嘉彦エッセイ


第77話(2010年11月掲載)


           



『危機対応』



 私は、スキーを始めて、早々に夢中になったことがある。勿論一番力を入れたのは、スキー技術をしっかり身につけることであったが、併せて組織のリーダーになりだした頃、夢中になったことに傷害防止対策があった。

 そのころ、スキー用具が大きく変化した時代で、スキーの締め具が転倒時に開放する様な形式に変わって行った時期だった。

それ以前は、ラグリーメンとかカンダーハとか言われるもので、前者はぐるぐると靴紐で靴をスキーに縛り付ける形式だが、これには私は経験がない。後者は何年か愛用した。つま先にストッパーがあって、かかとに掛けたワイヤーをトグル式に前に引いて靴を固定したが、私のスキー歴ではこれも僅かな期間で、すぐに「ホープマーカー」と言う、つま先も、踵も衝撃を受けると外れる形式の物が大ヒットしてけが人が随分少なくなった。それでも毎年結構の数の人が骨折などに見舞われた。私と家内を結び付けて頂いた恩人も、その洗礼を受けてしまったことがある。

 楽しいはずのスキーが怪我などの不幸に遭遇して、仕事や家庭生活に影響を与えてはならない。自分自身が楽しむはずのことが不幸になってはならないと、スキー障害防止に随分のめり込んで取り組んだ。日赤の救急員の資格を取ったり、スキー連盟公認のパトロールの資格も取得した(1972年)神奈川県スキー連盟の障害防止対策委員長を長く歴任したり、全日本スキー連盟の障害防止対策委員も何年も務めた。「スキーと安全」なる本も編纂に加わった。そして多くの人に巡り合えた。良い経験だった。

 事実何度かスキー事故にも遭遇した。スキー協会の行事で出してしまった骨折者や、自分のクラブ内での事故者にも何回か対応した。裁判沙汰にまで発展しそうなこともあった。小学生の娘と五竜とおみのスキー場で滑っていて、スキー場にある沢に転落、気絶した人を発見、救出なども体験した。これが前段の話である。

 先日、出張から帰って来て、新横浜の横浜線のホームで、間もなく来る電車を待っていた。あと3分ほどで到着するというタイミングで、ある乗客がホームに転落した。悲鳴を聞いてすぐ5mほどの所に転落し動かない乗客を見た。とっさに、緊急ボタンを一生懸命探して見るが、ボタンが見つからない。他の乗客が、ボタンを押してくれた。何と自分が待っていたすぐ後ろの柱の上にあるではないか。慌てる自分の姿が恥ずかしかった。冷静さがない。

若者二人がホームに飛び降りる。身動きしない転落者を、ホーム反対側の線路のわきに運ぶ、電車は緊急ボタンで止まる保証はない状況下で。駅員が飛んでくる。彼らは線路に飛び降りることはしない。2人も来たが、管理者らしい、防止に線の入った人は来ない。一人はホームに残り、一人はホームから立ち去る(どうやら救急車を呼びに行ったようだ。)残った一人はホームに立っていたが何もしない。そのうち消えた。

 ホーム横に避難した転落者のところに、中年の人が線路に飛び降り近づく。どうやら医療経験のある方らしく、寝かせ方を直し、すぐ脈を取っていた。私は何もしていない。ただ何かをしたいと思うが、何をして良いのか思考が止まっている。寝かせ方や脈の取り方は訓練をその昔受けた。でも何も記憶は蘇らず、ただオロオロしているのみ。電車を止めに走ることさえしない。ボタンを押したから電車は止まる保証などない。

 救急車が来た。線路を囲む金網の一角に扉があったが、駅員は開けようとはしない。救急員は金網を飛び越え、担架を金網越しに運び込む。まだ扉は鍵が掛かったままだ。先ほどの脈を取っていた人は、救急員とさっと入れ替わり、ホームに登り、そそくさと消えた。駅員と佐藤は何もしない。扉が開かないから、担架はホームにかつぎ揚げられ、階段を上って救急車に。

 間もなくして電車が入ってきた。佐藤は脈を取っている人にホームから、「何か手伝うことは無いですか」と叫んだだけでそれ以外何もできなかったことが情けなく、悔しかった。あの青年時代の訓練は何であったか。偉そうに事故に遭遇したら、まず患者を安静にし、呼吸のしやすい状態に寝かせて保温をしろ、すぐに救急パトロールを手配して、その間に状況に応じた対処の仕方を何度となく訓示したのは誰だったのか。あー情けなかった。

 敢えて書くが、JRの人たちも管理者が来るでもなく、全く何もしなかった。これもひどかった。救急車を呼んだだけ。転倒者はどうなったかその後は不詳だが、もし九死に一生の救助であったら・・・その青年の行為は世間の感動を呼ぶ勇気と対応であった事になるし、脈を取った中年の方も同様だ。駅員はその把握さえしないでホームで救急車が来るのを立って待つのみだった。JRはそんな緊急時の訓練をしていないのだろうか。それでももっと不幸な結果になったら「遣るべきことをやった」と言うのだろうと、考えながら淵野辺まで、電車に揺られた。

それよりも何よりも自分が何もできなかったことが最も憂鬱にしていたのは事実だ。情けなかった。そして記憶がよぎった。約10年ほど前、凍りついた北陸道で自爆事故をした時のことを。高速道路に横向きに停車している自分の車、呆然と道路に立ち尽くす自分。発煙筒を炊くでもなく、走ってくる車を制止するでもなく、何もできなかった自分・・・そしてどうしたら良いか分からずに車になぜか乗った自分。そこに1台のバンが飛びこんで…2次災害を興した。人にはいろいろ分かったことを偉そうに言うが、所詮当事者は何もできないものだと、悔しいかな体験してしまった。

さあ、これから来るであろうとされている大地震や、あの眼の中に入れても痛くない孫たちに、もしものことがあったら・・・何ができるのか。もう一度冷静にいろいろなケースへの対応策をシュミレーションして、イメージトレーニングだけでもしておかねば・・・と思った。



    (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE