嘉彦エッセイ


第98話(2012年08月掲載)


          


『合意形成…信頼で世の中を楽しくしよう』



「合意形成」いつからこんな言葉が出てきたのでしょうか。サラリーマン時代にこの言葉は存在しなかったように思う。
私がいた会社が使わなかったからだからだろうか。
ちなみにこの頃つくづく便利になったと実感するネット検索では、合意形成:(英語で
Consensus building)とは、
ステークホルダー(関係者)の意見の一致を図ること。
特に議論などを通じて関係者の根底にある多様な価値を顕在化させ、相互の意見の一致を図る過程のことをいう。とでてきました。
今月はこんなに難しいことを書くつもりはありません。世の中の約束事に端を発した想いを綴ってみました。

合意形成にはさほど関係ないかもしれない(全く関係ないようだ)が、年老いた母が昨年7月腰の骨を少々痛め(転んで骨が欠けたようだ)
介護用のベッドに伏すようになって、年齢が年齢(97歳:当時)だけにある程度の覚悟をし始めたが、
何と今年の春先からずいぶん元気になり、少し歩きたいと言い出し、近所を歩行器を押しながら歩き始めた。
最近は町内を一周して2500歩ほど歩けるようになった。

私は時間がある限り彼女の介助でついて歩くようにしているが、ただ歩くのも無駄なので、ごみ袋と火挟みを持って、
歩く行程にあるごみを拾って歩いている。随分あるものだ。
そんな姿を見て町内の方か(あまり家にいないので存じ上げないが)、「ご苦労様、きれいにすると汚さないのよね。
汚れていると平チャラでポイ捨てしていくのよね」。そうだと思う。ごみの多いところには良くゴミが集中している。
交差点の周囲など典型だ。だれにも良心はあるのに、汚れたところに来ると良心がどこかに行ってしまうのだろう。
美化は国民的「合意形成」ここから良心や道徳が生まれてくるのだと思う。


約束は「合意形成」の最たる形。約束を破ることはまさに形成された合意を破ることだ。
この「合意形成」を破る腹の立つ政治家が(中には民間人もいるが)この頃多い。

首相経験者が、原発反対のデモに参加している。政治家は国会で政治力を発揮するために選挙で選ばれているのだろうが・・・
全く不信感を感じる。国会で賛成多数(まさに合意形成)で決めたことが行なわれていると思うのだが、
この御仁は、「普天間基地は最低でも県外へ移転する」とも言って、沖縄国民を喜こばせ、
少々やりすぎの感のあるファッションショーにまで奥方と出演したりしたが、まあ当時は許してやろうとなっていたが、
約束をたがえるとなると、なんだチャラチャラ奥さんとファッションショーにまで出やがって…になる。
「首相を退任したら国会議員を辞める。次の選挙には出ない」と言った人が、やはり「また出る」と言い、
しゃあしゃあと国会を汚しまくる。これを責める人がいないのも不信感を抱く。
親から今でも毎年何十億もの小遣いを貰っているのも他人事ながらこんな親爺だと腹が立つ。
同じ兄弟で、同じように小遣いを貰っている何もしない弟には腹は立たないが・・・(関心の対象外だからかな?)。
これで(政権交代時のスローガン)国民の生活が第一などと良く言えたものだ。

今秋には政権交代の国がいくつかある。韓国もその一つ。
まもなく国民を自分の政党の方に一致団結させるために、反日運動をさらに活発化させるのだろう。毎回の現象だ。

自分たちへの政治不信を、敵を作って集中的に政治の信頼を引き寄せる戦略だ。
竹島や従軍慰安婦問題、日本が韓国から持ち帰った骨董品や書画などの返還、賠償問題が再燃するのだろう。
自分と国民の間の不信感を払しょくする良く取る手だ。この手は国レベルばかりではなく、
会社やスポーツの団体なども良く使う手で「○○一派掃討作戦」で悪くもない人を悪者に仕立てて「正義は勝つ!の様なムードを作る。
私の身の回りにもある。

同じ隣国の中国も政権交代の時期。此処でも反日で結束したりするが国が大きいためか親日派もいることからか、
反日運動での結束は難しい面がある。従って結局権力で抑え込む。
チベットやウイグルなどは元々少数民族の独立国だが資源があると見るや、歴史的固有の領土とばかり抑え込みにかかり、
指導者は中央から派遣して、言うことを聞かないとやっつけてしまう。
これではますます不信感が高まり、時にデモや暴動に繋がる。強制一筋で、国民はやる気を失っている。
此処には何も国民との間に「合意」は存在しない。

そもそも合意形成の方法が間違っているのだ。

そうそう、その合意形成の大きなボタンのかけ違いが、最近見られた、大津市の「いじめ」問題。
そもそも、自殺した子の個人的問題として学校も教育委員会もこの事件を葬ろうとした。
亡くなったお子さんのご両親にしてみれば、納得いかない部分が沢山ある。おかしい。
そこから真実を求め出したら、この結末を導いた合意形成に大きな誤りが出てきたのだ。合意ではないのだ。
どっかの元首相は堂々と嘘を言ってのけてもしゃあしゃあと生き延びているが、
ここでは「良識ある」はずの教育委員会や校長や担任が陰湿な嘘によって、姑息な決着を試みた。
不信が残り、ようやく解決の方向で警察まで動き出したので希望を持って視ているが、世の中こんな不信感では楽しくならない。
どうして明るく堂々と反省や謝罪ができないのだろうか。正義は勝つ!にならないか。

原発事故は日本を大きく変えようとしている。近年にない改革になるところだが、
残念ながらここにも保身にしがみつく人々と国民との間に大きな不信を投げかけているものがある。
「事故報告書」だ。東電の事故報告書、国会の事故調の発表、政府の発表。見方を変えるのは結構だが、では何が正しい報告か。
起きた事実は一つなのに、何故いくつも見解が分かれるのか。
しからば三つの調査委員会を合同にしてズバリ答えを出したらよいのではないか。この人たち、国の金で調査しているのでしょう。
国会の事故調では、人災だ。政府の対応のまずさが大きな原因の一つと報告しても、当時の首相はカエルの面に何とやらで、知らん顔。
いまだ自分は何も悪くないと言い切っている。では報告書は何なのか。自分に都合が悪いと否定する。知らん顔。
何をしたら合意になるのか。これでは不信感が募る。


身近な組織にも不信感が漂うものがある。最も身近な組織は自分が勤務する企業、参加している民間団体…そこに人は集う…
行動をする限り合意形成があっての活動だ。合意とは納得や信頼から生まれる。
合意形成が崩れると何が残るか…不信感になり、不信感は相手のすべてを不信に思いこむ。

震災復興の活動をみると、国と市町村、市町村と住民。その間に不信感があるからなかなか明るく復興に向かえない。
瓦礫処理一つ取っても、快く受け入れている行政単位は東京都くらいだ。放射線への不安から、住民がウンと言わない。
安全だ、大丈夫だとなぜ言い切れないのだろう。他の復旧も遅い。この場合の不信感の元は、国は金を出していると言い、
役所はやっているふりをして親身に住民に対峙していない(一生懸命必死にやっているところもある。知っている。
摩擦が起きているところの例だ)。苦情対応で精いっぱいなのだろう。ならば上位の行政が支援すればよいと思うが・・・。
住民は必死に生き、明日への(復興の)期待から将来の夢を描こうとしている。思惑が大きくずれているのだ。
信頼できると明るく前向きになる。妥協や合意が生まれやすくなる。

スポーツ団体や親睦団体でも同じようなことが起きる。
親身で話に乗らず建前と表向き論争を続けるから真の合意が得られないことが多いのだ。

心から信頼したら楽しくなるのに…。豊かな国になると、そんなごちゃごちゃ、足突っ込むのはいやだ…になってみんな個人の勝手に生きる。
助け合う必要が無い。だからコミニュティが日本は発達しないんだね。


あぁまた天に唾してしまった。




    (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE