嘉彦エッセイ


第79話(2011年01月掲載)


           



『比較分析』

  人間の満足感の多くは「何かと比較した結果」によるものである。私の十八番の技術はライバル商品とベンチマークやテアダウンで比較分析して、問題を見つけたり、改善策を思考したりする技術だ。どの様なライバル(Competitor)と比較するかで、問題が浮上したり満足感に浸ったりする。要は比較相手で評価が変わるのである。

人生の中でも自分の家を新築した・・こんな時には抱えるローンの悩みより新しい家、自分の家、これが今までの古い家や借家などの環境との大きな変化が、おおきな満足を与え、元気をもたらしてくれる。

また一仕事を終えて満足しているのは、その直前までの追い込まれた心理と、終了した心理の差による所が大であり、その度合いは自分自身の努力感や、テーマの大きさにもよるが、時に他の人の実績や過去の自分の実績に比べてどうであったかによっても満足感の度合いが変わってくる。

いずれも何らかの比較するものがあり、比較する基準が存在している。その基準に対しての度合いの大きさによって評価(満足感)が異なるのである。

宮本武蔵のように、評価基準を遥か彼方に置いて自己鍛練を続けた人はどんな満足感を得ていたのであろうか。きっと満足しない、だから再び挑戦をし続ける。ノーベル賞を取った程の作家や芸術家も武蔵のように理想を追い続け、これでもか、これでもかと挑戦を続ける。満足を得られず、自己嫌悪に陥り、自ずから命を断った人は少なからず記憶にあるものである。

我々凡人は武蔵や芸術家のようには行かない。またあるところで自己満足を感じられなければ根は尽き果ててしまうし、毎日が真っ暗になり生活していられなくなる。何か小さくとも満足を得ては次の挑戦をする、これが常に行える人を「前向きの人」と呼んだりもする。逆に結構自己満足に酔いしれやすい人もいる。はたから見るとさしたることでもないのに、自己満足に酔っている。自分で不満を感じても、「まっ、良いか・・」と無理矢理満足の世界に置いてしまう幸せな人もいる。本人は満足しているので至極幸せなのである。何が原因でこのような差が生じるのであろうか。

答えは評価基準の置き方にあるのではないか。

この『評価基準』なかなか曲者で、人間の生活を明るく、自信満々にしてくれたり、時には暗くしたり、絶望に陥らせてみたり、喜怒哀楽の大きな要因であるのである。この基準をどこに置くかでその差が現れるものである。短気な人、我慢強い人、これらも心の中の基準の置き方の違いである。

何でも自己満足をしてしまう人がいる。これは平和で明るいがあまり進歩しないタイプでもある。でも今日、このような性格が受けるし、誰からも愛される人でもある。このような人は一般的に自分に都合の良いところに基準をいつでも動かせられる人、とても羨ましい性格の持ち主でもある。

文明もここまで発達したし、生活も決して貧しいとは思わないし、いまさら争ったって・・・・と考えると基準を一歩手前に引いて、みんなでニコニコ明るく過ごす方が良いかと言うことになる。

このような事を考えていると、何か日本人を象徴しているような気がしてならない。現に、産経新聞が自分を元気づける言葉のランキングをある日の新聞が報じた。

①「なるようになる、なるようにしかならない」

②「まあいいか、気にしない」

③「人は人、自分は自分」

④「明日は明日の風が吹く」(明日があるさ)

⑤「時間が解決してくれる」 6位以下もご紹介したいがいずれも闘争的に自分の願望を求めていない。比較する基準が目標ではなく、今現在の平和なのだ。

外国に何言われても抵抗もできずにいる外交。尖閣列島や北方四島等好きなように領土が奪われそうに、もしくは帰ってこないことになっても政治家も国民もさして怒らない。中国だったら暴動だ。手の施しようがないから諦めているのかもしれないが、尖閣列島など船をぶつけた国が逆にデモや暴動まで起こしている。日本国内で伝えられる国際問題の基準が、その国では大きく異なって伝わるから暴動にまでなるのだろうか、基準の違いか、平和ボケの違いか・・。

最近の不況(リーマンショックから円高)で企業にとっては相当大きなダメージを受けた。経営者たちは必死に(決算の)数字を良くしよう、いろいろな対策を打つ。ある程度数字が出てほっとする。この繰り返しで会社はなっているが、最近の対策はどうも怪しい対策が多くみられる。少なくも不況時に比べてこれだけ回復したなど何も役に立たない数字(基準)でホッとしているから困るのだ。前年比=前年がリーマンショックで悪すぎた。その数字が基準だ。これをバブル期と比較したら・・もう諦めてしまって比較する気力もない。あの当時の日経平均株価は4万円を超えたが、今は1万円を前後して資産価値が4分の1に落ちていても悪い時(不況時)基準だ。

派遣社員を切ったり(そこで失業者が増えているのを忘れて)、賃金をカットしたり(そこで生活が追い込まれ始めているのを忘れて)…。企業体質がしっかり変わって来ているなら満足して良いが、そうでない数字に満足してはならないのに、ホッとしているのは一種の満足。これも評価基準の違いから起きる現象ではないか。今の企業の実力、ものづくり力は世界的には10位以下に落ちていると報道されている。世界一のモノづくりの国の次代からすると、明らかに基準がずれたのである。

私の所属するスキー連盟でも会員減少に歯止めが掛からない。数字を見て皆で困った、困ったと言い合っているが具体的な策が講じられない。今年も前年比800人は減った・・・。前年が基準ではない。発展を考えるなら、最盛期を評価基準にしなければならない。最盛期は8000人超、今は5000人を切りそうなのだ。責任は社会・・・と他責にしても自分たちには何にもならないのに、責任回避で社会的責任の様に言っている。こんな呑気なことを書いていてはいけないのが私の立場であるが、自分自身でも手をこまねいている。それでも既にシーズン到来でいろいろな行事が、少しずつ規模が変わっても行われることに満足をしてしまって、本質的な問題解決に立ち向かっていない(私は重要な責任のある立場であるにも関わらず、だ)アマチュア団体であるから「お疲れ様、よく頑張って行事運営してくれたね」癒す言葉で役員も自分も満足して帰路に着く・・・良く考えると段々恐ろしくなってくる。

今のまま行くと組織は成り立たなくなってしまうかもしれない。会社も組織も縮小均衡の選択肢を選ばざるを得なくなるかもしれない。しかし、今の社会では、具体的に組織がそうなってしまう迄、企業もアマチュア団体も、他人事の様に何とかなるのでは無いの?とノン気を決め込んでいたりする。就職の決まらない卒業間近の大学生が4割近くと聞く。それでも飯くらい食えるだろうと目論む。社会問題にもならない。リーマンショックの際の失業者が日比谷公園で炊き出しのおにぎりを頬張る映像、3ヶ月もしたらもう誰も問題視しない。

1億2千万人平和ボケと言われるが、みんなで基準を少しづつ手前に引いて来てしまっているのである。責任感まで甘くなってしまっている。

技術力、組織力、意識、体力・・・どこに基準を置いて危機感を感じ、対策するモチベーションを上げるのか・・・。

いやいや、他人のことを言ってはいられない。自分の基準は果たしてどのくらい手前に来ているだろうか。それを評価する『評価基準』は無いものだろうか。こうしてまた今日も平和に終わるのだが・・・。あぁ恐ろしや、恐ろしや。


年初めのエッセイが暗くなりました。すみません。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。



    (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE