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桜と紙魚 (2)

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 おだやかな風が吹き、満開に近い桜の枝から花びらが数枚離れ、少し飛んで地面に落ちる。
「ここからだと君の顔はよく見えないんだが、多分驚いてるんだろうね。そうだね、君には理由を知る権利がある。取引はすべての条件を相互に認識し合うのが前提だし、僕が君に依頼している事は、『死体遺棄』っていう立派な犯罪でもある。こんな事は今から死ぬつもりの君にしか頼めないよ。何せ死人は捕まる心配は無いんだから」
 そう言うと彼はスコップに手を伸ばし、自分の方に引き寄せてもたれかかった。
「君にとって世界は美しいかい?僕にとっては悲しいほど美しいね。銀と赤の海に沈む夕日、霧雨の中の蒼《あお》い銀杏《いちょう》、そして白い月の下の桜。ほとんど外に出る事のかなわなかった僕が、それらを見たとき、どんなに美しいと、悲しいと思ったか分かってもらえるかな?」
僕は静かに崎本の顔を見つめた。
「僕は美しい世界の中の、ちっぽけな病室の中で生きてきた。人につれられて何度か外に出る事もあったが、自分で世界との接点を保てる事と言えば、本を読む事ぐらいだ。それぐらいしかなかった。もうどこまで自分なのか、本なのか区別がつかないくらい、僕と本は一体となっているのさ。僕はね、時々自分が紙魚《しみ》になったような気がするのだよ。世界という図書館の、病院という書庫の、病室と言う書棚の本に巣食う小さな虫だ」
そして彼は、僕たちのいる山から、少し離れたところにある病院を指差し、あそこの三階だよ、ここはあそこからよく見える、と言った。
「そんな紙魚にもね、世界を飛び出す機会がちゃんとやってくるんだ。それは死だ。どんな物をも超越する、そして僕に唯一許された行く先の無い通過儀礼さ」
立っているのもつらいのか、彼はさらにスコップに体重をかける。しかし声の力はさらに増したように思えた。
「その、最初にして最後の通過儀礼には、当然、最高にして至高の、古人の羨《うらや》むような舞台設定が必要なのだよ。そしてそれが今、目の前にある!」
崎本は少し呼吸を整えるかのように、少し目を閉じた。
「君は西行を知っているかい?知っているようだね。では当然この歌も知っているだろう?」

 願わくば 花の下にて春死なむ
   その如月《きさらぎ》の望月《もちづき》の頃

 とても病人とは思えない、凛《りん》とした声で詠《うた》った。
「意味も知っているだろう?春、満月の下、桜が満開の中で死にたいという事さ。でもね、これはすごく難しい事なんだよ。桜が満開なのは長くて三日ぐらい、そして満月はおよそ三十日に一回だ。単純に考えても重なるのは十年に一度、しかもそのときに寿命が尽きなければならない。そして今だ。後三日で満月、桜は八分咲き、気象庁はこの三日間の晴天と、三日後の満開がまず間違いないと言っている。そのうえ僕の命は尽きかけている。こんな偶然が、偶然であってたまるものか。世界が僕の最期のために最高の舞台を用意してくれたと考えて、何が悪い。そして僕の体を桜に喰わせて僕自身はこの図書館から外に出て行くのさ」
そして右手を差し出した。
「さて、この取引を受けてここに穴を掘って僕を埋めてくれるなら、この手を握ってくれたまえ。僕のために最高の舞台を用意してくれないか」
僕はまるで自分が手を差し出せば、鏡の中の自分が手を差し出さねばならぬように、彼の手を握っていた。
「ありがとう」
崎本は言った。
 その後は穴を掘ると言う単純労働だ。最初のうちは崎本がシャベルを、僕が移植ごてを使っていたが、やがて見かねて僕がシャベルを使う事にした。崎本は少し残念そうだった。穴を掘る間も崎本は喋り続けた。病院からの脱出法やここまでの近道、この、山裾《やますそ》の一本だけ取り残されたようにある桜が、いかに自分の病室からよく見えるかという事。僕はそれを聴きながら、黙々と穴を掘った。取引のせいか、単に興味が無かったのか、崎本は僕の事については何もきかなかった。自分を表現する事ほど苦手な事が無い僕には、それが何よりありがたかった。
 やがて穴は膝よりは浅いぐらいの深さにまでなった。崎本は時計を見て少し慌てた。
「もうそろそろ夜の見回りの時間だ。帰ってベッドにいないと面倒な事になる。今日はここまでにしよう。なに、後二日ある。それに最終日は病院にいない事が見つかっても構わないんだから、今日よりもずっと時間が取れる。これで十分さ」
そして僕たちはシャベルと移植ごてと首吊り用ロープを穴に入れて、落ち葉で隠し、明日同じ時間にここに来る事を約束して別れた。


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