嘉彦エッセイ


第121話(2014年07月掲載)


          



『豊かさは国を亡ぼすか』


   このエッセイ、何度か母親について触れてきているが、その母親は6月26日ついに100歳を向かえた。
先日、母親系の親戚の一部と、母親の子・孫・ひ孫でささやかなお祝いの宴を催した。


本来は99歳=即ち100歳の一つ手前で「白寿」を祝うことが日本の伝統的祝賀のしきたりの様だったが、
昨年企画したものの、いよいよ具体的にと、詰めの段階でかたくなに断られて、中止してしまった経緯がある。
年賀状で予告してしまった関係者にお詫びの手紙を認めお送りした。


   今年は「百寿」本来「紀寿」と言うそうで、数え年100歳と言う人の寿命の長さを表し
上寿=じょうじゅ(100歳)中寿(80歳)下寿(60歳)といわれるそうで、どうやら
紀寿」は1世紀を言っているのではないかと思う。

先日のニュースで、世界の最高齢が116歳で海外の方が亡くなり日本人が最高齢になったとか。
大変な高齢で、わが母は果たしてこの年まで生き延びるか不詳だが、父も94歳まで生きたので比較的長寿な家庭と言われるも、
これは医学や環境の改善によるものが多くなってきたからであろう。


  その百歳に少し心の変化が伺える。先々月にも母のこと(「100歳のおしゃれ」)を書いたが、
自分に照らすと同じように自分の心にも変化が起きているように思う。それは贅沢慣れだ。


  母は貧しい寒村に生まれ、両親が早死にしたために、幼少のころから親戚に預けられ貧しい少女期を送った。
父親も新潟の寒村で11人兄弟の末っ子であったことから貧しさとその貧しさの中でいかに生き延びていくか、
母と工夫をしながら私たち3人の子供を育てた。戦時中に二人(私も)を生み、戦後まもなく3人目を授かり、
正に終戦のどさくさの中を必死に生きて来た。食糧難で私など5年生の時に結核菌に肺門をやられ、
あわや療養所生活かと危ない境目を自宅で戦って育った。両親は必死だったようだ。

  幼少の砌の時期を過ぎ、子供たちも元気に転じ、成績もそこそこ、社会人になって、三人とも人に何かを教える仕事に携わり、
母は大変喜び、感謝し、いつもありがたく思う人だった。時にそれが自慢の種の様だった。

   私が結婚し、同居しても、姑―嫁のいざこざの無い家庭が築かれてきた。
その最大の要因は嫁への感謝だった。(第15話『感謝は幸せを呼ぶ』2005年6月)家族全員の健康に感謝し、
子らのささやかな成長に喜び、質素で謙虚な母であった。


  母は最近デイサービスにお世話になるようになりだし、本来のサービス以上に、100歳”の勲章も加わって、
皆さんに
大事にされることから、人様から喜びをいただくことに徐々に麻痺しているようにも思えることがある。
今までのデイサービスに加え、ショートステイもある介護施設にも行き始めた。2か所のサービスを受けることになり、
そのサービスの違いに喜び方が異なり、不慣れな方(新しい介護施設)にはまだしっくりいかないようで、
「今日はどうだったの?」の質問に少々不満気の答えが返ってくる。
あと1カ月もすれば慣れてきて、同じように楽しめるのだろうけれど・・・最初からこちらだったら、
それはこちらで大満足なのだろう。

   100歳のお祝いに多くの方が来られたり、お祝物をいただいたり…しかしイマイチ喜び方が足りないような気がする。
数年前までは「こんなに気を使ってくれて、どうしよう」と感謝をあらわに出して喜んだが、
喜こぶ前に「早くお返しを」手続き優先、少しリズムが違う気が見えて来た。待てよ、以前のお袋は・・・。

少子高齢化が進み老人が多いため、近所には雨後の筍の様に、このような施設が増え、かれらも顧客獲得競争で、
先発の方はショートステイが無いだけに、必死に良くして惹き付ける努力をする。片方は最近の新設施設であることから、
これまた一生懸命。着替えた下着類のたたみ方まで感心するほどの美しさで返してくれる。
預ける子の立場では、感謝に絶えないのだが、当事者にはその差が“満足”と“イマイチ”になって表れる。
競争の原理は結構なことで競争があるから向上するのは世の摂理。
しかし、競争が激しい故に過剰になるのもいかがかとも思うし、受ける側に感謝の心が不足する現象に憂いを感じるのである。

こうして医療や介護の費用がかさんで国家予算まで脅かし、私も高額の介護保険を徴収される羽目に陥ってしまう。
確かにいつまでも元気で長生きをしてくれと願うこの気持ちは何も佐藤家だけでなくどこも同じだが、生活保護に不正受給や、
保護を受けながら、働かずにパチンコ通いなどを身近に見ると、本当にこの「贅沢」が正常なのか疑わざるを得ない。
享受する方は徐々に当たり前化し、場合には不満に転じたりする。


  母の100歳に注目して変化を感じ取ってみたが、果たして自分はどうだ。「金目」と発言して顰蹙を買った環境大臣がいたが、
自分も似たようなもので、ちょっと買い物に…お昼近くになると以前は家に帰って朝の残り物でも…と相成ったが、
この頃は「何か食べて帰ろう」贅沢慣れは明らかだ。


スキーを始めたころはリフトに乗らず歩いてスロープを上った。混んでいたことも事実だが、お金の問題も細やかに有った。
回数券の時代だったから、もう1回は残しておこう、最後に上まで行って豪快に一本滑ろう・・・と。

   ワールドカップの初戦、日本のサッカーはコートジボアールに負けた。コートジボアールの子供たちは靴を履かずにボールを蹴っている。
靴はあるが買えないのだ。その昔アベベ・ビギラ選手はローマの石畳をはだしで走ってマラソンの金メダリストになり、
1964
年の東京オリンピックでも優勝した。この年は靴を履いていたが連続優勝は初めての記録となった。
エチオピアも決して豊かではなかったのだ。

   貧しさの中のハングリーさが身体も心も強くしていくことを見て、聞いて、育ったが、
今や贅沢の生贄になっている自分を恥ずかしく思う。今日も昼食は外食だった。


さてどうやって国を滅ぼさない節制と感謝ができるようになるだろうか。娘は今も月に2回は石巻に通って、
慰問や精神的支援を続けている。もちろんボランティアだ。そして環境はまだまだ整っていないと言う。
同じ国にして、自分たちは何も悪いことをしたわけでもないのに、あのすざましい天災・不幸に遭い、
今だ不自由を強いられている。もっともっと、このような実態をマスコミも報道して、
海外を含め貧しくとも力強く生きていることを教えるのも一つの方法かと思う。

    しかし何よりも自分を自分で見直すことからすべきだと思った。

  せめてスキーを滑り終えて、1日楽しませていただいた感謝の気持ちをゲレンデに一礼…先々シーズンから始めた。
時折忘れてしまう。次のシーズンはしっかり行なおうと決意した。




    (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE