嘉彦エッセイ


第64話(2009年10月掲載)


          



『歳を取る』


 私は9月生まれで、先月65歳になった。65歳とは色々身の回りに変化が生じることが分かった。断ったが「老人会に入らないか」。介護保険に加入できると案内が来た。年金は満額もらえる年齢条件に達した。JRでは、「大人の休日倶楽部」に入れる(これは美味しい。何と30%引きになるのだから)。まだスキーシーズンになっていないが、“スキー場に行くとリフト代も大幅に割り引き”になるのであろう。・・・一生懸命特典を探して、ご利益を蒙りたいと願うところだ。

 しかし、誕生日を境にこのような特典の世界に入るのであるが、外観はとっくから65歳の人もいれば、まだまだ50代前半に見える人もいる。外観では分からない。

 本人の実感は、特典のご利益を受けたり、健康面で「やはり年だな・・・」と思う現象に遭遇したり、孫ができ「じぃじぃ」と呼ばれたり、したときに実感が伴う。

 先日(65になる前に]、電車の中で席を譲られた。結構の年配の方にである。それも何と同じ日に立て続けに。これはショックだった。「えっ、俺ってそんなにじじいなの???」体感的老人の姿だ。

 体感的老人を感じるのはいろいろある。確かに身体的には、髪が薄くなって寂しい思いをしたり、耳が聞きにくくなったり、歩くスピードが落ちたり、いつの間にかの現象が身の回りに表れ、更に“以前はこんなの軽く持ち上がったのに・・・”これはよくある。会話の最中に“単語、特に人の名前が出てこない”これも歳を取った証拠なのだろう。“睡眠不足が応えた”り、いろいろあるものだ。

 ここで大事なことは、「年よりにならないこと」だ。自分で自分を年寄りにしていることが多い。確かに落ちた力は現象にあっても、「そういえばこの頃力作業をしていないから」・・と少し鍛えてみるとか、歩くのが遅ければ速く歩いてみる訓練をしたり、気持ちと身体の切り替えをしなくてはどんどんじじいになって行ってしまう。決して自分から引いてはいけない。

この考え方は何も年寄りの話だけではない。いろいろな組織(私のようにアマチュアスポーツを推進していたり)や仕事でもしかり。自分の立場がどうであろうと、まだまだ自分でやってみようと思うと、時に年の功が昂じて良い出力に繋がったり、再発見することがあったりする。スポーツなどでは力から技に転じて一種の成長につながることさえある。要は、諦めは何事もいけない。病に伏しても次の挑戦を夢見ると元気が出る。仕事で力尽きそうな時にも同様だ。これができる人を「前向き」と言う。

文体にお気づきかもしれないが前半は段々落ち込んでいく佐藤を表していたが、前向きを書いていくうちにやはり元気が出てきた。モノの見方で考えまで変わる。まだまだの部分も沢山あることに気づいた。気力はしっかりやる気満々だし、仕事はバリバリ続いているし(傍目では「いやお歳ですよ」とみられているのかもしれないが)そう、捨てたものではない。夢もたくさん持ち続けている。“あそこに行こう”と計画はたくさん続いているし、現に富士山の周囲を1年で一周するサークルに入って歩き始め、決して周囲に引けを取らずまだまだ、しっかり歩けている。来月は京都の紅葉を3日間も見る。元気だ。

先日、VE関連で西日本の大会【広島】で講演をした(今月号のニュースで紹介)私の前に、随分薫陶を受けた土屋先生が講演され、先生がいまだ技術の研究されていることを話題にして、「本来我々若い者があの研究に挑まねばならないのに、先生に越されてしまった」と話をした。自然に自分を“若い者”と言って、心の中で「おっと!」と言った。いいんだ、先生から比べれば若輩だし挑戦者なのだから自然に沿ってそういえば良いのだ・・。まだ若僧!元気出しますよ。

今月はエッセイを休もうと思った。なぜならば先月“力作”を書いた。大事な警告も含めた。「継続」で2ヶ月続けようかと思った。ここまでお読み頂いた方でまだ先月のエッセイ「手抜き」をお読みでない方はぜひご一読を・・。


    (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE