在宅介護の巣作りは
小さな1本1本の小枝から始まりました。
喜びの小枝、悲しみの小枝、不安の小枝、希望の小枝、怒りの小枝、苦悩の小枝・・・・・
私達にどんな小枝が集まって現在の巣が出来て来たかを紹介します。

在宅介護に至る時間経緯順には記述していません。

最初の一枝

 それは看護婦さんの一言で始まりました。「KYOKOちゃんをお家で世話できる?」
 倒れて半年ほどが過ぎたICUのベッドの傍でその人は「しなくちゃいけないって言っているんじゃないのよ。お父さん、お母さんにしたいって気持ちがあるのかなって思って・・・・・。ハッキリ出来ませんとおっしゃる人もいるのよ。自信が無いからって」
 私達は無言でした。家に連れて帰りたいとの思いはありましたが、具体的に現実的に考えることはその時までなかったのです。
 「そうよね。今日までずうっとそれどころではなかったものね。これからのKYOKOちゃんのこと、考えてみてね」
 その場のカミさんの心境は判りませんでしたが、私は「家に連れて帰って一緒に暮らそう」と瞬間的に思っていました。後でカミさんに恐る恐る訊ねると「看護婦さんに、思ってたことを後押ししてもらった。」とポツリと言ったのが印象的で母なんだなあと強く感じました。

 介護の巣作りの1本目の枝はこうして持ち帰って来たのです。
認めたくない現実と・・・

 この頃、担当医師から障害認定の話がありました。両四肢機能全廃の障害認定を受けることになりました。

 私は内心動揺していました。足や手は痩せて、見るからに変形し、眠りの深い時意外は何時も緊張してカチカチの状態をよく知っていても「この子が障害者になる」ことを認めたくない。まして、障害者手帳という公のものに記録されてしまうことへの抵抗感のようなものが渦巻いて複雑な心境でした。

 その動揺と裏腹に在宅介護に向けての準備も始めていました。介護機器のカタログ、家の中をどのように改造すれば良いのか、利用出来る公的制度は・・・などの情報資料を集めては考え込み「どうしてこんなことになっちまったのか」と。認めざるを得ない現実とそれを認めたくない気持ちはこの後も尾を引き続けたのです。
 心の中に認めようとする部分と認めたくない部分が絡まりあった枝も巣の材料になりました。
仕事の行方

 私の本来の職業は木造形作家です。売れない作家ですが、年に数回はあちこちのギャラリーやデパートで作品展を開き、それを自己発奮材料と収入源にしていました。KYOKOが倒れた頃は滋賀県に工房を借りて単身赴任で家はカミさんに任せて、週末に帰宅するくらいの気侭で気楽な生活でした。

 在宅での療養の話が出始めた頃には既に次の個展開催が決まっていました。事の深刻さはそれなりに感じていたものの「なんとかなるだろう」と安易に考えていました。しかし、個展の時期が迫って来るのに集中力は欠け、作品の統一性にも難点が多く「一つのカタチ」を構成するのに今までにない不安とやるかたない不満が溜まってしまったのです。
 このまま「今までのようにこの仕事を続けて行けるのか?」との思いは日増しに強くなり、KYOKOを在宅介護をしている日常の暮らしを想像するようになりました。仕事と介護とカミさんと私。

 過去の私の自己中心的な家庭の組み立て構造が、少しづつカミさんと私とのKYOKOの療養介護を中心にした発想へと変化を始めたのです。「その中で自分の仕事をやり続けたい。続けよう」という思いは巣作りの枝の大切な位置を占めています。
自立

 KYOKOには兄がいます。KYOKOが倒れた頃はまだ同じ屋根の下で暮らしていました。
 退院したその日からKYOKOの介護を中心にした暮らしは始まりました。兄は特別介護に関心を示す分けでもなく、又、手伝うこともありませんでした。かといって不満とか嫌うこともありません。ただ私達親に任せるというか頼るというかKYOKOの世界には立ち入りませんでした。

 私達夫婦が絶えず心に留めていたことは「KYOKOの事をこの兄に押し付けてはいけない」との思いでした。例え兄妹であっても兄には個人としての将来があり、その将来を束縛しかねないことは妹にとっても忍びないものがあるはずです。結婚をして、子供が出来て・・・・・、将来の人生の中でどのような災いに出会ってしまうかは判りません。もしも運悪く不幸な事に遭遇してしまったら自分達で解決して行かせる。その代わりに現在においてKYOKOというリスクは背負わせない。

 そして一年余り後、兄は自立独立の始めとしてこの家を出て行かせたのです。それはもう一つの別の意味合いも有りました。私達夫婦の直接間接の潜在的な子への甘えを断ち切るための一つの方法でもあったのです。
 不幸にしてKYOKOより私達のほうが先に逝ってしまった時、この兄がどのような対応をするかは判りません。判っているのは本人と神のみです。聞いてみようとも思いません。それは期待と依存と束縛への裏返しに他なりませんから・・・・・。

 この思いは私達にとって巣作りの大事な大事な一本の枝なのです。
反面教師

 入院の期間中のICUから一般病棟へ、そして退院までの約十ヶ月間(この間役1ヶ月高圧酸素療法のため転院)に病院の患者側から見える中身を知るにつれて、そこここで起きる新たな悩みを抱えることになりました。(それぞれの具体例は[こんな病院は気をつけよう]をご覧ください)
 私達の気持ちやKYOKOの状況を汲んで、判りやすく適切に対応してくださる看護士(婦)さんや助手さんもおられて、それは心強いものでしたが、粗雑で「これがプロのすることか」と言いたいような人もいました。夜間の勤務が、良い看護婦さんに当たると安心して眠れたものです。その結果は朝KYOKOを見れば一目瞭然でした。看護婦さんの都合で退職されたりすると、しばらくは落ち込んだものでした。

 しかし、対応の悪い看護婦さんを内心責めてみてもラチがあきません。正面切って強く苦情を言うと真面目な看護をしてくださる方々には申し訳ないと思ってしまいます。苦渋とストレスは溜まります。
 病院という怪物に世話になっている負い目は、一つの決断をさせてくれました。「他人の不手際は納得し難いことが多いけれど、自分の不手際は自分を責めれば良い。他人を責めなくても良いし、納得も出来る。」「ならばこの子の命は私達が預かろう」。

この決断は巣作りの貴重な枝であり、在宅介護を早める要素でもありました。
 吸引の仕方、おしめや体位交換、リハビリの仕方などを穴が開くような視線で見つめるようになったのはそれからでした。
一対の箸

 夫婦もそれなりに長く続き、子も大きくなるとお互いを余り干渉しなくなるようで、「あなたはあなた。私は私」なんて状態になっていたようです。
 不意の出来事から「お互いの相手を見直す」ことへの機会は始まったのです。

 在宅で介護をすることの具体的な内容を考え始めた時、最初は自分を中心に模索が始まります。心の持ち方、介護の技術、時間のやりくり、収入にからむ諸条件、体力などなど。でもそれらは必ず行き詰まりました。後で分かったことですがカミさんも同じことのようでした。
 ならばお互いに協力して補い合ってやって行くしか術は無いのです。忘れかけていた相手を理解する意識は、毎日の暮らしの中から様々なヒントを見つけ出してくれました。そのお蔭で今では実に頼もしいカミさんでありKYOKOの母です。

 1本の箸は箸では無く串のようなもので、せいぜい突き刺すことくらいしか出来ません。一対で最初はぎこちなかったことも、今ではなんとかKYOKOという小豆粒を優しく手早くスマートに挟めるようになりました。

 私達夫婦はそれぞれがおそらくずっと半人前でしょう。それを認め合うことで介護の巣の形を維持しています。
会話

 KYOKOが元気だった頃、私とはほとんど会話らしきものがありませんでした。私もしませんでしたし、彼女も話し掛けてくることは稀でした。一年分の全ての会話時間は多めにみて3〜4時間くらいでしょうか。カミさんや兄とはくだらない話題をはじめ、なんだかんだと賑やかに話し合っていたものです。
 別に私を嫌っていたのでもありません。私も話すのが嫌だったわけではありません。お互いの性格や思考回路が似かより、おまけに私が工芸を、彼女は雑誌の編集をとクリエイテイブな部分を仕事としていましたので、話がこの部分に及ぶとお互いがなかなか譲らない。だから話をしない。会話は遠ざかる・・・。けれど、お互いそれぞれの仕事に対しては認め合っていました。

 親の欲目と言われるかもしれませんが、今日元気でいればいっぱしの編集者としての領域を確保していたであろうと思えるだけの才能は有ったと思います。
 頓挫してしまった今、私の中のKYOKOが言います。「お父さん、私の分もね!」と。
 創作活動の中止を余儀なくされてはいますが「私本来の仕事」を見直し、考え、整理する時間をベッドから与えてくれているような気がしています。私の中のKYOKOというクリエーターとともに。

 この枝は日々揺れ動き、傷みかかる介護の巣を補強しています。
あかちゃん

 意識に重大な障害があっても何かの調子が悪いとグズります。それは精神的というよりは生理的と言ったほうが妥当なのでしょうが、私達にとっては精神的にグズッていると思いたいものです。
 赤ちゃんがお腹がすいたり排便などで気持ちが悪いとグズる時、親は気持ちで訴えていると思い勝ちですが、その頃にそれほど脳が発達しているわけはないのです。それでも親としては「腹減ったぁ! ミルクちょ〜だ〜い!」とか「ウンチが気持ち悪いからオシメ替えてよ!」って気持ちで言ってるように感じます。

 振り返ってみると赤ん坊のKYOKOがそこにいました。そして今、大きなKYOKOがここにいます。
 「体交枕がシックリこないよ」「ベッドの角度がちょっと合ってないよ」「暑いよぉ」「ご飯(胃ろうにエンシュア)の速度が早過ぎるよ」「痰、引いてよ」などなど、グズッている時はこちらが勝手にそうではないかと思って大きなKYOKOに「ハイハイ!これでどうですか?」と言いながら対処をしています。

 一人の子が赤ちゃんを2回やっている。
「2回目をやっている赤ちゃんはちゃんと育つのかい?」って・・・。
そんな馬鹿なことは考えません。「育ってくれたら天にも昇る気持ちだな」って思うことはままありますが・・・・・。
この期待では無い期待。要は夢のようなことですが貴重な巣作りの枝なのです。
おばあちゃんたち

 私達とKYOKOには三人のおばあちゃんがいます。一人は血縁ではありませんがそれ以上の存在であるおばあちゃんです。
 KYOKOが不意に倒れてから今日に至るまで、三人のおばあちゃんたちはそれぞれに自分の年齢に対してまだまだ大差の有る若さでベッドの上の人になってしまった孫を嘆き悲しんでくれています。それぞれが同じ言葉を繰り返します。「替われるものなら替わってやりたい」「あなた達。KYOKOをしっかり看てやってね」と。

 私はおばあちゃんたちによく言います。「KYOKOの行く末を見届けたいのならKYOKOより長生きしてもらわないと困るからね」。そう言いながら内心は「親の不注意や不測の事故でこうなった分けではないけれど、あまりにも厳しいこの子の姿をおばあちゃんたちに見せなくてはならないことに申し訳なく思っています。本当にごめんなさい」と謝ってばかりいるのです。

 おばあちゃんたちそれぞれが私達だけでは作り得ない巣をしっかりと補強してくれています。

余録  私の母は89歳(兄宅に同居)。少し痴呆の症状もあって普段はあまりKYOKOのことを思い出さないようです。少し悲しくもありますが有る意味で有難いと思うことは[KYOKOへの悲しみを忘れてくれる]ことです。おばあちゃんたち、ありがとう!。
カミさんのこと

 カミさんも身体障害者(三級ですが)です。両股関節に障害があり、何時手術をしてもおかしくない状態です。
 KYOKOがICUから一般病棟に変わってしばらくして、在宅介護をお互いが考えはじめた頃に二人でカミさんかかりつけの病院へ相談に行きました。手術入院から退院までの期間、退院後どれくらいの月日で介護可能な状態に戻れるかを訊きたかったのです。
 答えは介護可能な状態に復帰出来るのは努力(特にリハビリ)して最低2年はかかるだろうとのことでした。担当主治医が追い討ちの言葉をかけます。「術後しばらくは自分の事で精一杯だと思います。奥さんの脚部筋力では2年以上かかるかもしれませんねえ」。そこで医師に詳しい事情を話して、良い方策はないかと相談して得られた結果は「もし、今手術をしてもほぼ十年後には再び手術をする必要があります。その辺りのことも考えて延ばせるだけ延ばすほうが得策かもしれませんねえ」。
 
 かくして今日も自宅で自分のリハビリに励み、我慢できない痛みの時は鎮痛剤を飲み、シップ薬を貼り、痛む部分をさすりながら手術を延期したカミさんがKYOKOの介護をしています。
半分の生き方は・・・

 「生き恥をさらす」という言葉があります。
自分が生きていることを恥じる。それは世間に対するものと内なる中に感じるものとがあると思います。
 KYOKOが今現在の状況で「生き恥をさらしているか、いないか」は本人の意思とは離れたところで、私達KYOKOと縁のある人々が思い感じることもあるのです。事の善悪には触れませんが・・・・。

 「この世に生きている意味の半分は本人以外が握っている」。
私達夫婦にはKYOKOが生きていることは普通であり、毎日ご飯を食べ、歯磨きをし、トイレに行くようなもので特別なものではありません。付き合い方が多少に一般的ではないことだけです。
 一人の人間の半分が自分以外の人の中で生きている。自分の生き方とは別の形で厳然と生きている。なにもKYOKOに限ったことではなくカミさんも同じで、カミさんの意思に関わらず私の中に生きている。

 半分一緒に生きていながらどうすることも出来ないことがあるからこそ大切にして行きたい。巣はそんな不確かではあるけれど何気ない様子の枝が絡まっています
自然体

 在宅介護を始めるにあたって[始める理由]が顕著にあったわけでは有りません。
敢えて理由付けするとすれば病院の対応の良否や療養施設の不評情報、世間の目などが上げられますが、それらを全く意に介さなかったとまでは言えませんが、大した問題でも有りませんでした。
 何よりも私達夫婦の間に授かったKYOKOを他に依存して生活させる、私達も生活をすることに大きな違和感があったのです。
 私は良寛さんの「災難に遭うときは遭うが良く候」という一言が気に入っていて、この災難を素直に受け入れ、災難の中に私の行いや考え方を見出して大きな後悔や不満を少なくしたいと願っていたからです。
 えてして自己満足に嵌り勝ちなことと受け止められかねませんが、主をKYOKOに置き、従に自分を置いて物事を考え行動することでかなりの難題も克服することが出来ているようです。ただし、「己を捨てる」なんてことがいわれることがありますが、私は決して己を捨てません。

 自分を捨てる「滅私」が決してお互いに良い結果を生むとは思わない。力のある人が無い人の荷物を持ってあげる、ただし全部を引き受けて持つことはしない。
 介護の巣はKYOKOも作っているのです。
つい、・・・・

 ご近所に重度の精神障害(この単語は好きではありません)の子を抱えたご家族がいらっしゃいます。
余り深いお付き合いをさせていただいている分けではありませんが、奥様が元美容師なのでカミさんは髪を整えて貰っています。私も時折道端で立ち話をしたりもします。
 整髪作業中にお互いの介護暮らしの色々が話題に上がり、悩み、苦しみ、普通の人や家庭では何でも無いことが、言葉になり難い喜びを感じることなど様々な会話がなされているようです(私がその場に居合わせたことはない)。

 一方には感情が表面に出ていて、凄く穏やかにニコニコと楽しそうだったりと思えば、突然怒り、手を付けられないほど暴れたり塞ぎこんだりと日々奥様には生傷が絶えないのだそうです。時には生命の危険すら感じる事もあるそうです。
 また一方ではただベッドに横たわり、焦点の定まらぬ眼がただウロウロと空を追い、笑いもせず、全て何事も無いかのようにじっとしている。私達には今、直接KYOKOとこころとこころがぶつかり合うことが有りません。この淋しさは簡単に筆舌には表せないものです。では暴れるKYOKOだったら良いのかと言えばそれもNOです。

 相手に感情が有るために悩み苦しみ、時折ささやかでありながら強烈な喜びを感じ取る人がいて、感情が表れないために悩み苦しみ、特に大きな変化の無い日々に変な安堵感を感じ、体調が穏やかであればそれなりに喜んでいる私達がいます。
 ついそれぞれを比べてしまい、「どちらの方がましなのか?」ではなく、「どちらだったら自分が耐えられるか」に思いが行きつつ、いずれにしてもその苦渋がどうにもならない現実を際立たせます。

 想像の域を出ませんがKYOKOが美容師のお子さんと同じだったら・・・・ ?  ・・・・私には介護して行ける自信がありません。
この思いは介護の巣を支える大きな枝になっています。
自己満足

 私の考え方の中には人のために何かをするという発想が希薄です。

 利己的と言われるかもしれませんが「人に何かをすると自分が豊かになれる」「自分が安心できる」というかなり打算的ともいえる思いがあるのです。まず自分有りきなのです。人が喜ぶとまでは行かなくても少なからず良い結果が生じることで自分が「良かったな」と思いたい。そして結果として「その人のためになった」。それで良いんです。
 この考え方には伏線があります。それは[今、自分が対象者に対して最低限の為すべきこと]を絶えず考えることなのです。それでも逃げたくなります。考えたくない時もあります。手を抜きたくなることもあります。
 逃げる、考えない、手を抜く。その結果は自分の中の自分が如何に居心地が悪く、不機嫌で何とかそれを正当化しょうとする味の悪さに又々嫌悪してしまうのです。

 自分が満足とまでは行かないにしてもせめて納得出来るようにはしたい。
床ずれも出来ず、発熱も下痢もせず、回復の兆しは見つからないけれどそれなりに不安要素も特に見つからない。まずは良かったと・・・。
 そして今よりもう少し満足の度合いを上げたいと思っています。介護のデザインや材質や構造などを・・・・・。
うしろめたさ

 9月21日。胃ろうのカテーテルを交換するために1年ぶりに1週間ほど入院することになりました。
例年ならば術後に問題がなければ3〜4日で退院するのですが、今回は私達の希望で1週間入院としていただきました。
 在宅を始めてから4年が経過。私達も歳を経て1年の間一日も休まないのが情けないけれど身体にこたえるようになり、少し長めにしてもらったのです。

 入院中はしなければならないことが沢山あります。ベッドの調整や清掃、マットのカバーの洗濯、エアーマットの清拭と調整、療養室の燻蒸と大掃除・・・・・などなど。例年はこれらの作業も十分ではなく、それなりに終わるか終わらないかのうちに退院日を迎えるような状態でした。
 今年は余裕を持って行えそうです。予備日(何の予定も無い日)もとれそうです。

 たとえ1週間であっても他所に預け、介護してやれないこと。KYOKOは「1日でも早く自宅に帰りたいのではないだろうか?」とか「病院で問題なく看護してくれるのだろうか?」とか、つい思ってしまい、そうした中で心中に少しうしろめたさを感じてしまいます。

 このうしろめたさを感じることは介護の巣を補強してくれるでしょう。
削ぎ落とす

 KYOKOが元気だった頃、私達の暮らしは絶えず「あれをしたい。これが欲しい」などの行動やモノへの欲望が中心になるような日々を送っていたような気がします。大袈裟なものでなければそれなりに可能になったものもあり、それを良しとして来ました。

 しかし晴天の霹靂。一変したあの日からは暮らし方や暮らしの考え方までも再考しなければならなくなりました。介護をしながらの得心のいく暮らしを考えた時、今までの生活から余り重要でないものを削ぎ落として行くことが大切だと思ったからです。
 経済的なもの、時間的なもの、世間との関わりなど今までの社交辞令的なものは最小限にして身を軽くする。軽くなった分だけは確実に介護へ比重をかけられる。
 介護のある暮らしの中にささやかな欲望は忘れない。夢のように・・・・です。

 と言っても新たに湧いたこの欲望は捨て切れません。「KYOKOと口論がしてみたい。KYOKOの元の身体が欲しい」。

 物事の不要と思われるものを削ぎ落とすことによって、暮らしや自身のこころの本質が見えやすくなってきます。牛の歩みでなかなか進展しませんが・・・・
介護の巣のかたちは私達によってその姿になって行きます。
無意識に
 
 穏やかな顔で眠っている時、「この子の身体のどこが悪いんだろう」って思います。

 介護の諸作業を意識してやっていた時期から、無意識にこなすようになったのは容態が安定し始め、それなりの技術や生活リズムも身につきはじめ、二年が経過した頃だったと思います。
 知識や知恵だけでは介護を介護らしくこなすことが出来ないことも知りました。いくらその気持ちが有っても介護を充実させることが難しいこともそれなりに知りました。

 知識を得、知恵を働かせ、実践してみる。うまく行かないことを修正しながら繰り返しているうちに頭よりも身体が覚える。KYOKOにも私達にも負担の少ない状況が生まれて来る。

 無意識に今日の介護暮らしが過ぎて行くのですが、心がけていることは、新たな事柄を意識すること。そしてそれが無意識の実践に加わることです。

無意識にKYOKOの現状に哀れみ、悲しみ、平穏であることを当然のごとく思い暮らしています。
死と生への思い

 「お父さんやお母さんより長生きしちゃあ駄目だよ。長生きしたいのなら元の元気な身体に戻れっ!」

 今のKYOKOの状態で、「もし私達夫婦が先に逝ってしまったら・・・」との思いは充分過ぎるほどに暗寒を感じます。例えKYOKOの兄(現在は独身)が後を引き取ってくれたとしても、その妻や子らが多くの労苦を背負うことになり、その家族とKYOKOに新たな不幸が芽生えないとも限りません。ましてや施設で余生を送らせることなんて考えたくもないのです。

 そこで、「見送り」を私達がしてやりたい。だから「私達より長生きするな」。そのかわり「私達が出来る限り元気で、介護出来る体力を保ち、1日でも長生きしてやるからな」「お前が生きている限り、出来るだけの世話はしてやろう。お前が及第点をくれるように・・・」。
 そして別れの時が来たら「お前も良く頑張ったね。ありがとう。もういいよね。」って言ってやりたい。決してお前に「お父さん、お母さん。私を置いて先に行かないで!」ってことにはなりたくない。

 親が子を見送ることを期待するなんてことは普通では考え難いことなのでしょうが、回復しないままの将来であればやはり見送ってやりたいのです。
 漠然とその日に向かっていては禍根を残します。何処までが充分な介護かは判然としませんが、その日その日にお互いに「生きてるな」って感じを味わいながら、1日でも長く質素で豊かな暮らしをしたいと思っているのです。
滲み出るもの

 在宅介護を始めて5年が過ぎようとしています。近頃では容態の安定と技術的な慣れ、そして暮らしのリズムがほぼ一定して、私たちにも笑顔や冗談が自然に表れているかのように感じます。
 夫婦で草花をいじったり、稀には私も好きな釣りに出掛けます。カミさんの足の悪さも小康状態のようで、まずは落ち着いた日々が過ぎてくれます(収入不安とそのやりくりを除けば)。

 今日までの暮らしの日々で、カミさんはKYOKOの元気だった頃の写真などは見ようともしません。好きだった音楽が流れたりすると一瞬顔が曇ったりもします。KYOKOに結びつく特徴的なものごとには瞬時ではあるけれど反応してしまうようです。しかし、それは瞬時であってその後は何も無かったかのように振舞っています。そしてカミさんと同じような反応があるのを自分自身の中にも感じています。

 過去の元気だったKYOKOがオーバーラップしてくる。
私たちには過去をむやみに懐かしんだり、羨んだりしても仕方が無いことを百も承知しています。それでも今日の暮らしのそこかしこに、まるで条件反射するかのように確かに滲み出して来てしまうのです。女々しいと仰る人もいるでしょうが、私はこの滲み出るものを大切にしています。元気なKYOKOと今のKYOKOを重ね合わせて、違っている今を少しでも、ほんの少しでも元に近づけたい、近づいてくれたら・・・と思うのです。

感傷だけに浸ってしまっては辛さが圧し掛かってきますから・・・・。
自信の無さと怖さ

 毎日の介護をしていて、「今してやれることは、それなりにこなしている」と思っています。良くなる分けでもなく悪くなっている分けでもない平穏さを保ってくれてはいますが時折「何処か、何か間違っているのではないか?、これで良いんだろうか?」と自問する時があり、今までやってきたことへの自信の無さが湧いて来ます。
 それはある種、自己脅迫めいた感覚にとらわれて自分自身が怖くなるのです。その感覚から逃げ出す勇気もなく、さりとて特別の解決策も思いつかない、今してやっていることの手抜きをしそうになった時にはこの感覚が如実に表れます。「イカン、イカン」と思いキッチリとこなすようにしています。

 手抜きや逃避に対する怖さを感じることはKYOKOを介護する上で大きな意味を持っています。手抜きをした後の申し訳なさを感じるくらいですから、逃避などすればどれだけ自己を苛まなければならないかと思うとぞっとするものを感じます。
 それでも緩んでしまう自分に「介護はKYOKOの為ならず」を言い聞かせています。
私はKYOKOではない!

 様々の介護作業には付いて廻る思いの数々があります。「KYOKOならこうして欲しいだろう」「KYOKOならこう思い、こう言っただろう」・・・・と。
 一日花の白いムクゲの花を一輪挿しで飾ってやっても「私の趣味じゃないわ」って言ったかもしれません。体交枕の位置も「そこは少しフィットしてないわよ」とか「風呂好きの私としては毎日でも入りたいのよ」とか言ったかも知れません。

 それらを私達夫婦は「・・・であろう」と勝手に想像して現状で可能な限りこなす努力をしてはいます。しかし私達はKYOKOではないので真の部分が解りません。良なのか否なのかの判断もKYOKOが下すのではなく、私達がその様子(体調や表情)で勝手に決めているのです。他人は「きっと満足し感謝しているよ」と言ってくれたりしますが、それとて私達と同様に勝手な希望的観測に過ぎません。
 KYOKOではない者がKYOKOに代わって考え行うことに、当てはまることも有れば錯誤もあります。その行為や判断が正しいのか否かを悩み、恐れ、戸惑いながら「きっとこれで良いんだろう?」と自信の無い結論めいた思いで自己納得させながら繰り返す日々なのです。

 その人の思いを100%代理で叶えられることなど有り得ません。間違いもあるでしょう。不足不満も沢山あるでしょう。「我慢しろよ、してくれよ」としか言えないし、その一言が伝わっている確証も当然無くて「ごめんね・・・・・・、私はKYOKOじゃないんだ」。

 意識や表現の領域を越えてしまっているKYOKOへは、今の私にはこう思うしかないのです。
消えないもの

 在宅介護にして6年目に入りますが、始まりと今との中間が全てかき消されてしまったような感がある5年でした。
ここまでの間には様々な事柄があったのですが、それらがいつだったかなんてなかなか具体的に思い出せません。キザに言えば沢山の木の葉が秋風に吹かれて枝から舞い落ちたとき、「この葉っぱがどの枝にくっ付いていたか判らない」のと似ています。くっ付いていたのは確かなことだったのに・・・。

 時間が立ち介護そのものにはそれなりに慣れもしました。ベッドに横たわっているKYOKOの姿も特異な感覚で見たり接することも無くなりました。自分達の力ではどうにもならない有様を受け入れたからなのでしょうか。
 いいえ!。
決して受け入れることはできません。事有るごとに発症前のKYOKOがタイムマシンに乗ってやって来ます。ちょっと我侭で生意気で母(カミさん)に優しく、私の本心を多少理解してくれていたKYOKOが・・・です。
 こうしてやって来るKYOKOを消そうとは思いませんし決して消えないものだと思います。例えそれをネガチィブだとか女々しいと言われてもです。
 この感覚は辛く厳しいものがあります。様々な良し悪しは全て良しになってやって来て・・・、そのことに時には寂寥し、恨み、怒り、嘆いてしまいます。

 この消えない思いが今日のそしてあしたの介護の原動力にもなるのです。回復の希望を持ってとかいうものでもなく、また、KYOKOが何かをしてくれるとかの期待をすることでもなく、あきらめるとかあきらめないとかでもなく、只ひたすら愛しく感じられるからなのです。(03/10/31記)
もしも・・・

 もし、この国がイランやイラク、アフガニスタンなどの災害や紛争地域だったら、私達とKYOKOはどのような立場でいられるのだろうかと思うことがあります。当然、財力はありませんからその力で切り抜けることは不可能です。ごく普通の人々も自分やその家族が生きて行くのに精一杯でしょうから、私達は特にKYOKOはほぼ確実に生存を危ぶむ最先端に位置することでしょう。

 曲りなりにも三人が暮らして行ける日々を送りながら思うことは「それらの国よりずっと良いんだから現状に満足しろ、欲を言うな」です。だからと言ってこの国の政策制度に納得や満足をしている分けではありません。むしろ不満足で一杯ですが今以上に頼りにしてみても先ずはせんないことです。それぞれの国の窮状を知るにつれ、自分がどれだけの能力を発揮してKYOKOの命を守って行けるのか・・・、それに伴う覚悟と知恵を自分に問い掛けています。

 今日は2004年元旦、何時もと同じことをしながら今年もKYOKOと暮らします。
見守る

 一日一日が留まることを知らぬ急流のように過ぎて行きます。在宅介護が始まった頃は無我夢中の急流だったのが今では無意識の急流になっています。ふと気がつけばその日が終わっているって感じです。

 ここに至るまでには様々な事があり、とりわけその中で「自信喪失」を生み出す要因には事欠きませんでした。勿論今日現在全てが解決や払拭された訳ではありませんが・・・。

 事態に窮した時、誰かに、何かに頼りたいとの思いが頭をもたげて来ます。物理的な事柄は金銭や第三者の手を借りるなど比較的処理し易いのですが、困ったことは「こころの問題」でした。自分というものの有り様や生き方暮らし方を他人や神仏に預けてしまうことも出来ません、それは自身が許しません。

 理屈でなく気がついたことがあります。
身近で境遇を共有するカミさんにこころの依存をする、平たく言えば適度の甘えを越えたようなことや八百万の神仏に成就の願いをかける。そんなことを何の疑いも無く日常茶飯事的にしていたことです。要は他力本願な部分の自分がそこにありました。
  意志や行いを思考錯誤しながら、その折々に出来るだけしっかりしたものにして、それを「依願ではなく見守ってもらう」ことの大切さに少し気がついた時、自分が少し変わったような気がしました。「何もしてくれない」とか「これだけ祈ったのに何も変わらない」の感覚は薄れて「自分はこれだけのことをしてみるから見守ってください」と思うことで勇気も湧いて来たのです。
 しかし全てにそのように思い、実践出来ている分けでもありません。やはり「他力本願」に心身を委ねてしまうことも多いのです。私自身の弱さがそこに有ります。
 
 私を森羅万象、八百万の神仏から見守ってもらいながら、私とカミさんはKYOKOを看護ってやろうと思うのです。(04/07/26)
生きてると活きてる

 人が生きてるってことは心臓が動いて呼吸もして血が身体中を巡り温かい・・・・それだけ?・・・・・それだけのこと以外が無きに等しいKYOKOです。

 知識や知恵、感情や行動を駆使して行った悪行人に「あいつは人間じゃ無い、犬畜生以下だ」、人情の薄い人に「人間味が無い」、「人間である以上こうでなきゃ」と人の道やあり様を説く。世間ではこれ等を「人格」と呼んでいるようです。かなり以前にTVニュースで或る知事が重度の精神障害者施設(?)視察で「この人達に人格は有るのかね?」と言ったのを今も覚えています。
 こうした部分を取り上げると、悪行や薄情や人の道を踏み外したこともないけれど、今のKYOKOは人ではなくなります。人格についても?が付くことになります。じゃ、何なんだ。

 常日頃の暮らしの中で私達はKYOKOの「生きる」を「活きる」と混ぜ合わせて看ています。それは私達がKYOKOにKYOKOたる人格が存在することを確信しているからに他なりません。KYOKOは生きていて尚且つ活きているのです。
 言葉遊びだという批判もあるかも知れません。でも生きると活きるは同義語ではないのです。「活かすも殺すも人次第」という言葉のようにKYOKOを活かすことは私達夫婦の信ずる処によって確かに存在しているのです。

 例えKYOKOが意思を損失していたとしても、私達夫婦が信じる「いのち」に対して畏敬を払わねばならないと思っています。(04/09/22)
お命頂戴

 私が子供の頃、家ではニワトリやウサギを飼っていました。それぞれにチーコとかシロとかの名前を付けていて、名前で呼ぶとそのニワトリやウサギだけが近寄ってくるのでした。手に持った餌を食べたり一緒に小さな散歩をしたりして、それぞれに可愛くてファミリーの一員のようなものでした。
 しかしそれはペットとして飼っていたのではなくあくまで自家消費の採卵用、ウサギは食用としてでした。

 卵を産まなくなってきたニワトリの行方は子供であった私にも分かっていました。大きく育ったウサギもです。
その日、その時が来て私達がその生命を断ち切り、奪います。私はその場に立会い見届け、焚き火をし、湯を沸かし、毛をむしり、皮を剥ぎ、肉の塊になっていく作業も手伝いました。
 先ほどまで生きていて名前を呼び、可愛がっていたトリやウサギが肉の塊になってしまうことに手を貸した私はその過程の時間中の動揺は計り知れなく、時には涙したり命乞いをしたりしたこともあります。
 そんな時に近所のおじさんが「自分に都合の悪いことは他人にやらせて美味い肉だけ食うな!。可愛い分だけ他人より美味しく食べられるんだ!」と言われたことが強烈な印象として残っています。

 この経験はKYOKOの在宅介護に無縁では無い気がしています。KYOKOが私達の介護の巧拙を混ぜながら、共に暮らしている日々の先にはどちらが先かは別にしても必ず生と生の別れが来ます。KYOKOの生をトリやウサギのように一方的に奪う気は毛頭ありませんが万一生から離れた時、胃袋を満たすことは無くてもこころが温かく複雑な美味しさのものには確実にしたい思っています。
 今、その日その時が来るまで、可愛い分、愛しい分の哀楽を織り交ぜた暮らしの付き合いをしています。(04/10/20)
久し振りに・・・なるように・・・

 前回の書き込みから三年半の時が過ぎ、KYOKOがこのようになって10年の歳月も過ぎました。「未だ10年ともう10年」が交錯します。

 ここ2〜3年は大きな病気を発症させることもなく、安定した体調が確保できているようです。しかしながら、意識にかかわることは何の変化も兆候も感じられず、期待しても仕方が無い思いのその奥にある期待が「未だ10年か」と思わせます。
 KYOKOの兄は結婚し、間もなく1歳になる男児の父親です。KYOKOはオバサン、私達夫婦は爺婆です。昨秋には12年を共に暮らした愛する駄猫[つらら]も旅立ってしまいました。私は、あれやこれやの医薬の世話になる事も多く、体力の衰えを意識させられるようになって「もう10年か」と溜め息をついてしまうのです。

 「KYOKOの快癒」という大きな期待を持って今日まで暮らして来れた分けではありません。「意識回復しない」と全否定して暮らして来た分けでもありません。大きな強い期待を持って薔薇色のあしたを待つことも在りません。それでも私の意識の片隅のその片隅に奇跡を探しているようです。
 体力、見通せない余命、経済不安などの深海の暗さと圧力のような不安感が私の中を漂います。だからといって今を絶望的、否定的に見ているわけではなく、「その中でどうしてKYOKOらしく、我が家族らしい今日の暮らしをするか」を考えて過ごすようにしています。

 なるように努力しても「なるようにしかならない」のですから、良い結果を求め過ぎないで、悪い状況から少しでも回避できることに気心を配りたいものです。それが何がしかの最期に「まあ、こんなもんだ!」と思える・・・・・貴重な1本の枝です。(08/04/11)

以降はブログ「在宅介護のつれづれに」に移行いたします。

このページの先頭へ