嘉彦エッセイ


第92話(2012年02月掲載)


          



『日本の品質:身近編』



 大げさなタイトルを付けてしまったので、身近編という言葉を付けました。最近身近にこうしたらもっと良いのにな…と思うことをつづってみました。

 そもそも、『品質』などと専門的な言葉を使うと、一般的には英語で言うQualityが表に出てしまうものだ。品質と言えば、寸法の正確さや耐久性がイメージされるが、

私は機能も品質の一つ、見かけの機能だけでなく、思いやりなども品質の一つではないかと思っている。

 我々が日常使ういろいろな製品にはいろいろな工夫が施されていて、しっかりユーザーの立場に立った、すなわち気配りのある製品が多くみられる。これは日本の品質の一つではないかと思う。

 その気配りから、アイロンから電気のコードが消えたり、日常生活に魔法瓶(昔はすぐ割れて、敬遠されたが、今は割れず、保温性が高い)が戻ってきたりしている。

身近に多くのアイデア商品があるのもその影響ではないかと思っている。


 たとえば、私の大好きなビール、その缶のプルトップ。日本製はしっかり指が引っ掛かりやすくできているが(実はビールメーカーの工夫が競争状態にあって、
缶コーヒーなどのメーカはまだまだですが、)海外のそれは不満たらたらだ。この不満は日本製の良いものを知っているから不満に感じるのだが、
あのプルトップの指のかかる部分の凹みの工夫を知らない人にとっては、不満も満足もないのかもしれない。
昨年の1月に東京で講演をしたときに、お聞きに来られた女性に尋ねたら、缶コーヒーは飲まないそうだ。近年ネイルアートなる言葉が存在するようになったように、
(特に)都会の女性の爪のおしゃれは格段の進化?だ。あの爪を壊してはならないためにプルトップに手をかけたくないのだそうだ。
どうしてもというときは、コインやキーを取り出して空けるのだそうだ。コーヒー缶はコーヒーを提供するものだが、その手前で缶の蓋の開閉が嫌だから飲んでもらえない(売れない)のでは、
おいしいコーヒーを研究し、造っているいる人からすれば、本末転倒と言えるのではないだろうか。喜んで飲んでもらわねば・・・


 最近気になる張り紙が駅にある。「ホームに傾斜があるので、車椅子や乳母車は、線路の方向に向けないでくれ」と書いてある。私はとんでもない張り紙だと思う。
どんなことがあっても安全なホームを作ることは鉄道側の義務ではないのか。缶コーヒーのプルトップとは異なる。
ホームの傾斜で万が一乳母車が走り出して落ちたら、人命にかかわるからだ。なぜ傾斜かと言えば雨が降るとホームが濡れ、水溜りができたり、滑ったりするからだ。
しからばいくら降っても水溜りや滑らないホームにすればよいではないか。まだそのような技術が確立されていないなら歯が浮く話を主張していることになるが、
水が浸透する床材はいくらでもある。女性のハイヒールがはまらないようなメッシュだっていくらでもある。それを床に敷いて、車椅子も乳母車も手を放したら自動的に線路と反対に転がる傾斜にしたら、
どんなに安全か。何かあったら(転落事故があったら)警告を発していたのに・・と責任回避の張り紙なのだろう。何があっても絶対に線路に落ちないことが「品質」なのではないだろうか。
面白い?ことに地下鉄の駅まで傾斜している。鉄道のホームの規格なんだろうか。地下鉄にも雨が降るのでしょうか????

 そういえば、電車の中で、優先席付近では携帯電話の電源を切ってくれと放送があるが、切る人は全くいない。私も申し訳ないが切らない。通話をするなというが、
掛ってくればメールは見てしまうし、場合によっては返信もしてしまう。この要望は絶対無理だ。ここまで無理が一般化すると掛け声で変えることはできない。
これはもう文化だ。目的はペースメーカーをつけている人対策なのだから、これは絶対対策しなければ、人命にかかわる問題だから何が何でもやらねばならない。
やらなくてよいなら電源を切れと言わないでほしい。


さぁ、どうするか。電話会社や鉄道会社が協力し合って、優先席付近では携帯電話が使えないようにしたらどうか。ペースメーカーに影響しない電波妨害(シールド)をすることはできないのか。
日本は世界一の品質国家、技術国家だ。これができると優先席付近には携帯を使いたい人は来なくなって、あの付近がすいて、座りたい方が集まってくる。
これって無茶な品質要求なのだろうか。


 電車で思い出したけど、電車の中の放送やホームの放送の音がとても大きいことに気になりません?西日本の新幹線には一切アナウンスの聞こえない車両がある。
凄い気配り。静かに本を読みたかったり、眠りたい人には打ってつけの車両だ。しかしなんであんな大きな声で放送しなければならないの、電車の中では頭が痛くなる。
駅の近くの人は電車の音より放送の音の方がずっと迷惑ではなかろうか。

 品質という概念を冒頭でも書いたが、寸法や耐久性だけではなく、こういうことも品質。モラルも品質なのかもしれない。

そうそう、たとえは違うが、昨年秋、ソウルに行き、南大門市場をぶらついたら、ルイヴィトンのバックを『本物の偽物!』と言って堂々と売っていた。
これは知的財産権や世界のルールまで全く無視しても堂々と許されている。国が許してしまっている。いつだったか、中国で講演したら、ビジネスクラスに乗ってきて良い、
講演料はいくらと決めて、ホテルも向こうが取ったホテルに泊まったのに帰ってきて請求したら、それから値切られる・・・それも超一流企業が、である。
これってどうなっているのと困惑したが、こんなことが当たり前になっているのは国家・国民としての習慣や文化。これも国の品質感覚なのだろう。

さて、わが日本の品質感覚は何だろう。ホームから落ちても良いのか、近隣や乗客の迷惑に気づかない・・・決して隣国のモラルの批判ができるとはいえそうもなくなっているのではないだろうか。
身近に私たちが気付かなければならないこと、実行しなければならない気づきがあるように思うんだが・・


これってどうしたらできるか…そうなんだ、ちょっと相手のことに思いやりを持ったら、それを実行したらできるんだよね。そのちょっとが足りないと…それができないんだな。

私もそうなんだ。

よし、今年は少し自分を、相手を、気にしてみよう。


    (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE