湯煙紀行 浅間温泉「仙気の湯」の巻

     




「仙気の湯」を出て、入り口脇のコンクリートに腰を掛け、
火照った身体を冷ましながら、カメラのフィルムを交換していたら、
ひとりのお婆さんが杖をつきながらゆっくり近づいてきた。

「うわー、来たよ」
僕は思わずうつむいてしまった。

僕は極端な人見知りである。
そもそもこうして一人旅に出るのも、日頃の人付き合いにほとほと疲れ、
とにかく人との関わり合いを断ちたくなるからなのである。
ところがそんな人間に限って、一人旅に出るとやたらと人が近づいてくるのだ。

長野側から立山に登った時もそうだった。
トロリーバスで観光客といっしょに黒部ダムまで進む。
ダムの上の遊歩道をそのまま突っ切り、ロープウェイでさらに上を目指す。
ところが、その遊歩道で捕まってしまった。

ロープウェイ乗り場を目指して歩いていると、向こうから走って来た
6歳くらいの男の子が僕とすれ違い様に、風に帽子を飛ばされた。
風に乗ったその帽子は遊歩道脇の側溝まで飛んでいった。
男の子は突然自分の頭から消滅した帽子の所在がつかめず
辺りをキョロキョロ見まわしている。

「とってやろうか?」
何気なく僕は声を掛けたのだが、その途端に大変な事になってしまった。
それまで、遊歩道で自由気ままに散らばって黒部の景観を楽しんでいた
観光客の群れが突然動いたかと思うと、一斉に僕の前に列を作ってしまったのである。

何がなんだか訳がわからず呆然としている僕に向かって、
列を作った観光客が手に手にカメラを持ち、「お願いします!」と声を掛ける。
要するに僕にシャッターを押してくれと言うのだ。
子供に向かって「取ってやろうか」と言った僕の言葉を、シャッターを押してもらおうと、
ターゲットを探していたカップルや家族連れが「撮ってやろうか」と勘違いしたらしい。

いきがかり上、シャッターを押さざるを得なくなってしまった。

あっち、こっちに移動しては、幸せそうな被写体に向かって、
「はい、チーズ」などと、引きつった笑顔でシャッターを切る。

俺はいったい何をやっているんだろう。

結局、20分以上も俄かカメラマンになってしまった僕は、
計画していたロープウェイの搭乗時間に大幅に遅れ、
おまけにシャッターを切った一組の老夫婦とロープウェイに同乗する羽目になってしまい、
立山の玄関口である室堂までの長い時間を、今度は俄かガイドとして
採用される事になってしまったのである。

さて、近づいてきたお婆さんは、僕が予想した通り、当たり前のように僕の横にゆっくりと腰掛けた。

「カメラだね」

カメラを持った僕の手先を見ながら、まるで昔からの知り合いに話し掛けるようにお婆さんの口が動く。

「はい」

一人にしてくれと心の中で叫びながら、顔には満面の笑みを浮かべてお婆さんの方を向く。
また、悪い癖が出てしまった。

「爺さんが3年前に死んでね」お婆さんが話し始める。

さあ、いよいよ始まる。お婆さんの長い長い歴史物語が・・・。
関東大震災の話、大戦の空襲の話、千葉から松本に引っ越してきた話、
旦那さんとの馴れ初めの話、結核になった話、子供の話、孫の話、旦那さんのお葬式・・・・・・・。

結局、亡くなった旦那さんが愛用していたカメラに、3年たった今も
フィルムが入ったままになっており、ずっとそれが気に掛かっているのだが、
自分は機械に疎いので、フィルムの取り出し方を教えてほしいという、
お婆さんの質問を引きずり出すのに30分も掛かってしまった。

さあ、今度はフィルムの取り出し方を教える番だ。

ゆっくり、ゆっくりと、何遍も何遍も・・・・・・・・・・。

1時間後、何遍も振り返り、頭を下げながらゆっくりと去って行くお婆さんを見送った僕は、
すっかり冷え切った身体を暖めるために、もう一度「仙気の湯」の暖簾をくぐった。




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