嘉彦エッセイ


第63話(2009年09月掲載)


          



『手抜き』


 私は、テレビのわいわいがやがや番組は好まないが、ニュースと「水戸黄門」と、スポーツ番組には目がない。更に興味がある番組は、実は「料理番組」。結構興味を持って食い付き、時折メモを取ったりする。「コックさん」なるメモ帳まで持っている。残念ながら昼間テレビを見る機会が乏しいため、最近はなかなか見ることができないが・・・。

 私は家庭生活の過程では料理をしたことがないが、山梨県の大泉にある小さな小屋での生活では、何度となく自分の手料理をお出でになられる方々に振る舞うことがある。料理に興味を持ったのは、料理には私の専門のVEに関係があり、特に創造性の部分は相当奥行きが深いからだ。味付けや材料の組み合わせは創造性の最たるものだ。

得意料理の一つに「肉じゃが」がある。

鍋に油をひき、にんにくを炒める。にんにくがキツネ色になって少し間を置き、柔らかい牛肉のコマ切れを炒める。程よく炒めた後、たっぷり濡らした雑巾の上にジューと音を立てながら置き、少し冷やす。そして、お湯を注ぎ、基本的な味付けに入る。醤油に味醂、お酒少々・・少し多目がおいしい。砂糖を入れて味を見る。時に七味やピリッコなどで隠し味を・・そしてジャガイモや白瀧、玉ねぎもおいしく味を出してくれる。人参なども具に加えると美味い味になる。程よい火加減で少し時間をかけて煮る。実はこれは特別凝った料理法ではなく、TVの料理教室で教える基本なのだ。素人の作品でも結構いけるもので、こうして仕込んでから、薪ストーブの上でコトコト煮込むと、更に玉ねぎの甘さが格別の味になったり、ピリッコがぐっと味を締めてくれたりする。

これを肴に“一杯”は至福のひと時。本文をお読み頂いている方々にも味が伝わってきたのではなかろうか。

 その昔、吉野家の牛丼の味が落ち、業績が最悪状態に陥ったことがある。伊藤忠がテコ入れをして、生え抜きのと、言うより現場たたき上げの阿部修二さんが社長に就いて、再建をした。その最大の手は、牛丼のたれを昔のように戻したのである。昔のようにとは、人気が落ちた当時の牛丼は、粉末の味付けのたれの元を、お湯で溶いて、牛肉の上に掛けていたのだそうだ。それを煮込んでしっかり味の出た牛とタレに戻して味を復活させたと聞く。

 私の“肉じゃが”も、実は本文にたっぷりとか、程よいとか、少し大目とか抽象的表現があるがここがコツでもあり、それぞれしっかり手を打って味を上げてくる。

 しかし、時に材料が十分でないこともある。にんにくがない、ピリ辛が切れている・・調達するには時間がない…でも来客は「美味い」と言って満足してくれる。シェフとしては「美味い」はこの上ない表現だ。…でも本当はもっと上手くできるんだよな…と心でつぶやきながら、この手抜きに慣れそうで怖い。本物の味を忘れそうだから。

山梨の家では料理だけではなく、大工さんも随分やった。サウナを付けたり、屋根裏をロフトにしたりする大がかりから、椅子やテーブル、サイドボードまで手作りで作った。その時に木を割らずに釘を打つには、あらかじめ小さな下穴をドリルで開けて、そして釘を打つ。ちょっと手を入れると失敗が少なく、素人にも成功の機会が回ってくるものだ。それを、「まっいいか」、と下穴を開けずに釘を打ち込んでは、材料を割ってしまう。何度も経験したが、またついやってしまう。「同じ失敗を繰り返すやつは馬鹿、あほ!」と自分に言い聞かせながらまたついやってしまう。どうにか繕うと今度は「まっ、上手く言った」と自己満足。本物の技を忘れそうで怖い。

肉じゃがの様な料理では手抜きかどうか比較は容易。もし隣の器にフルコースの本物があったら、とたんに手抜きがばれてしまうだろう。会社の技術もそうだ。製品のように比較できるものは多くのユーザーに比較されて、新聞や雑誌に書かれ、売れなくなる。比較されにくい製品や社内の技術は公でないので、味の知らない上司は適当にごまかすことができる。手抜きとはこんなものだ。

自分のことでは自分が責任をとるので自業自得。しかし、組織や企業の中ではその手抜きや失敗が即座に表に出てこない。失敗かどうかわからない。そして、リーマンショック後の世界不況に日本も巻き込まれたと、多くの企業の幹部が他責にしていたが、それは自分たちの手抜きを棚上げしているに過ぎない。私の趣味の世界の組織などでもそうだ。「(環境や経済問題で)スキー人口が減って組織が細くなっている」と他責にして、自分たちの味付けの手抜きや下穴をきっちり空ける作業を怠っていること無視してしまってる。確かに人口は減っているが成功しているスキー場や組織もある。基本を忘れていることが多い。

多くの場合、

*瞬間的には問題点が顕在化しないので看過してしまう。

*このくらいは良いだろう、のジリジリと後退する妥協。

*それが当たり前になり、癖になる。

*元に戻すには抵抗が大きい、大きなエネルギーも必要だ。

こうして手抜きがいつの間にかセオリー(標準)になって、代々伝わってしまう。また、手抜きした人は

 *それが“手抜き”とは認めない。“改善”とか“進化”と言う。

 *意地でも正当性を主張する・・が結果が答えを出す。

木工作業のように“割れ”がはっきり出てしまえば白旗を上げるだろうが、通常の業務ではなかなか結果が見えない。多少悪さが見えると言い訳に走る。・・・これが手抜きの人の姿だ。困ったものだ。

私はVEを教えることを生業にしている。いすゞ時代に(幹部のお許しも得て)“全員教育”を方針に掲げて、研修所で2泊3日のセミナーを80回以上行った。多分2500人以上の人が私の指導を受けたであろう。これは後のいすゞ再建のボディブローに効いたと自負している。その過程でCVSが10人も育った。

今もセミナーをお受けすると2泊3日を譲らない。世間では、2日間12時間で行っている初心者向けのセミナーを、私は何と30時間以上かけている。いすゞ時代から数えると既に120回を優に超えた。教え方が下手で夜る夜中まで掛けて、泊まりがけの研修をしているのかもしれない。

それでも先日、「洗練化」と言う最終工程に近い欠点克服工程、品質保証をする場面。通常(の業務でも)手抜きをする工程(だから日本商品の品質が落ちてきているのだと私は言い切るが)、受講生たちはセミナーの中で真剣に取り組んで、品質を上げる対策を講じたら、何と原型と異なる提案品に変わっていったことがあった。改めて、世間に負けずに2泊3日を貫いていることに自信と誇りを感じた。受講した人たちにもしっかり体験してもらえた。彼らには手抜きだったか本物だったか分からない、がこの体験は後で必ず効いてくる。これが教育だ。

我々が設計するものでなぜこのような工程を踏まないのか、いつもセミナーや講演で話をしているが、手を抜かずしっかり教えること、学ぶこと、実践することが如何に重要かを改めて体験した。

日本商品が競争力を失いつつあることは既にご案内のとおり。品質も、その昔世界ダントツが今や並み。コストも決して安くなく、みんなBRICsに流れてしまう。

VEと言う素晴らしい手法も、報告会はカッコ良いが、世間の企業で本質的な効果が乏しいのも事実。いずれも、ものつくりやVEプロセスの基本を怠って(手抜き)の顛末だ。トヨタまでひっくり返ったと「日経ものつくり」誌7月号の私のコラムで訴えたが、その際も、トヨタでさえものつくりの基本(掟)を破った顛末だと書いた。じりじりと昔の「牛丼」しているような気がする。

手抜きせずに、にんにくはキツネ色になるまで炒る。下穴をしっかり明け、接着剤を塗布しながら釘を打つ。業務プロセスも手抜きせず、少し時間をかけてもきっちりやる。そこで僅かな時間を稼いで、結果、やり直しや信用失墜するくらいだったら、しっかりやった方が良いでしょ。

サラリーマン、停年まで8000日は働くのです。いろいろな組織も一緒。手抜かずに、良い仕事で満足を大きくしませんか。

じゃがいもに白瀧…じっくり味が染みて来ましたよ。さあ、もう一杯いかが!

    (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE