(クモ膜下出血の発病から復活まで)
             

        

 1999年3月29日、朝から頭痛がした僕は会社に連絡して仕事を休み、家で横になっていた。

もともと頭痛持ちだった僕はその時の頭痛の状態からして、さほど気にしてはいなかった。いつもは左右のこめかみがズキンズキンと脈打つたびに痛み、時には頭を抱え込んでしまう程なのだが、この時はそういった猛烈な痛みはなく、右の首筋からこめかみに掛けてどちらかというと筋肉が攣ったような痛みで、我慢できないようなものではなかったのだ。ただ、いつもなら頭痛薬を飲んで暫く横になっていれば痛みが治まるのに、この時は少しも状態が変わらなかった。

午後になっても状況は変わらず、何だかおかしいので病院に行って診察してもらおうかと考えているうちに突然猛烈な痛みが後頭部を襲った。一瞬のうちに後頭部が燃えるように熱くなり、自分でも『頭の中で出血した。』と直感した。
慌てて大声を出し、家族に救急車を要請してもらう。ただ、この時も自分は死ぬかもしれない、などという意識はサラサラなかった。救急車が到着するまでの間に気持ちが悪くなり自力でトイレに行き一度戻した。
約10分後に救急車が自宅に到着する。しかし、この時すでに僕の意識はなく全身が硬直して状況は切迫していた。

あとで徐々に記憶が戻ってきてから思い出した事だが、搬送される救急車の中で僅かに意識を取り戻していた瞬間があったようである。救急隊員の『レベル300』という叫び声や無線によるやり取り、僕に対する励ましの声、そして自分の背中に響いてくる車のエンジン音などが断片として記憶にあるからだ。僕もその声に『ウー』とか『アー』とか答えていたようだ。

午後3時40分『横浜都岡脳神経外科』に到着。
この時、完全に意識はなくなり、身体は硬直して瞳孔が開き一見した医師は『90パーセントは駄目。もってあと2時間。』と家族に告げた。

家族の話ではこの時すでに僕の身体に魂はなく、半開きになった僕の右目を、ハイヤーで飛んできた母が泣きながら閉じたそうだ。

直ちにCTによる検査が行われるが出血が酷過ぎて患部が特定出来ず、開頭手術ができない。後にお礼に行った際に聞いた話だが、この時僕を運んでくれた救急隊員の方も、病院でみたCTの映像とこれまでの経験から助かるのは難しいと思い、暗い気持ちで引き上げたそうである。

実は、この日の翌日が実父の73回目の誕生日だった。
『まさか自分の誕生日が息子の命日になるとは何という巡り合わせか』と、父は天を仰いだそうである。
       
病院到着から20分後、ついに呼吸が停止。直ちに人工呼吸器が取り付けられるが危篤状態となる。誰にも信じてもらえないだろうがこの一瞬、僕は自分の周りの声を聞いていた。

まるで星のない山の夜のような真っ黒の闇の中で「あっ、止まっちゃう、止まっちゃう」という医師の声をはっきりと聴いた。そして「何を言ってるんだよ」と思ったのである。

僕自身は生きていた。生きているつもりでいたのである。その後の記憶はない。一瞬の出来事だ。


約40分後、医師の懸命な処置と熱意により何とか自力呼吸が復活。

その後も医師と看護婦の気迫の処置が続く。

そのかいあってか、当日の夜半、医師も驚くほど奇跡的に事態が好転し始める。
まず、医学的見識としての意識が戻る。(僕自身には記憶がない。)
このため、患部の特定するための検査(MRA、MRI)を開始する事ができた。
後頭部に広まった出血のため、この時は結局患部の特定は出来なかったが、的確な処置が実を結び頭を開く事なく出血が縮小し始める。
この時点で家族はいったん帰宅させられている。しかし、意識が戻った僕には面会できなかったそうだ。

翌30日、午後1時頃、完全に(今度は自分も認識できるほど)意識が回復する。気がついた僕はICUのベットの上で手足を縛られ、酸素吸入を受けていた。

手足を縛るのは意識を戻した時に、自分の受けたダメージと、そしてその事を理解できないがために、暴れる患者がいるからなのだそうだ。
しかし僕は自分の意識が戻り、そして手足を縛られた自分の状況を認識して、自分が思った以上に大きなダメージを受けた事を理解し、暴れることはなかった。つまり僕は、自分がくも膜下出血を起こし、そして意識を失って病院に運ばれた事を記憶していたし、何より発病の瞬間から意識を失う数10秒の間に、一度も「死」というものを意識していなかったのである。

暫くして、家族から連絡を受け病院に駆けつけた会社の上司と2,3分だけ面会した。僕はこれから長く会社を休む事になる事を覚悟していたので、ひたすら『すみません。』と謝っていたような気がする。
不思議な事に、後になって考えてみると、この時の僕はやたらと饒舌だった。無意識のうちに体内にアドレナリンが湧き出ていたのだろうか。

実はこの時、家族はICUの外にいて、ガラス越しにこの時の様子を見ていたそうだ。
家族は、身体が硬直し瞳孔が開いた昨日の僕の姿を見たのが最後だったし、『ほぼ絶望。』というような事を聞かされていたので、僕が会社の上司と会話を交わしている姿をガラス越しに見て、暫く信じられなかったそうだ。
ただし後から聞いた話によれば、上司に対して僕がしゃべっていた言葉は正直はっきりとは理解できなかったし、目の焦点もまったく合っていなく、素人目に見てもとても安心できる状況ではないと思えたそうである。



 それから僕の長い闘病生活がはじまった。頭に出血した場合、直後が一番危険なのは言うまでもないが、例え意識が戻っても発病後2週間くらいは再出血、脳血管攣縮による脳梗塞、合併症などの危険が伴い、いつ様態が急変してもおかしくない状態なのだそうだ。

その言葉通り、意識が戻ってからの2週間、激しい頭痛と発熱に僕は襲われた。比較的楽にベットに寝ていられるのは鎮痛剤が効いている数時間の間だけで、それが切れると猛烈な頭痛と40度以上の発熱が襲ってくる。まるで頭の中に悪魔が住み着いて、槍の先で頭蓋骨を内側から力任せにグサグサ突いているような猛烈な痛みだ。

潰瘍などの合併症の危険があるため固形物は一切摂取できず、栄養は全て点滴に頼る以外になかった。そのため僕の身体はみるみる衰弱していった。やたらと喉が渇き、看護婦さんにお願いして口に入れてもらう小さな氷の欠片だけが僕の力の源となった。

絶対安静、家族以外の面会謝絶、しかも面会は5分以内。自分の力では身体を起こすことも出来ない・・・。それでも僕はなぜか楽観的だった。確かに今の状態は辛いが、クモ膜下出血に襲われながら、頭には何の後遺症も残らなかった。手足もわずかだがなんとか動く。目にはダメージが残り、周りのものが全てダブって見えてしまい閉口したが、『何れ自然治癒する。』、という医師の言葉を信じていたし『助かりさえすれば何とかなる。』という意識が常にあった。

起き上がる事さえできず、身体の洗浄はおろかヘルパーさんの力を借りなければ寝返りさえ出来ない集中治療室のベットの上で、『今年はさすがに山は無理かなあ。』と面会にきた家族に話し、居合わせた医師や看護婦さんに呆れられた。



発病からちょうど2週間目。

それまでの状態が嘘のように劇的に熱が引き、そして頭痛が治まった。再発の危機をとりあえず脱し、待望の集中治療室からの脱出が適った。

ただし絶対安静は相変わらずで、ベットから外に出るどころか起き上がる事も出来ない。ベットの上だけが僕の生活空間である。力の源となるのは、うんざりするほどゆっくりと雫を垂らす点滴と、巡回の度に看護婦さんが好意で口に入れてくれる氷の塊だけだ。自分でもはっきり判るほど手足が目に見えて細くなっていく。体重は発病した時にくらべ、2週間で13キロも減っていた。

実はこの時になって、初めて気がついた事がある。
僕だけが、病院の枕ではなく、自宅で普段使っていた枕を頭に敷いていたのである。不思議に思って家族に聞くと、意識が戻った最初の日に、「この枕では寝辛いから家から自分の枕を持ってきてくれ」と言ってきかなかったのだそうだ。已む無く家族は病院に了解を得て、家から枕を持ってきたのである。
自分では、意識をしっかりと持っているつもりだったのだが、やはり断続的に僕の意識は飛んでいたようだ。



3週間目。

ついに点滴が外れた。重湯ではあるが、固形物を口にする事ができた。

美味かった。

これほど食べ物が美味しいと感じた事は今までにない。口に含んだ重湯が喉を通って胃に入り、そしてそれがエネルギーとなって身体全体にに充ちてくるのが実感できる。

「ここまで戻ってきたぞ」と思った。



重湯を口にしてから三日後、寝付けなかった僕は、看護婦さんに内緒で夜中にそっとベットから降りてみた。


驚いた・・・。


両足が自分の身体をまったく支える事が出来ないのだ。本格的でないにしろ、足腰は山で鍛えているという自負があった。その足が、棒のように細くなり自分の身体さえ支える事が出来なくなっている。

それより何より「立ち上がれ」という頭からの命令を、自分の足がまったく理解してくれていない気がするのだ。
自分が立とうとしているのは病室の床の上のはずなのに、足の裏にはまるで雲の上にでもいるような、あやふやな感触しか伝わってこないのである。

それまで、ベットの上で自分の意思で手足の指先を動かすことが出来る事を確認する事によって、手足にはまったく障害が残っていないと思っていたのだが、やはり少なからずダメージはあったようだ。

ためしに恐る恐る一歩足を前に出してみた。その途端、バランスを崩し慌ててベットの柵にしがみついた。一歩も歩けない・・・。

しかも目の焦点は相変わらずまったく合わず、目の前の景色はグラグラ揺れている。最悪の状況だ。しかしそんな状況でも『ちくしょう!早く何とかしなけりゃ、夏の山に間に合わない。』と思っていたのだから、呆れたものである。

それから毎日、僕はベットの上で足を上げ、ゆっくりと自転車を漕ぐように足を回し、そして足の指に力を入れて、少しずつ自分の足が自分の意思を感じるように命令を与え続けた。



4月中旬。

3度目の動脈造影検査(MRA、CTアンギオ)でついに患部が特定された。

脳に繋がる手前の右側の動脈に動脈留が見つかったのだ。この留が破れてクモ膜下出血を発病したらしい。本来、こういった留が見つかった場合、その動脈瘤を根元から特殊なクリップで止めてしまうか、あるいはその手前を、やはり同じように止めて血液の流れを遮断する術式が施される。頭に繋がる動脈は太いものが2本あり、1本を遮断しても、もう1本の動脈から脳への血流が確保されるので大丈夫なのだそうだ。

ところが僕の場合、もう1本の動脈が普通の人に比べて異常に細い事がわかり、この術式では脳梗塞を起こす危険がある事がわかった。また瘤自体が解離性動脈瘤という特殊な形のものであり、取りあえずクリップで止める手術は中止となった。

今後、薬によって血圧を下げ、血管にかかる負担を軽減させながら、退院後も定期的に検査を行って状態を診る事になる。(その後、退院後の数度の検査により、クリップで止めても脳への血液の供給が確保されそうな状況が確認され、2000年春に手術に踏切る予定である。)


 5月上旬。後は血圧に気をつけ、体力を回復するだけの状態になり、ついに退院した。

退院の前日まで車椅子による移動しかできず、相変わらず目の状態も良くなっておらず全ての物がダブって見えていたが、とにかく退院してしまえば後は頑張るだけとの楽天的な意識があり、とにかく嬉しかった。

 今思い起こすと、全てにおいてこの楽観的な気持ちがプラスに働いたのだと確信できる。
勿論、医師の素晴らしい処置や看護婦の献身的な看護、そして周りの人々の暖かい励ましがあったからこそ生還出来たのだが、もし発病後一度でも自分が『もう駄目かもしれない。』と思っていたら、その時点で僕の一生は終わっていたような気がする。

『病は気から』とは良く言ったものである。どんなピンチでも本気でプラスに物事を考えれば、身体の中に不思議な力が湧いてくるのではないだろうか。
  
退院後、視力が回復し、そしてまともに歩けるようになるまでには、さらに3ヵ月の歳月が必要だった。8月の下旬に会社に復帰し、以前と同じように働いているが、相変わらず脳に繋がる右の動脈には何時破裂するかもわからない瘤が残っており、薬を飲みながら血圧計とニラメッコしている毎日だ。


                 


それでも僕はこう思う。


「大丈夫!なんとかなるさ!」





*解離性動脈瘤とは・・・
動脈壁の内膜と外膜の解離により血管壁内に血液が入り込み、中膜層で血管が解離(剥がれる)する。外膜に近い層で起こる場合と、内弾性板と中膜の間で起こる場合がある。前者では嚢状の拡張を、後者では内路の狭小化を呈する。前者で外膜が破れた時、くも膜下出血となる。





その後、通院と検査入院を重ね、1年後の2000年5月に頭部動脈瘤閉鎖手術を受けました。その記録は「闘病記その2」に記してあります。






僕の命を救ってくれた
「横浜都岡脳神経外科」
TEL 045-953-7777





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