古代出雲王国の謎 2013/2/10トップページ更新 本文へジャンプ
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*稲岡神社


丹波の元伊勢籠神社より勧請して、731年に成立。

祭神は一座に豊受大神。次座に射目埼大神。

摂社に金刀比羅宮(祭神は大物主大神)、人丸神社(祭神は柿本人麻呂公)がある。

末社に稲荷神社(祭神は倉稲魂命)、市杵島姫神社(祭神は市杵島姫命)、池鮒神社(祭神不明)がある。

1キロほど夢前川を遡った地点の西岸にあった(現在のJR姫新線余部駅西隣一帯、青山北2丁目あたり)とされる「矢落の森」にて祭祀されていた「射目埼(いめさき)大神の祠」が応永元年に洪水で流され、稲岡神社のすぐそばまで流されたのを切っ掛けとして現在地に合祀された。

『矢落の森石碑』

稲岡神社のある稲岡山は播磨風土記にある稲牟礼(いなむれの)丘に比定されている。

また稲岡山は古墳時代中期の前方後円墳(もしくは円墳)であったことが確認されており、箱式石棺などが発掘されている。盗掘または荒らされた跡もあったらしい。

稲岡山は西側から見ると、くじらの形に似ていて、私たちが子どもの頃は「くじら山」とも呼んでいました。

射目埼神は平安時代に成立した六国史の第六にあたる「日本三代実録」に記載されている由緒正しい神様でもあります。

「夢前」の元になった名前だとされています。現在の夢前川は元は「菅生川」そして流域地名をとって「青山川」とか「手野川」ともいわれていました。

夢前川流域のところどころに射目先とか射目崎といった地名が残されています。
これが、訛ってというか変化してというか発音の関係で「ゆめさき」と呼ばれるようになったということです。「○○いうた」を「○○ゆうた」というような関係かな?

平安時代には夢前川の上流の方はすでに「ゆめさき」と呼ばれ「夢」という字があてられた記録があります。




稲岡神社の前身の一つ、稲岡大明神は官兵衛の青山の合戦での戦死者の鎮魂のための神でもあったらしい。この事跡の詳細は下記wikiの島津忠之の項目を参照してください。

島津忠之wiki

下記は、それらの情報を含む黒田官兵衛はじめ黒田氏一族、家臣の研究家として知られる本山一城さんのホームページの一部です。
http://www.geocities.jp/kazzuki2001/aoyama.html




主祭神として第一座におられるのが、「伊勢神宮」の外宮に祀られている豊受大神です。
この神様は食物の神様として有名な神様です。

姫路市の小学校修学旅行では伊勢神宮の内宮の天照大神さまにお参りすると思うのですが、伊勢神宮は広すぎて外宮にはお参りしてないのではないかと思います。

外宮の豊受大神さまの御霊は青山の稲岡山にもいらっしゃいますので、ぜひお参りを(^^ゞ



人丸神社



『人丸神社社殿』

人丸神社には、柿本人麻呂が播磨守だったころ、この地に遊行して数ヶ月を過ごした、また石見と大和を行き来するときに立ち寄ったなどの伝説があり、人麻呂が離れて暮らす妻を夢で見て懐かしんで詠んだとされる歌も遺されています。

『人丸神社の由緒書』

人麻呂公詠歌
「あいみてはちとせや いぬるいなおかも われやしかとふ きみまつほどに」

怪しい伝説です(笑)

人丸神社周辺は「妻見丘(つまみのおか・つまみがおか)」という地名で呼ばれていたが何回か行われた区画地名変更で失われ、現在は青山6丁目と色気のない地名に変っている。

人丸神社も小さな古墳状の丘にあり、横穴式墓ではないかと推測されているが、崩壊が激しく不明。

私はこの稲岡山、人丸神社のすぐそばで育ちましたが、つい最近まで上記のようなことを全くしりませんでした(自爆)


「お陰参り奉納絵」(稲岡神社)
江戸期に下手野村の氏子が、伊勢へのお陰参りの様子を描かせ、奉納したと伝えられています。

私は、この「お伊勢参り」を通じて青山に「豊受大神」が勧請され、やってこられたのではないかと思っています。


黒田官兵衛 青山の合戦・古戦場




豊臣秀吉が、まだ木下藤吉郎だった頃、琵琶湖の南に金目教という怪しい宗教が。。。。いや黒田官兵衛が、まだ小寺官兵衛だったころ・・・・つづく。



1567年、黒田官兵衛は御着城のすぐ近くの志方城主の娘「光姫」と婚姻を結ぶ。官兵衛24歳、光姫17歳のときである。

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青山の合戦の戦場となった桜峠の地名に
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翌年、嫡男松寿丸、のちの黒田長政が官兵衛と光の間に誕生するのだった。 


その翌年、官兵衛にとっての「桶狭間の合戦」に値する「青山の合戦」が始まるのであった。

 

抗争の名義的中心は龍野赤松vs赤松本家。 

抗争の実態的中心は龍野赤松vs備前浦上。 

龍野赤松側は足利義昭・織田信長・毛利元就・三木の別所。 

赤松本家側は備前浦上、御着小寺。 

圧倒的な差である。小さな包囲網ごと包囲してしまった状態なのだ。 

息の根を止められる寸前だった龍野赤松氏は、大きく息を吹き返す。 


逆に息の根を止められそうになったのが備前浦上氏と御着小寺氏である。 

本国備前は毛利の調略の的となり、重臣の宇喜多直家が叛旗を翻した。 

宇喜多は毛利のみならず織田側とも連絡をとっており、どちらかというとこれまで争ってきた毛利よりも織田方に近づこうとして叛旗を翻したらしい。 

小寺氏も正に「風前のともし火」となってしまったのだ。東からは織田軍の池田勝正と三木の別所氏が押し寄せる。西からは一気に優位にたった龍野の赤松政秀が小寺攻めを開始する。 

若き日の官兵衛、最大のピンチの開幕である。 


世に言う、、、いやまだあまり有名な話ではないが、これから有名になるであろう「青山の合戦」が行われることとなるのだ。

小寺家がこの地で戦争を行うのは三度という説がある。

そのうちの二回が1569年の5月と8月であり、8月の戦いが本戦。また月次の違うという説もあり、もう一回は1575年であるが、1569年とは勢力図が違っており、敵味方が変わっていたりしてややこしい。

室町殿や公家が関わる戦いの場合は比較的日時がはっきりしているが、中小勢力同士の争いだと誤伝もあり、混乱している場合も多く、各氏族の系譜に書き込まれた戦死の日などを合戦日に比定したりすることもある。

官兵衛にとっての初采配であり、大軍を少数で打ち破った、官兵衛にとっての「桶狭間の合戦」のようなものである。この合戦の後に官兵衛の名は播州にとどろくこととなる。


この合戦は龍野赤松家対姫路小寺(黒田)家の戦いではあるが、名目的には龍野赤松と赤松本家の争いであり、同時に政治的にみれば室町政権(足利・織田・毛利・龍野赤松)と反体制側(赤松本家・備前浦上・姫路小寺)の戦いであり、政治的には戦う前から勝敗が決していたといっても過言ではない戦いである。


しかも政治的前哨戦の中で、赤松本家は早々に全力を傾注することを避けざる得ない状況にあり、自らの味方として働くことになった小寺氏を表面的には見捨てる状態で始まっている。

小寺家にとってはまさに孤軍奮闘状態が求められる政治状況の中で始まったのだ。

まず、外交戦として、足利と織田は、龍野赤松からの人質であり、後に織田信長の養女となり、足利義昭の愛妾の一人となり、更には関白の二条家へと嫁ぐこととなる「サゴノ方」の返還を赤松本家と小寺家に命じる。従わねば滅ぼすぞということである。

赤松本家はこれを受け入れるしか方法はなく、サゴノ方を返還し、謀反など行うつもりはないと、申し開きを行うこととなる。

そして毛利からの浦上氏への攻撃要請があり、これによって、室町殿つまり織田の軍事活動の表向きの標的は赤松本家から備前浦上氏にシフトする。

織田氏にとっては播磨に公式に軍事介入できる名分を得るなら口実は何でもよかったのだ。

織田氏は播磨そのものより、室町殿の建て直しのために生野銀山の支配を目指す必要があったのだ。つまり播磨全土を手に入れるというより、播磨に軍勢を投入することによって生野の銀を手に入れるのが経済的なというか、この時点での本当の目的である。

本当に播磨を取って浦上氏を滅ぼしてしまうと、毛利と国境を接することとなり、これも厄介な話になる。織田軍の今回の播磨遠征の目的は銀なのである。

まず最初に動いたのは織田軍、別所を先導に播磨に展開しあっというまに播磨の諸城を攻め取る。

小寺氏の本城となっている御着城近くの諸城を取り囲み、小寺と赤松本家に降伏を呼びかける。

赤松本家は浦上討伐の名目のための軍をしたて、浦上へと向かうがあくまでもポーズである。浦上と本気で戦うつもりは毛頭ない。それは浦上も同じで一旦、龍野攻略の手を止める。小寺氏としても赤松本家に従ってのことであるので、織田軍と直接的に戦う理由は少ない。

この時点で織田軍としては初期目標を達成つまり浦上以外の播磨勢を表面的に旗下にとりいれたとになり、龍野赤松のピンチを救ったことになる。

そしてここから、織田軍は生野銀山へと兵を移動させることとなり、生野銀山を奪い取ることに成功する。

赤松本家は浦上攻撃の名目として播磨国内の兵を集め、置塩城に篭り事態を眺めるという態度をとる。御着の小寺本家もこれに追随して赤松本隊とともに置塩へ兵を集め待機作戦を取る。

こんな中で、龍野赤松がついに中播磨に向けて軍を動かす。

赤松本家が龍野攻撃をできなくなったのを知ってのことであろうと思われる。無人の如く突き進む予定だった赤松政秀に待ったをかけたのが、姫路城を小寺からあずっかていた官兵衛であった。

官兵衛は龍野の赤松政秀が軍を発したのを知ると、姫路での篭城を早々とあきらめ、姫路の西一里の青山へと伏兵を潜ませ奇襲をかける。

この奇襲に赤松勢は混乱し、慌てたのか、被害が拡大する前に撤退することとなる。龍野勢はこの時に被害を受けている。

浦上勢がまだ撤退していたわけではないので、本拠の龍野を守るという意味合いもあったのだろう。龍野周辺の赤松系の国人たちも、わずかな兵しかもたぬ官兵衛に敗れた龍野赤松政秀の采配の不味さに協力的でなくなったのかもしれない。

この赤松政秀の撤退は織田軍の目算を狂わせることとなる。

生野銀山への路として播磨は欠かせない織田軍だが、この官兵衛の大勝利によって播磨の治安、抑止力が崩れはじめた。

四国を本拠としていた三好勢が、これを知って播磨への侵入をはじめ、再び混乱を始める播磨の国。

秋、再び、織田軍は播磨への侵攻を本格化させる。

備前では、浦上氏の下で辣腕を振るっていた宇喜多直家が突如として織田方へと寝返り、浦上氏の党首浦上宗景の動きも食い止めることとなった。

備前浦上の撤退をうけて再び龍野の赤松政秀が兵を動かす。

合戦の詳細については下記ページが現在のネットの中ではもっとも詳しく紹介してあるので、参照いただきたい。

http://www.geocities.jp/kazzuki2001/aoyama.html

浦上が撤退しているので、前回の青山合戦よりも大軍を率いての進発だと思われる。

伝説では龍野方3000、官兵衛は300.。数字には誇張はあるだろうが数倍以上の兵力差で、二度目の激突が行われる。

場所は同じく青山。

官兵衛は、青山の東の土器山に陣を構えて待ち受ける。

この土器山というのは「かわらけやま」「かわらやま」などとも呼ばれていた現在の下手野の船越山神社の鎮座する山だと比定されています。

土器山を東から 土器山麓の案内板




なぜ土器山という呼び名かというと、応仁の乱の主役の一人、山名宗全が播磨を制圧していたころ、青山の地に五重塔を擁する寺院別荘を建てたという伝説があり、この寺院別荘の瓦や土器をこの山の土を用いて焼成したという伝説があるためである。

この地が「播州皿屋敷」の元になるお話があった土地だが、それはまた別のお話。。。

下記は歴史博物館のページ、皿屋敷について、姫路市青山の紹介もあります。

http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/legend3/html/001/001.html



政秀は、今度は油断なくと、先手をとり、土器山を先制攻撃。官兵衛方は一族の者や主要な味方も失い窮地に陥る。

そこへ、英賀城から三木氏が小寺救援の兵が参戦してくる。

この参戦により、前線を押し返し、窮地に一生を得ることとなった官兵衛は夜を迎える。

翌日に持ち越すと敗戦確実となった官兵衛は、優位にこの日の戦いを終え青山の陣で休む赤松政秀を夜襲することを決める。

土器山の陣を壊滅させて官兵衛らを四散させたことで油断したのか、優位に戦っていたはずの龍野赤松勢はこの急襲をうけて壊滅、撤退してしまうのである。

この時の官兵衛の追討戦は前回よりもさらに凄まじかったらしく、龍野勢はかなりの死者を出した模様で、青山にはこの大量の首を捨てたとされる「戦国池」(現在の千石池)の名も残っている。

黒田官兵衛は智将、参謀、軍師としての名声が高いが、官兵衛の率いる黒田家という軍事集団は戦闘能力がかなり高いのが注目される。この数の上での不利をひっくり返した戦いを皮切りに連戦無敗なのである。

鬼吉川並の戦闘力に加え、官兵衛の智謀といったところだろうか。

官兵衛の小寺勢力圏と龍野赤松の勢力圏の中間には、さまざまな半独立的な国人勢力、寺社勢力が存在していたので、それらの行動に対する不安も優勢であるはずの赤松勢が踏ん張りきれなかった理由の一つであろうが、官兵衛の作戦が大成功した結果である。

官兵衛はこの二度に渡る青山の戦いで一気に播磨の外にも名前を知られることとになったのではないかと思う。

秀吉もこの時に同時進行していた播磨攻め、生野攻めに参加していた模様である。

この戦いで主要な家臣や味方の国人の多くを失った龍野赤松は、織田軍の播磨戦線縮小の方針も手伝って弱体化が激しく進行することとなった。

備前で叛旗を翻した宇喜多直家は、この織田撤退、龍野赤松の敗北という状況をみて、浦上宗景に再び降ることとなる。

直家の降伏を受け入れることで、短期間で備前を収束した浦上は再度、龍野赤松に攻め込み、政秀を降伏させることに成功する。翌年、赤松政秀は毒殺され、龍野赤松の威勢も短い期間で終わりを告げることとなる。




余談であるが、昨今、「天空の城」として話題になっている竹田城の最終の築造者は赤松政秀の子の一人である。

龍野の赤松氏親子は、再興された後期赤松氏の初代である赤松政則の男系の血筋を引く一族である。

江戸期の家督の観念でいうと本家筋となる血筋であり、みな教養の高い一族であったとされている。この一族の衰退は、守護家権力の争いとしては赤松本家を守ったかたちになるが、播磨一国という視野で見ると赤松一族の支配領域がさらに減るということになった。

大きな播磨戦争としては、最初に述べたように政治外交的には勝ち目のない戦争であり、実際に早々と動きを封じられている赤松本家、小寺本家は将軍家・織田方に降服している。小寺の本拠地周辺諸城もあっけなく落城、開城している。赤松政秀が撤退した青山戦線以外はぼろ負けなのである。青山戦線にしても、母里一族滅亡など官兵衛家臣の犠牲もおおく、辛うじての撃退というのが本当のところかもしれない。もしかして官兵衛の奇襲成功は龍野赤松側の戦略的撤退の切欠になっただけなのかもしれない。



結果としてこの戦いがもたらしたのは、織田軍の播磨介入の始まりであった。そして赤松守護家の崩壊を大きく進めてしまったという現実である。

戦後、この包囲網を戦い抜いた、小寺氏でさえ織田軍というか室町将軍の傘下へと入ることとなった。

先に恭順していた赤松本家に倣ったかたちではあるが、ここにおいて播磨・備前の有力大小名は織田方へと結果としてなることになる。

逆に困ったのが毛利である。

浦上の中国道での成長を将軍権力つまり織田軍を持って叩こうとした戦略はあてがはずれてしまった格好になり、浦上の反毛利を加速させることになった。

織田軍は浦上という毛利への押さえを確保できたこととなる。

浦上はひとまずは、備前再統一ができたわけだが、宇喜多直家という獅子身中の虫を再び抱え込むこととなる。これが後々に災いすることになるがまだ先のお話。

小寺は中播磨での基盤をさらに固めることとなる。官兵衛の台頭によって戦の強さも喧伝できる。

赤松本家はなんとか対面を保つという成果を得ることに成功する。

別所は播磨、生野の両戦線でこき使われたわりには実入りが少なかった反面、強兵ぶりを更に有名にしたと思われる。

赤松政秀が失脚したため、この時点の播磨国内で最も織田信長に近かったのは、小寺でも赤松本家でも浦上でもなく別所氏であるのは間違いない。

この時、将軍の足利義昭の存在が紐帯となって、毛利と織田が連携している。

この時点では播磨の大小名たちも「天下布武の織田信長」というよりも、「室町将軍を支える勢力としての織田信長」に与しているのである。

傀儡とは言われるが、室町将軍の名声と守護大名制は、まだ使える状態なのだ。

wikiの青山の合戦の項目は下記。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E3%83%BB%E5%9C%9F%E5%99%A8%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


下記は黒田官兵衛をはじめ黒田氏の一族やその家臣団など黒田家全般の研究者として有名な本山一城さんのホームページの一部、青山の合戦についての部分へのリンクです。もっと詳しく知りたい方は下記リンクへどうぞ!

http://www.geocities.jp/kazzuki2001/aoyama.html




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