所への車の進入が不可能。この絶望感はアグレッシブさを完全に失った。

捨てる神あれば拾う神あり・・・の諺の様に、幸運なことに知り合いの土木会社があり、
無理を押して300mほど私の車が通れる程度重機で掻いてもらって、漸くたどり着く。


途中コンビニに寄ったが食料の棚は空っぽだった。少し離れた途中のスーパーには食料はあったが、
何を買って良いものか分からず。食欲は全くないため棚にある食料には手が出ない。
それでも幾ばくかの食料を無理やり籠に入れ、掻いてもらった道路を恐る恐る我家(研修所)に辿り着く。
漸く車庫に入れて、着いた!車の中で茫然自失。

この先自分は何をしたらよいのか、もう今日は日曜日だ。ここから浜松にはどうしたらよいのか。
数分しかであったはずが車中の自失状態は30分以上茫然としていたような気がした。


車庫から玄関まで3m、吹き溜まりで胸まである雪にズボッとはまったら動けなくなった。
もがくが中々進まない。玄関はそこだ!しかし身体が浮いていて踏ん張れない。足が蹴れない。
恐怖感さえ生まれる。何分もがいたか、玄関にたどり着いて鍵を開けて部屋に入る。ヨナヨナヨナ。
駅伝で次の走者にタスキを渡し終わったようになったが、すぐ気が付く。まだ走らねば・・・


水を出せるように(冬季は水抜きしてある)しなければ、薪ストーブに火を入れなくては、薪を運び込まなければ・・・
生活のための最低限の作業、そうそう車から荷物を持ち込まねば通信もできない。
まだバトンはわたっていない。もう少し走るのだ!!! 言い聞かせてもスピードは上がらない。


生活環境を最低限整えたのは何時ごろだったのだろうか。6時は回っていた。あぁ浜松の開会時間まで16時間しかない。
中止の決定はまだ下していないが完全に不可能。主催者は名古屋にいる。
実は名古屋には全くこの異常気象から甲斐の国が完全孤立して、雪道で凍死者まで出ていることや、
食料が途絶えていることなどは伝わっておらず(相模原の我が屋の一般TVも)、名古屋の人は「高速を回ってはいかがか」とか、
私の心をえぐるようなことを言い、中止を切り出したら、まるでずる休みをしているかのように、
「参加者への損害賠償」の話まで出てきた。ずたずたの心、自失している心には、傷にヨーチンを塗ってしまう痛さよりも心に沁みてきた。
そう、名古屋にも相模原にもTVはバリ島で流された日本人ダイバーの話の方が重要であった様だからどうしようもない。
孤立した早川村の老人の問題や、食糧不足、凍死・・知らない人は知らないのだ。これが現実なのだ。


部屋の中を目的もなくうろうろして、時おりストーブの前にヘナヘナと座る。
座って着ているものが濡れていることに気づいて漸く着替える。到着後1時間以上してからだった。

着替えを済まし、通信ができる体制を整え、風呂も数日入っていない、風呂だ!お湯を張る、夕食の準備をする。
気になるセミナーの時間は時々刻々と近づくも、どうにもならない。何をするか優先順位が決められない。

昨晩の駅での仮眠から、安住の地に移っての夕食。しかしビールが苦い。焼酎のお湯割りは白湯のような感じがする。
インスタントの鍋材料を買ってきたが箸が進まない。随分飲んだが酔わない。

ストーブに薪を追加して、布団に入るが今度は眠れない。二晩ロクに寝ていないと言うのに。
携帯には家内や子供たちから、交通の情報や雪の情報が入るが、国道も、高速も回復まで数日と言う恐ろしい言葉が飛んでくる。

不可能になったセミナーにまだ執着する。山梨放送は漸く自衛隊の出動要請をしたと報じる。
孤立した村が出て来たと伝える。この情報は山梨の盆地の中でのもので、武田信玄がここに居城を構えた狙いの、
外部からの遮断は今もそのまま実行されて、外部とは交信が無いのだ。
道路・鉄道の情報は回復の見込みのない事のみが携帯に飛び込んでくる。

この情報の違いはなんということだ!これが文明国家の情報なのか!!! (長くなるが続ける)

翌朝、雲一つない晴天にも心は曇ったまま。あぁセミナーは…周囲の家は車さえ出せない。
拙宅の前までは重機が一気に掻いてくれたので、道路に面した家はスコップで雪を除くが、彼らは雪の掻き方を知らない。
力任せのスコップをふるうので体力が続かない。しかし私に教える気力もない。

感動するニュースが流れ、本当に涙がほほを伝わった。
セブンイレブンがヘリコプターで東京からパンを4000食運んだとの報道。
本当にコンビニは空なのだ。


こんな時に限って、通信機器の電源が不調になる。情報が乏しければ更に不安が募る。
娘婿のアドバイスで、docomoの直営店に向かうが、そこで転んで肘を痛める、泣きっ面に蜂で直営店は雪のためお休み。
また絶望感。一人の弱さを露呈し、思考が限定され、アイデアを選ぶことができない。
家内のアドバイスが飛ぶ。「スーパーオギノにもdocomoがあったような気がする」思考が止まっているので自分では思い出せなかった。
それに従い雪道を走る。あった!漸く希望が叶えて少し元気が出るも、通信が豊富になったらまた完全閉鎖の情報ばかりにで茫然自失。
どうしたら身体がここから、心が自失から抜け出せるのか・・・。


明るいニュースが少し心を癒す。自衛隊が大量に除雪に人を投入。
富山県、新潟県から除雪車が隊をなして山梨に向かう。嬉しくなった。でも道路ではトレーラーが転覆。
どうやって除雪の必要なところへ行くのか。こういうことが現実。
大田大臣様、一般道に降ろせば良いのは高速道路(国の管轄)側から観た都合、判断だと言うこと。
全体最適は違うでしょ。


ここは故事(敵に塩を送る)にも出てくる塩の道、上杉謙信は敵の武田信玄のいる甲斐の国に塩を送った有名な街道。
まずここを開いて流通を確保しなければ孤立している早川村や柳沢峠から小菅村に通ずる塩山方面に物が流れない。
大月から笹子トンネルも封鎖だ。一般道の重要さを忘れている。

高速がだめなら私も一般道でと心ははやるが、道は拓けていない・・・とうとう月曜日の朝は来てしまった。
しかしセミナーはもうどうにもならない。主催者は受講生にどう手当てをしてくれただろうか。
こちらのシュチエーションは伝わっていない。まだバリ島の行方不明がTVの重要なニュースの様だった。
気持ちはヘナヘナと崩れた。この仕事を始め、いやサラリーマン時代から自分の方でキャンセルをしたことは一度もなかったことから、
失望感は言葉にできないほど深かった。


嬉しいニュースも続き出した。今度はローソンがカップ麺を4000食ヘリで運んだというニュース。毎日運ぶとのこと。
ヤマザキパンが輸送中のトラックに積んでいるパンを降ろして配る話もニュースに出て来た。
長野からも除雪車が…山梨県には除雪車は1台もないのだそうだ。何たることだ!


こんなことを感じられる少しの余裕が出て来たが、青空の天気と心は裏腹だった。
月曜日の夜遅く翌朝高速が開くとの情報。本当は心が弾むはずだが、はずまぬ心で晴天の火曜日朝を迎え、
残り物を一口、二口、口にし、研修所の片付けもそこそこにして漸く家路についた。

凄い体験の4日間だった。見かけの身体は健康体、しかし1カ月たった今も、集中力に欠け、複数の事を同時に判断できない。
一つことも先を読めないで判断に迷う。決められない。
朝令暮改する。これはPTSD(心的外傷後ストレス障害)の一つなのか…震災に遭遇した人を考えよう。
この苦しみの何百倍もの苦しみだったはずだ。


私の悪戦苦闘も長時間だったが、長文をお読みいただいた読者に感謝します。


    (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE