嘉彦エッセイ


第53話(2008年11月掲載)


          



『付和雷同』


 昔「荒野の七人」と言う名作の西部劇があった。そもそも私は西部劇が好きで、しばしば高校生のころから西部劇を見にいっていた。この映画は、黒沢作品にあった「七人の侍」の西部劇編だそうだが、スティーブ・マックイーンのあの演技、ユル・ブリンナーのニヒルさ、ジェームス・コバーンのあのナイフさばき、名前を思い出すだけでゾクゾクしてしまう。

何の西部劇を見てもそうだが、劇場から出てくると両手は二丁拳銃をいつでも抜けるような格好で歩いてしまう。ナイフをスッと投げられる態勢を整えながら歩いてしまう。このエッセイーの読者もそんな経験がお在りではありませんか。ヤクザ映画を見て劇場を後にしたときなど、チンピラがよって来たら、胸元から匕首を取りだすしぐさや、キックや空手、あげくの果ては拳銃でバキューンと・・・・そんな気分で歩いてしまう。人間の心理はとかく感化を受けやすい要素を持っているものだ、とつくづく感じるものである。

 千代大海が師匠である千代の富士の塩の蒔き方と同じしぐさをする。左手でまわしをしっかりつかみ、右手で大きく塩を蒔く。小柄な千代の富士が大きく見えたものだ。千代大海は師匠が目標で憧れの人であったのでしょう、何から何まできっと真似て、少しでも師匠に近づこうとしたのではないか。

私もサラリーマン時代に尊敬する上司の歩き方から、手をポケットに入れるしぐさや、咳払いまで真似た。その人になりきろうとしたことがある。今考えると極端であった部分は除くにしても、その人に成り切ることは少しでもその人に近付くような気がする。

 コンサルタントという職業を選び、多くのお会社を訪問させていただいて分かったことは、その企業や関与する人が、指導内容や思想に如何に感化されるか、その感化の度合いでその企業の変化のスピードが変わることが分かった。資料だけコピーして同じくしている企業もあるがそれではいけない。仕草まで真似るくらいになると企業は変われるのである。

よいことを真似ることは進歩の一歩目だ。あこがれの姿や目標・ターゲットは、しぐさ、歩き方、文字の書き方、何でも真似ればよい、クセまで真似る程カブレたら良い。人が何を言おうと真似たら良い。とことん真似て、あこがれになり切ってから、少しずつ自分を取り戻していく。そもそも模倣性とは人間が生まれ持った本性3つ(残り2つは探求性と連帯性)の内の一つだ。

おしゃれなどもそうだ、誰かが持っていたモノや来ていたもの、色、柄、いいなと思ったら真似てみる、そしてその中から少しずつ自分の個性を出してみる、自分を失わず、どこかにしっかり自分をもっておけば、良い事には大いにかぶれたら良い。しかし、最近奇怪な事件が良く起きる、親が子供を殺したり、無差別の殺人であったり、テレビや漫画の世界、ネットの世界で良く登場するシーンが現実の世界で真似られたり連鎖したりしているようだ。これはご免こうむりたいことだ。

そもそもタイトルの「付和雷同」とは、「一定の見識がなく、人の説にただわけもなく賛成すること」と辞書に書いてあった。この文章からはあまりWelcomeする定義ではないようだ。

しかし、少々真似乞食でも、悪いことをまねるのではなく憧れに近づくのなら良いではないか。少しはまって、憧れをまねていく。その気分で徐々に良いことを身に付けていく。

韓流ファン、ヨンさんのファンの方は、何をまねていらっしゃいますか。眼鏡の奥のあの微笑みをまねられたら、きっと女性でも持てるようになりますよ。さて、私は何を真似ようか・・・。



    (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE