湯煙紀行 乗鞍温泉「三村荘」の巻

     



宿に着くと、玄関で花壇に水をやっていた、腰の曲がったお婆さんが
早足で近づいて来て僕を迎えてくれた。
乗鞍高原のとある一軒の温泉民宿である。

その年、僕は突然のクモ膜下出血に倒れ、春から夏にかけての4ヶ月間を
棒に振ってしまった。
リハビリを終え、何とか元通りの身体になった僕は、
心配する家族を拝み倒し、ひとり、大好きな北アルプスの麓に戻ってきた。
乗鞍高原や上高地を歩く事で、自分が無事復活出来た事を実感したかったのである。


昔から信州を訪れる時は、何時もマイカーを利用している。
しかし、さすがに今回は電車の旅を選択した。
新宿から『特急あずさ』に乗り松本へ。そこから上高地線で徳本峠の
登山口である新島々に出て、さらにバスに揺られて幾つかのダムを越え、
乗鞍高原に着いた。
まだ、午後の一時過ぎである。

お婆さんに荷物を預け、乗鞍高原をのんびり散歩する。
一ノ瀬園地から善五郎の滝まで、ゆっくり時間を掛けて歩いた。
木々が吐き出す新鮮な空気を胸一杯に吸い込む。
生きて戻ったという感動が、僕の身体の隅々にゆっくりと巡っていく。

2時間ほど歩き、陽が傾きかける前、宿に戻る。
久しぶりに長い距離を歩いた僕は、宿に着いた頃にはヘトヘトになっていた。


白いタオルの姉さんかぶりに着古しの割烹着姿になったお婆さんが
部屋に案内してくれる。
宿の中は閑散としている。どうやら、客は僕ひとりのようだ。
通された二階の部屋は奇麗に掃除が行き届いていて、
この宿に着いた時から感じていた一抹の不安はなんとか
消し去る事ができた。

「温泉に入ってゆっくり汗を流しなさいな」
お婆さんがテーブルの上に、お茶の入ったポットを置きながら言う。
「食堂を通った時にチラッと見たんですけど、特別料理っていうのはできますか?」
僕が聞く。

「なにが食べたい?」
「馬刺しが好物なんです」
「ああ、馬刺しならあるよ。じゃあ、夕食の時にいっしょに出すよ」
「お願いします」

腰を曲げ、急ぎ足で部屋から出て行くお婆さんを見送ると、
僕はさっそく風呂にいく準備を始めた。

タオルと着替えを持って風呂につながる階段を降り、食堂の前を通ると、
ガラス窓の向こうでお婆さんがせっせと食堂のテーブルを拭いていた。
よく働くお婆さんだ。
考えてみると、この宿に着いてから、まだお婆さんの姿しか見ていない。
ひとりで切り盛りしているのだろうか。

乗鞍の温泉は特徴のある白濁湯で、心行くまで温泉気分を満喫できる。
脱衣所も洗い場も奇麗に掃除が行き届いていて、気持ちよく湯に浸かり、
旅の疲れを癒す事ができた。

風呂から上がり、火照った身体を冷やそうと、食堂に寄り道して
自動販売機で缶ビールを買った。さっきまでテーブルを拭いていた
お婆さんの姿はもう見えない。
窓越しに外を見ると、窓の向こうで今取ってきたらしい枝豆の泥など落としている。
本当に働き者だ。

部屋に戻ってゆっくり飲もうと、取り出し口から冷えたビールを取り、
何気なく食堂を見渡すと、ピカピカになったテーブルの片隅に、
飲み終わったヤクルトの小さな空瓶が置いてある。
「ははあ、お婆さん、セッセと働いて、あそこで一息着いて、そのまま
忘れてしまったんだな」
僕はその姿を想像し、何となく微笑んでしまった。

ヤクルトの空瓶をゴミ箱に投げ入れ、部屋に戻って窓の縁に腰掛け
高原の緑を肴にビールを飲んだ。風がなく少し蒸し暑い。
遠く乗鞍岳は、夏の雲に霞んでいる。
セミの声が誇らしげだ。

暫くしてビールを飲み終え、畳の上に横になってテレビをつける。
何となく手持ちぶさただ。夕食まではまだ時間がある。
「もう一回、温泉に入るか・・・」
やっと汗が引いたというのに、またいそいそとタオルを肩に掛けて
階段を降りる。客は僕ひとりとわかっているので、何をしようにも
気が楽だ。
一階に降りて風呂に行く間、お婆さんには出会わなかった。
また何処かで働いているのだろうか。

脱衣所に入り、脱衣籠の前に立つ。すると片隅の脱衣籠に
一枚の白いタオルがポツンと入っているのを見つけた。
よく見ると、そのタオルは丸い頭の形をしている。
姉さんかぶりだ。お婆さんのモノに違いない。
どうやらお婆さん、枝豆の後は風呂場の掃除をして、
その時脱衣籠に脱いだ姉さんかぶりをそのまま忘れてしまったらしい。
「しようがねえなー。あのお婆さん」
せっせと働き、そして働いた痕跡を必ず残していく。
まるで怪人20面相のようなお婆さんだ。
風呂から上がり、廊下を歩いていたら自動販売機の横の空缶入れを
掃除しているお婆さんを見つけた。
案の定、頭にタオルが無い。

旅をして宿に泊まると、その宿の人達の生活臭みたいなものは
あまり嗅ぎたくないという気持ちが僕にはある。
しかし、この宿のお婆さんには不快感のようなものは不思議と
感じなかった。なんだか知らないけれど笑ってしまうのだ。

夕食には山盛りの馬刺しが出てきた。
馬刺しを肴に一杯やっている僕を離れたところからお婆さんが見ている。
客は僕ひとりなので、何となくバツが悪い。
食事を終え、しばらく部屋で寛いでからもう一度風呂に入った。


翌日は宿の前からバスに乗り、白骨温泉経由で念願の上高地に降り立った。
河童橋から明神池までの片道3キロの道のりを観光客に混ざってゆっくりと歩く。
ミニスカートにサンダル履きの若い女の子にも追いつけない程の歩みだ。
それでも心の中は充実感で満たされている。

恥ずかしいほどバテバテになって宿に戻ると、姉さんかぶりを
無事取り戻したお婆さんが、食堂から手招きをしている。
入っていくとビールと自家製のお新香、そして山盛りの馬刺しが出てきた。
その量たるや、仔馬一匹分持ってきたのではと思うほどである。

「サービスだよ」お婆さんが言う。
「お婆ちゃん、凄く嬉しいけど、いくらなんでもこんなに食べられないよ。
オオカミじゃないんだから」
「あら、そうかい。うちで特別料理なんて頼む人は珍しいから、
よっぽど馬刺しが好きなのかと思って奮発しちゃったよ」そう言ってカラカラ笑う。
僕もつられてカラカラ笑ってしまった。

「今日は何処まで行って来た?」
「上高地を歩いて来ました」
「なんだ、上高地だけかい。山の格好しているから穂高まで行ったかと思ったよ。
だらしねーなー」またカラカラ笑う。
「ほんとだね」僕もまたカラカラ笑った。


宿を去る日、勘定を済ませると馬刺しの料金が入っていなかった。

「お婆ちゃん、特別料理の分が入っていないよ?」僕が言う。
「サービスだよ」お婆さんがカラカラ笑う。
「それじゃあ、商売にならないじゃない」
「良いんだよ。料理のひとり分やふたり分」
「なんだか悪いなあ」
「良いんだよ」
「じゃあ、ご馳走になります」
「またおいで」
「はい、また来ます」

ディパックを背負い、宿を出る。
お婆さんもサンダルを突っ掛けていっしょに外に出て来た。
「気をつけて帰りなよ」
「はい。お婆さんも元気でね」

挨拶を済ませ、バス停に向かって歩いきながら何気なく振り返ると
働き者のお婆さんは、すでに僕に背中を向けて、せっせと花壇に水をやっていた。




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