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桜と紙魚 (4)

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 次の日、同じ時間に桜の木の下に崎本はいなかった。しばらく待ったが、ただじりじりと満月が中天への道を上っていくだけだった。なぜだが僕はどうしても待つ事ができなくなり、崎本が指差した病院に向かって駆け出した。
 病院の前まで行くと、閉まった玄関の前で一人の女の人が立っていた。僕の姿を見ると少し驚いたようだった。僕は彼女に崎本と言う入院患者を訪ねたいという事を伝えた。
「聞いてるわ。ついてきて」
 彼女の後から、夜間通用口を通り三階の病室まで行くと、僕たちが部屋に入るのと入れ違うように、看護婦と医者が小さく会釈をして出て行った。そこには点滴と酸素吸入器をつけた崎本がいた。そして、ほとんど聞こえないような、くぐもった小さな声で言った。
「やあ……きっと来てくれると思っていたよ。まだ取引は有効なんだね。残念ながら、僕は行けそうにないよ。せっかく君にあれほど手伝ってもらったのに」
崎本は少し手を上げた。僕はその手を両手で持った。
「最期に二つお願いがあるんだ。ごめんよ、君には手間ばかりかけさせて 。一つは君の声を聞かせてくれないか。もう、君の顔がよく見えないんだ。だから君が確かにそこにいる事をもっと感じたいんだ」
僕は少し困ったように、さっき僕を連れてきてくれた女の人の方を向いた。
「…………仁志、彼は口がきけないんだよ」
彼女の手にはさっき僕が渡したメモがまだ握られていた。
崎本は少し目を見開いた。
「……そうか。……でも……君とは幾夜互いに語り明かしてもわかりあえないはずの事を……分かりあっている気がする」
しばらく吸入器の規則的な音だけが聞こえた。
「もう一つは」
 崎本は自分の手の中にある、一冊の古びた文庫本を差し出した。それから視線を戻すと彼は少し笑っていた。それで十分だった。
 僕は文庫本を手に取ると、後も見ずに病室を飛び出した。
 桜の木の下に着いたとき、満月は最高点までの道のりを後少ししか残していなかった。
 僕は腰まである穴に入り、落ち葉を掻き出し、シャベルと移植ごてとロープを取り出した。代わりに病室から持ってきた文庫本を穴の底に、静かに寝かせた。その上から土をかぶせる。かなりの量があったが、服が汚れるのも構わず死にものぐるいでシャベルをふるった。埋め終わる頃には、月は最高点に達していた。
 風が吹き、一瞬視界が青白くなるほど桜が舞った。
 再び走って病院に戻ると、またあの女性が待っていた。そのまま走って病室に行こうとした僕の肩をつかんで、彼女はやさしく、寂しそうに言った。
「もういいの。もうあの子のために走らなくてもいいの」
 彼女に支えられるように歩いて、病室に着くと、崎本はまるで窓の外を見るように首を傾け、静かに死んでいた。
 その側に行くと、僕の体から、一枚の桜の花びらが舞い、彼の胸の上に落ちた。
 僕はベッドに寄りかかるようにひざまずき、泣いた。

 あれからちょうど一年経った。僕はまだ生きていた。
 言葉では伝えられない事をわかり合えた友達を見舞うために、今年もこの桜の下に来た。
 月は欠けかけで桜は今にも散ってしまいそうだった。
 少し強い風が吹いた。
 あのときのように桜が舞った。
 


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