嘉彦エッセイ |
第128話(2015年02月掲載)
『箱根駅伝に思う』
暮れの内にスキー場から帰り、元旦は家で迎えるようになって何年経つか、お屠蘇をいただきながら、
ニューイヤー駅伝にしがみつき、二日には今度は箱根駅伝にしがみつく。
3日は復路8区の遊行寺坂上で選手に拍手を送る。これが正月の恒例になった。
今年は第91回目を迎える箱根駅伝、また涙と感動と新しい記録が生まれる駅伝だった。
多くの人が同じ様な思いを感じてはいるのだろうと思うが、私にとって駅伝はいつも感無量、
格別の感動を経験する。それは短い期間であったが自分がランナーを経験したことがあったからだ。
小学校5年で肺門気管支炎と言う結核菌で侵された病で、あわや秦野の結核療養所に
入れられてしまう羽目に陥る境目、運動禁止が3年間、中学1年の中旬から解禁になり、
軟式だがテニスに夢中になった。高校への進学が決まり、歓迎マラソンというのがあると聞き、
ランニングが苦手だった佐藤少年は毎日走り始めた。朝晩各4Km、2か月毎日走った結果、
その歓迎マラソンでは、かけっこが苦手だった佐藤少年はなんと全校で19位、新1年生で3位、
努力すると結果が付いてくることを初めて体験した。
そんなことから陸上部に引っ張られ、中学の同級生が誰一人信じない、陸上部員になった。
毎日40Kmは走った。朝学校へ行く前に7Km、学校で25km前後、帰宅して寝る前にまた7・8Km、
修学旅行でも走っていた。当然校内では2年生の後半から一番早くなり、
校内の記録を塗り変えていったが、県下では目立つ選手ではなかった。
それでも人一番くいしばって、特に駅伝は一度も抜かれることなく3年間を走り終え、卒業した。
東京―青森駅伝を走りたかった。恩師の仲介で日体大の特待生の声がかかったが事情で進学しなかった。
箱根を走りたかった…少年期の思い出だった。
この箱根駅伝は、過去90回の大会で、15校が優勝している。60回を5校で分け、
古豪と言われる明治が6番目で7回の優勝。
しかし今年は青山学院大学が初優勝、それも驚異的な記録で勝った。
数年前までシード権内に入るのもおぼつかなかった青学、感動を綴り勝因を探ってみたい。
今年は、函嶺洞門が閉鎖になり、バイパスで少し距離が延びたため、5区と6区が参考記録になった。
昔の映像では雪の中を走っているシーンが多く、この箱根を掛ける選手は全員と言って良いほど
長袖のトレーナーだったが、地球温暖化なのか、今の選手は半袖にアームウォーマーが目立つ。
大手町を出発した選手は皆ランニングだ。
前半はあまり大きな変化がなかったが、毎年ゴールしてヘナヘナと崩れる選手が、
必死にコースに感謝の礼をしているシーンを何度となく見かける。ここから涙が始まっている。
私もスポーツ団体の役員を長く務め、スキー場に感謝しろと言ってきたが、自分が行動で示さないものだから組織の誰一人として感謝などあらわさない。
しかし、駅伝選手、特に早稲田の選手は欠かさず例をしていたのを見て身体が震えた。
そもそもタスキを渡すシーンは見る度に涙が出るのだが、
あの苦しい状況でも心から感謝を思うからこそ礼をするのだろう。
指導者の力を教えられた。渡辺康幸監督に敬意を表したい。
前半の圧巻は青山の神野大地選手の走りだった。
あの東洋の榊原竜二選手が毎年記録を、それも先代山の神の今井正人選手の記録を破ってきた脅威的記録を
いとも簡単に、そして少し伸びた距離でも抜き去った。でも伏線がある。
1区で2位に入ってきたところから勝利の方程式が始まっていたようだ。
4区(平塚―小田原)に1年生の田村和希選手を当日変更。
何と区間新記録でトップ(駒大)との距離を詰めて行ったのである。
もちろん区間新というインパクトは、経験者としても奮い立つ勇気をもらえることを何度も経験している。
ここに青山の強さを感じた。
この神野選手の走りは、復路の選手にどれほど勇気を与えたか。
5分ものアドバンテージは、余裕を十分与えてくれるものだ。駅伝はタスキを渡す。
何が起きるか分からない箱根時のランニングは不安との戦いだと思うが、5分は無理をしなくてよい時間。
不安を払拭して、選手にとっては快調に走れる材料になり、復路で3人もが区間記録を残して圧勝の結果を呼んだ。
なぜ、青山が・・・今まで昨年の5位が最高であったが、一気に優勝とは?その謎を探ってみると、
全く新しいアプローチが存在していた。
まず、学校挙げてスポーツで元気になろうと意思を統一して、
駅伝だけでなく他のスポーツもこのコンセプトに一丸になっている。
口だけスローガンの学校や組織は数多くある。
私のいた会社もそうだったが、一丸とはとても重要な精神力だ。
原晋監督は箱根を走っていない。
全く新しい目で、過去にとらわれない戦略が立てられる。
企業でいうとブレークスルーだ。
練習方法も、一般的にはインターバルトレーニングやタイムトライアルでデータ練習を行うが、
高橋尚子選手がボルダーで高地トレ(心肺系の訓練)を行ったように、練習に変化を与え、
身体の作り方を変えたのである。
敷地内に何とクロスカントリー、それもアンギュレーションを付けたコースを創って選手を走らせる。
平たん路でないコースでのトレーニング。右傾斜の路面、左傾斜の路面、これは足首を強化する。
身体のバランス取りを学べる。
実は青学は、私の住む町にチャペルと校舎とグランドがある。私の家と淵野辺駅を挟んで斜め対面だ。
時折、我家傍の矢淵陸橋(鉄道を超える陸橋)を往復する選手に出会うことが有るが、
すごいスピードで陸橋を上り下りしている。練習環境と練習方法が違っていて、
いろいろなトレーニングで、ありきたりでない筋力を蓄えて行ったのである。身体のケアのために水風呂を導入した。
そして、選手起用も、サラリーマン経験を生かしたマネージメントで適材適所。
田村は1年、神野は3年生だ。そこに底力を蓄えて行った原動力があったようだ。
往路優勝の青学があまりにも早かったので、6区の一斉スタートは13校も一緒だったのも記録の様だったが、
やはり今年も涙が出たシーンは数多くあった。
駒沢5区の馬場選手、立ち止まってふらついて、最後のゴール前は這ってゴールした。
高校3年の高校駅伝(52年前)、花の1区で優勝候補の横浜高校の選手が、這ってタスキを渡したのを見た。
私よりずっと早く神奈川県のランキング1位の選手が、大ブレーキ。
私が一休みしてからのゴールだった。両膝頭から擦り傷の血が流れていてゴールで失神したのを思い出した。
15年くらい前、私は箱根駅伝ではいつも遊行寺の坂の頂上付近(8区)で観ているが、
早稲田の中村清監督が、ふらつく選手に水を与えるシーンを目の当たりで見たり、
背筋が震えるシーンを今年も何度も見せてもらった。
来季はまずシードだろうと思った名門中大は10区で多田選手が8位で受けたタスキを19位でのゴールだった。
本人の口惜しさは観客として涙する我々の比ではなかったであろう。
こうしてまた新しい箱根の歴史が残った。
活躍した選手にはもちろんだが、選手諸君の日ごろの鍛錬に敬意を表し、
そして当日変更で出場できなかった選手や親御さんの心情を思うと、その口惜しさ、辛さも目頭に涙がこもる。
今年もありがとう。
また来年も感動をください!
(株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦
CVS-Life, FSAVE