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桜と紙魚 (1)

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    桜と紙魚

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 満開に近い桜の下に似合う物リストの中に、枝からぶら下がった先が輪になったロープ、というのは無いだろう。似合おうが似合おまいが吊るしてしまった物は仕方が無い。あとは自分を吊るすだけだが、迂闊な事に踏み台を持ってきていなかった。月明かりの中、手頃な箱なり石なりあればいいのだがと辺りを見回すが、そんなにうまくある訳も無い。どうして最期にこんな場所を選んだのだろう。
 僕はいつも一人だった。僕の周りには、外から中へ入るだけの一方通行の膜があり、僕は必死にその外へ出ようともがいたがどうにもならなかった。
 まるで世界の中で、自分だけが別の世界から間違ってつれてこられたように感じる時があった。そんな事を考えていた時、他には一本の桜も無いというのに、春になれば山裾にぽつんと咲くこの桜を、僕は自分のアパートから見つけた。それ以来、ふと気づくと、この桜を自分の部屋から見ていた。そして、僕がこの世界を去る事を考えたとき、この桜の事が頭に浮かんだのだ。
 しばらく立ち止まっていたが、少し頭を振って、再び踏み台代わりになる物を探す。桜の幹の裏を見てみると、なぜだが地面にスコップが刺さっていた。
 これは踏み台にはならないな、なんでこんなところにこんな物が、と同時に思う。とりあえず手に取ろうとすると、その向こうに黒い人影が見えた。
「やあ、スコップが必要かい?あいにくそれはこれから僕が使うから、こっちの小さいのにしてくれないかな?」
まるで教室で筆箱を忘れた出来の悪い生徒に話しかけるように、その人影が喋った。右手には小さな移植ごてを持っているようだ。
「ロープの下に穴を掘って、その穴のふちから穴に落ちれば吊るされるって言うのは、悪くない考えだと思うけど、ちょっと手間がかかりすぎるよね。もう少し準備に時間をかけた方が君と僕との相互利益につながると思うよ。具体的には三日間待ってくれるとありがたいんだけれども」
僕の類型化された貧弱な反応パターンの中には、自殺直前にその方法についてに話しかけられたときのものはなかった。規定値《デフォルト》の反応は沈黙だ。
「ああ、この状況では不審に思うのも仕方が無いね。自己紹介、と言っても僕には紹介するほどの肩書きも無いし、この状況でそれが君の不信感を払拭《ふっしょく》する事もあり得ないだろうけど、とりあえず全くの無駄ではないってことには同意してくれるだろう?僕の名前は崎本《さきもと》仁志《ひとし》、歳は十七歳、世間的には高校生ってことになっているけど、ほとんど高校に行った事はない。病気でね、いわゆる不治の病ってやつだ。だからといって誤解しないでくれたまえ。僕は自分の寿命が長くないからと言って、他人が自分自身で寿命を縮める行為を否定するつもりは無いから。どんな人間にも、死ぬ権利ぐらいは与えるべきだと思っているからね。君に三日間、ここでその権利の行使に及ぶ事を延期してほしいというのは、純粋に僕と君の利益のため。要するに取引だね。」
 そう言って一歩前に出てくると、影になっていた顔が満ちかけた月の光に照らされる。
 暗いとはいえ、明らかに青白すぎる細い顔、肉付きが悪く長くみえる手足、それらをわざわざ強調するかのような、細身のブラックジーンズと黒のトレーナー。不治の病かどうかはともかく、病人であるという事は確かな事に思えた。こちらの自己紹介をすべきかと思ったが、すぐにそんな事に意味は無いとすぐ気づいた。なにせこれから死ぬのだ。何かに意味があるなら教えてほしい。
「君の自己紹介は聴けないようだね。いやいいよ。よしとしよう。確かにこれから死にゆく者に名前を尋ねるなんて愚の骨頂だね。失礼したよ。そう言う意味では僕の自己紹介だって滑稽だね。気づかなかったよ。『後悔先に立たず』だね。とりあえず君の事は『君』とだけ呼ぶ事にするよ。もっと適当な二人称があるなら言ってくれたまえ、僕の方には特にこだわりはないから。・・・・・・沈黙はこの場合肯定だね」
そう言うと崎本はもう一歩僕の方に近づく。よりいっそう陰影が濃くなったこけた頬が目を引く。
「では取引と行こうか。まずこちらの取引材料として次の二つを挙げるよ。最初にこの場所に来ていたと言う、既得権。もう一つはこちらが君に対して名前やその他一切の情報を要求しないし、ここであった事も他ではいっさい言及しないという沈黙の約束だ。自殺しようとして失敗するってのは、あまり宣伝したい事ではないだろう?この約束でその事は無かった事になる訳だ。要求としては、君がここで死ぬのは三日待ってほしいという事と、実はもう一つある」
そこで崎本は言葉をきった。
「三日後、僕の死体をここに埋めてほしい」


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