嘉彦エッセイ


第73話(2010年07月掲載)


          



『ものづくりの感動』


  昭和46年6月私はガルーダ株式会社に出向した。元々いすゞ自動車の中で、私もメンバーの一人に加わり、前年からいすゞ活性化策の一端として “いすゞのエンジンをいかに活用するか” の検討の中からマリン事業に目を向け、検討が進められ、モーターボートの製造販売をする会社を4社の合弁で設立した。多くのメンバーは4月1日付で出向したが、設立した合弁会社といすゞとの関係を整理したり、残務があって私は2カ月遅れで出向した。工場は厚木市にある丸全昭和運輸の倉庫の一角を借りて、合弁相手の三井東圧の北海道は砂川の事業所から来られたメンバーと組んで本格的にボート作りに挑んだ。

 直採の社員、三井東圧の社員、いすゞの社員で構成された組織、ほとんど経験者のいないFRPの事業は、モーターボートをかつて造っていた会社から移籍してきた方々(いすゞ籍)の指導と、デザイナーのセンスで、一躍世間の注目を浴びるようになった。しかし内部では出身会社の閥や、待遇や、きつい仕事でギスギスした雰囲気、私は27歳にして工場のNo.2のポジションに処せられ、仕事も難解の生産管理や購買業務と言う初めての業務、経験者がいない、すべてが挑戦。新婚早々でいすゞは週休2日で土曜日はいすゞに勤める家内をつれて出勤し、伝票処理などを手伝わせたり、実は夏休みにトラブルがあって、修理に飛んだことから、日曜含め6ヶ月間1日も休まず働いた経験が当時あった。

手が回らない中で、日程通り進まなければ、FRPを自らハンドレイアップしたり脱型の応援をした。道具の洗浄なども良くやった。毎日毎日、身体は粉砕したガラスウールでチクチクしていた。本業も難しかったがこれは何とかこなしていたが、最も大変だったのは各出身社員の待遇問題。何せ27歳の管理者は会社側で、通勤や寮の待遇など、心労は日々増していた。そうこうするうちについに1号車いや1号艇が完成し谷口運送のトラックで出荷をする時が来た。緑の船体の15Ft、真っ赤な船体の16Ftがトラックに積まれ、トラックが丸全昭和の門を出ていくときに(実は今この文を書きながらも、思い出して)涙が止まらなかった。「俺たちで造った!会社も船も心も・・!」涙が止まらなかった。

 コンサルタントに転じてある造船所に出向いた。記憶にまだ新しい方もいらっしゃると思うが、建造中の豪華客船が無残に焼け落ちた姿に遭遇した。丹精込めて造ってきた人たちにはさぞかし悔しかっただろう、火の中に飛び込んで自分の手で消火したかっただろう、3日も燃え続けたその間の悔しさはいかほどだったであろうか、と、船の前のビルの屋上から、自分まで悔しくなって涙が出た。

 同じ会社の別の造船所で、新船の進水式に招かれ、セレモニーに参加した。夏の暑い日だった。私の席はとても良い席で、来客席の中央だったが庇はなく、夏の暑い日は容赦なく照りつけていた。近隣の学校から生徒たちも招かれ、最近は珍しくなったとのことだが、何という方式か名称は忘れたが、昔ながらにくす玉を割って船体が船台上を滑って行く方式の進水式だった。

楽隊が前奏して君が代をみんなで歌った。私は一生懸命歌った。後でH副所長が「佐藤さん、大きな声で歌っていましたね」と話しかけた。実は歌っていたのは数少なく、私の声は多くの人の耳に入っていたようだ。私は一生懸命作った船が、日本の技術が、誇り高き技術がこの大型フェリー木曽号(今も大洗―苫小牧を往復している)を造ったのだ。誇りを持って君が代を唱じた。そして船が滑って行くときの感動は頂点に達し、身体が震えた。感動した。

良い経験をさせていただいたと今も感謝している。

いすゞ時代にモノ作りの現場が好きで、度々社内のいろいろな現場や取り引き先企業を回り、50歳になるときには国内800工場(何回行っても同じ工場は1でカウント)海外200工場を回っていた。今も仕事柄多くの工場や事業所を回っている。

特に真っ赤になった鉄を見ると身震いした。鋳造で溶解した鉄が正に湯水のごとく流れるそれは感動で“男職場”だと身震いする。鍛造で真っ赤に熱した素材がハンマーで叩かれ、形が変わっていくその姿に、何度も何度もぞくぞくした。

最近の話だが、船のプロペラを造る現場での出来事、30トンものニッケルアルミ青銅が電気炉から大型の取りべに移される。あのドクドクと流れる赤銅色の材料が、きびきびと連携する作業者の手で移されていく様、そしてその取りべから鋳型に注湯される様は、作業者たちの快い連携とともに、最近感じた久々のもの作りの感動だった。日本にまだまだ素晴らしいもの作りがある。

大変だから、つらいから、海外の労務費が安いから・・・色々な近視眼の要件で日本からモノ作りが海外にシフトしている。国内で作るモノはと言えば、人間様に頼らずロボットと言う機械人間がモノを作る。匠の世界が消えてしまいつつある。私が入社したころの試作車は、匠の世界の板金工が鉄板を叩いて造ったものだ。ピカピカの117クーペが今でも脳裏に残る。

日本は資源がない。土や岩石や油の様な原料を買ってきて、金属にしたり色々な材料に変換して、付加価値を付けお金を頂き、それを形にして更に価値を上げ、それを売って商いをしてきた「日本工業(株)」のはず。それがどんどんモノづくりから離れて行って、20年前に世界に冠たる工業国だった日本が、今や13位とか、15位とか言われている。モノ作りに喜びを感じないのだろうか、感動しないのだろうか。せっかくの世界一の品質大国のタイトルも既に放棄している。モノづくりに愛着を持つ人が少なくなって、とても悲しい、寂しい。

もう一度モノづくりに震えたいものだ。

数年前、自分で作ったサイドボードを紹介して今月は締めくくりたい。

実質4日ほどかかった(構想や設計を入れればもっと、もっと)が、出来上がって、ドアーが少々閉まり難くても、満足度は買ってきたものとは大いに違った。商いでは閉まり難くては困るが、モノづくりの喜びは同じだと思う。いかがでしょうか・・・。

(ちなみに中央の籠とドアーの取手や丁番、硝子は市販品)



    (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE