嘉彦エッセイ |
第57話(2009年03月掲載)
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『校 歌』
先日、中学校の同級会が開かれた。恩師を慕い何年かに一度会っている仲間たち。45名のクラスで、亡くなった人が2名、音信不通が2名、今だ40名とは連絡が付き、都度多少のメンバーが変わっても同じような顔ぶれが今回も16名も集まった。卒業後約40年にしてはまずまずの出席率だと思う。
宴会場に入った途端、先に来ていたメンバーが年老いた風体で、顔も想像していた顔と異なり、一瞬間違った部屋に入ってしまったかと思うほどであったが、数分で40年前に戻って行った。彼らを年老いた風体と書いたが、何とみんなから私が最も爺臭いと言われて、自分の姿とはなかなか自分ではわからないものだと改めて教えられた次第だ。
宴もたけなわ、そろそろお開きを前にして、幹事の矢島君が校歌を歌おうとプリントした1枚のシートを配ってくれた。作詞は書道担当の沢野先生とも聞いた。
我が大野北中学で私たちは13期生、終戦間際に設立された中学校だ。そこで興味があるのは「書道担当」。大変申し訳ないが、アルバムをひも解かないと沢野先生の尊顔を思い出すことができないが、確か白髪の小柄な先生だった様に思う。書道担当が面白いではないか。そうか、そういう職種が当時はあったのだと感心させられた。(ちなみに私の中学時代は昭和32〜35年)
そして校歌を歌ってまたまた感動した。40年も経っているのに、みんなしっかり歌っていた。素晴らしいではないか。しっかり覚えていたのである。そして矢島君のプリントはまた新たな感動を呼んだ。戦後の混乱期に、恩師たちは私たち子供をどのように育てようか、夢を託し、考えあぐんだ末の作品、そしてそれが今日との時代の違いを如実に表している所が私には感動だった。
1.若草芽ぐむ 相模の野
朝日にはゆる 学びやに
つどいて高く 今日も歌えば
喜び胸に あふれつつ
強くやさしく われら生い立つ
これが一番、戦後復興期の頼りは、物資の何もない時代にあって、日々の自然、四季折々の美しい変化、とりわけ美しい新緑の若草であり朝日だったのですね。そういえば、相模原は本当に原でした。雑草も若草だったのです。そしてつどいてとあるように、みんなで手を差し伸べ合って(助け合って)明るく、歌を歌って強く生きよう。(ロシア民謡に「イギリス人は道具を使い、ロシア人は歌を歌う…」こんな歌があったことを思い出した)要は心の豊かさのみを必死に追及していたのですね。
2.はるかに雲の ゆくかなた
ま白き雪の 富士の影
仰ぎてともに 今日も学べば
理想に心 もえたちて
さとく正しく われらののびゆく
確かに校庭からは富士の頂が僅かに見えるロケーション。敗戦の中から希望を探すとしたらあの美しき富士山をおいてほかはなかったのでしょう。すべての国民が富士山をシンボルにして生きようと誓い合っていた。我が北中もそうだったのでしょう。そして、当時の理想とは何だったのかは分からないが、自分が創った理想を追って、さとく正しくと智をもって正しく生き抜こうと呼びかける。やはりああ戦後。
3.日に栄ゆく わが町に
あたらしき世を 開かんと
力合わせて 今日も励めば
のぞみ明るく わき出でて
清き光と われら輝く
幸あれ大野北中学
先生方は私たちにこのような(戦争と言う)苦しみを与えたくない。みんなで力合わせてこんなに苦しかった世界でない、新しい平和な世界を創ってくれ(実はこのエッセイをここまで書いたら涙がいっぱいになってしまって少し中断)のぞみさえしっかり持てば君たちはきっと幸せな世の中を作ることができるのだ。心清らかに輝いてくれ。教師の思いが改めてひしひしと伝わってまいりました。
何の変哲もないありきたりの校歌と思っていました。本当になぜか涙が止まらなかった。
今日のように、無差別の犯罪や、考えられない幼児虐待など聞きたくも見たくもない事件が起きている世の中。贅沢が、誤った自由が、誤ったエゴイズムがこのような世の中にしたのであろう。貧しくとも清く、明るくそして強く生きてくれ、集う力を携えて努力しあってくれ・・と、当時の指導者はその夢を私たちに託したのでした。
私たちはこの思いに応えているだろうか。もう一度振り返ってみようよ。
(株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦
CVS-Life, FSAVE