嘉彦エッセイ


第101話(2012年11月掲載)


          



『歴史は勝者が綴る』


   この言葉は何と53年前、中学3年の夏休みの作品(歴史をたどった報告書)の書き出しに使った言葉である。と、エラそうに書き出したが、
私が考えたのではなく、共同で歴史を追った相棒の松田征士君が考えた言葉である。

 その共同研究の骨子は、後醍醐天皇の第四皇子、護良親王(大塔宮)は歴史的にはわが郷土の豪族 淵辺義博が処刑したことになっている。
しかしわが故郷の伝説では淵辺義博は、自分の弟を殺し、その腐乱した首を差出し、処刑を証明しつつ、その裏で親王を石巻まで逃がしたとの言い伝えがあり、
その伝説を裏付けるいろいろな言い伝えなどを追った報告書で、その書き出しに表題の歴史は勝者が綴る・・・・とあるのである。


   私たちはその話に纏わる数々の史実を追い、松田君はついに東北本線に乗って、石巻に親王を祀った「白王子神社」(この3文字を繋ぐと、皇子となる)にまで
調査に行って、彼が中心になってそれは、それは、大河ドラマにふさわしい程の内容の報告書を残したものでした。

護良
親王は生き延びたのに、処刑されたと歴史は残した。そこで生まれた言葉が今回の表題だ。


 先月号のエッセイ、お役所仕事と称して、駅の前の看板の向きが反対だと指摘をしたことを載せた。
その市長への手紙はしっかり届き、早々に返事が返ってきたが、もう一回「市長への手紙」を書きたいほど杓子定規で、内容の無い、つまらない返答だった。


丁重に書かれてはいるが、すべてを正当化して、地図は北向きに書くものだとか、道路への標示は安全を考えて控えている
とか(と言いながら他の表示は路面にあるのだが)この町を初めて訪れた人が一目見て分ることを目的に、不十分だと指摘したこととは程遠い回答だった。
管理者は見たのか、民間では管理者の役割が重要とか、仕事品質を揚げよと訴えたが、その点は馬耳東風。
それでも、「市民の声を聴いている」「市民の方を見た市政を行っている」というのであろう。このテーマでトコトン戦えば勝つことはできようが、
私にはその暇もそれほどの執着もない。
決して役所が勝者などとは言わないが、市民は役所には結局勝てない。彼らが勝手を綴り続け、自分の都合だけを残していくのだ。



 サラリーマンを辞め、コンサルタントの仕事をして、つくづく感じるのは、雇う側と雇われる側(こちら側)。此処にも勝者の勝手が存在する。
これはやむを得ない現象だが、表向きいろいろ良い話を頂いても、いざ情勢が変わったり、気が変わると、あたかも何か正当であるかのような理屈を
突き付けられ、反論の余地なく、契約期間があろうが、終わってしまったりもする。



   サラリーマン時代もまったく同じだったなと回顧する。地位が上がっていくと管理者の人数が絞られ、残った人が「勝者」になっていく。
本当の勝者かどうかは分らない。実力のあるものが上がっていくのは理にかなっているが、時折要領の良いやつが上がり、エラそうな顔をする。
地位と知識は全く別なのに知識まであるような顔をする。そして、会社に残り采配を振るう人は、淘汰されて行ったり排除された人間に対して、
必ずしも良くは言わず、自分の天下を正当性あるものとして主張する。当たり前のことではあるが、はた目で見て白々しく感じてみても、歴史は勝者が綴ってしまう。



   何かの業績もゆがめられて、残るべき事実が消されるのは良く見てきたことだ。私のVEの世界でも。歴史的なことをなした人でさえ、消えかかっているのには、
いささか不快感を感じたりもする。これは勝者が綴ると言いたくはない。



 民間の地域の団体やNPOやスポーツ団体などはさらに顕著で、権力のあるグループ=派閥が支配するものだから、
その閥の傘下に入っているものは結構勝手が通り、反対派が正当性を唱えても通らなかったり、約束も堂々と破ったり裏切ったりが通用する。
金銭的に歪んだことをしても、主導権を持つ閥は何食わぬ顔で、記録上も歪みが無かったように、正当性のあるような理由を付けて締めくくってしまう。
何度も経験をし、歯ぎしりしたこともあるが、残念ながらこれが世の中、と諦めたくないが諦めざるを得ない。しかしこんな悔しいことがまかり通るからストレスがたまる。
世の犯罪の原因の一つがこれに起因しているかもしれない。悪がのさばり、正論が通らない世は暗黒の世界だ。少しオーバーか。



 最大の憤りは、無実の人が犯罪者に仕立てられること。法律が我々を守ってくれるはずの法事国家が、最近度々事件を起こしている。
誤認逮捕で、昨今ではITの脅迫文書き込みや、東電OL殺人事件では外国人を無期懲役にしてしまった。足利事件の冤罪はどうしてくれるというのだ。
金を払えばよいのではない。


   政治家の金銭問題では、腹を膨らませた事実があっても、証拠が不十分であったり、場合によっては時効の壁があったりで、悪が生き延びるのも癪に障るが、
無実の人が、検察の誘導で有罪になってしまうのをたびたび見ると、我々は何をしたら良いのか、何もできない歯がゆさに憤りのみが残る。
もしそれが死刑のような取り返しのつかない刑や、長期の懲役などではその人の人生さえなくなるのであるから、世論も大きく問題視しなければいけないと思う。
原発反対のデモよりもずっと重要な市民運動だと思うがこのことでデモ行進は無い。


 最近起きた、インターネットの書き込み事件。それぞれ無罪を主張したのに、有罪の方向に向ってしまったのは警察や検察の有罪への誘導で、
逮捕することが目的の人たちのなした大罪だ。彼らは真実を掴む人でなければならないのに、捕まえることが目的、犯人(でなくとも)を吊し上げるのが目的。
そして勝者を誇って、誤った歴史を正当であるように仕立てて行っている。この憤りはどこへぶつければよいのだろうか。



歴史は勝者が綴る…これは言葉が違うようだ。「歴史は強者が綴る」にしておこうか。強者には悪者もいることを含めて・・・。



    (株)VPM技術研究所 所長 佐藤嘉彦 CVS-Life, FSAVE