嘉彦エッセイ


第91話(2012年01月掲載)


          



『大震災の被災地で思う』


 新年おめでとうございます。このコラム、今年もお付き合いいただき感謝を申し上げます。またこの1年も好き気ままに書き綴っていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

昨年は何と言っても最大のニュース・ショック・打撃・・・それは言葉が尽きない「大震災」。そしてその関連から津波の被害を蒙った原発が、311日以降ニュースを独占し続けました。

何を聞いても、どんな映像を見ても、毎日、毎日涙し、支援の手が遅いことや、的を得ない支援、学者や政治家の勝手な発言に腹を立て、業を煮やしていました。
震災の日2時46分、私は新潟県燕市であの激震を感じました。中越沖地震の際は柏崎の震源地から10Km位のところで遭遇しましたが、それよりわずかに緩い、しかしすごい揺れを感じました。
震源地から300Kmも離れた地点ですから、当然のことですが、まさかあの地震があの大災害をもたらすとは、その瞬間思いもよらぬことでした。

勿論新潟県燕市での仕事は中断し、私はこれほどのことになるとは思わず、翌日から始まる神奈川県のスキー選手権会場に向かい、途中在京の副会長と連絡を取り実施する、しないの議論をしていましたが、車に届く情報は耳に来る情報で、映像を見ている在京の副会長とは大きな差があり、私は実施しよう、在京の彼は中止しよう…と意見が割れていましたが、開催本部の宿舎に着いて玄関で見る映像=現実にその凄さから絶句状態になりました。
そして即刻「中止」指令に私の判断が変わりました。聞くと見るとの違いは歴然でした。

 その晩、すぐ近く(多分20Kmないと思う)の新潟県栄村で大きな地震(通常だと大地震の部類だったが三陸沖があまりにもすごかったのでかすんだ)があり、私の宿泊する宿舎の4階の部屋は立って歩くこともできない揺れと、部屋のTVがドカンと落ち、壁に掛けられた絵画が音を立てて落ちました。数時間前まで東北の震災映像を追っていたので、大変な恐怖だった。
 多くの方々や全国民、いや世界のいろいろな国の方々が、当初は人命救助、2次災害の防止などに力を入れ、徐々に復旧・復興に手を携え「絆」という字がずいぶん使われたのは昨年の特徴でした。

 私も少なからず支援させていただくうちに、私の技術的な関連組織が主宰する「震災復興支援PJ」に巻き込まれ、その名の通り、VEという最も効率的に物事を進める技術を使って、復興をどうするか考え始めました。
 私の娘は、その震災に何度となくボランティアで現地に赴き、がれきの処理などしているうちに、だんだん片付けから心のケアーのボランティアとして、職業柄(場末の音楽家)音楽で心を癒す活動に変わってきたようで、現地の話をするとまったく私の想像では通用しないことが娘の現場体験から指摘されることが多くあった。
新聞やマスコミの報道では実態が分らないことが身に染みだしていたので、PJチームメンバーで現地の視察をすることになった。 
やはりモノづくりの基本にある「三現主義」(現地・現物・現実)ははっきり私たちにメッセージを送ってくれた。
確かにもの凄い自然の威力だったことはしかと確かめることができた。

その破壊力、
いまだ三階建ての建物の上に大型バスが載っている、

大きな船が陸に上がったままにある。
ここが町であったというところに家が一軒もない。面影もない。

港が沈んで、岸壁が海の水より下にある
遠くから見ると、新しい家が随分ある…近づくと無人の集落
そして、街々には瓦礫が山になっている。
集落の中でぽツン、ぽツンと洗濯物が干されている。生き延びた家だ。
川の両岸は、川を挟んで無傷地域と、すべて持って行かれてしまった反対側の地域に明暗を分けている。
これは堤防の高さを変えて作っているから一方が犠牲になるようになっているのだと言う。初めて知った。

まだまだ知らないことが山ほど・・
あの瓦礫を見、元の自分の家の跡地を見、そして同じ環境にありながら生き延びた家を見るにつけ、失った人の心はどんな思いだろうか。
避難先で3月以前の幸せだった生活を回顧してどんな思いに立っているのだろうか・・・。

この運・不運の大変な落差。まして家族を失った被災者の悲しみ、その家族がいまだ発見されていない被災者にとって、瓦礫を、灯が点る家を見るにつけ、何度となく心に暗い影を落としてしまうのではないか。
3月11日2時46分まで、幸せそのものだった家庭が、自分がなぜこんな不幸に見舞われなければならないのか、悪いことなどしていない、一生懸命今日まで働き続け、家族を愛し続けたのに。せっかく家を建てたのに・・・。
なぜ?なぜ?・・あの一瞬が夢の一コマであってほしい。

仮設住宅の暖房効果を上げる工事や新年を迎える対策、鉄道の回復、高速道路の無料化、そして第3次補正予算の問題や復興計画など矢継ぎ早に報道は伝えてくれるが、それらはすべて形を整える方策ばかりだ。
映像に移るものはすべて「形」を紹介できる範囲だ。

最大の復旧・復興は、被災者の心を如何に平穏にさせていくことか、忌まわしさを忘れさせ、安心と新しい夢や希望を、大きくなくても良い、細やかで良い、
忌まわしさよりちょっぴり大きな夢・希望を与えられたら…そう願って娘は音楽の力を生かして癒し、すさんだ心を少しでも和らげ、それが心の復旧・復興に役立てばと信じて活動をしているのであろう。

わがPJチームも形もさることながら、被災者の本当の心を癒せる復興のお手伝いができることになれれば・・・と思った。

 今年は昨年の分も含め、明るい良い年にしよう!

    (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE