湯煙紀行 戸隠高原「和田野荘」の巻

     



宿に着くといきなり、ソファと小さなテーブルが備えられた、
宿の主人が使用する控え室のような小部屋に通された。

「本当にようこそおいで下さいました」
僕を迎えてくれた宿の主人が深々と腰を折って僕に言った。
歳は50代の後半だろうか。小柄で頬のこけた、目が小鳥のように優しい主人だ。
「この度はどのような目的でおいで下さったのでしょうか?」

いきなり面食らってしまった。
まだ雪の残る5月下旬、初めて訪れた戸隠高原の宿での出来事である。

異様に腰の低い主人である。まるで将軍に仕える腰元のようだ。

「はあ、山でもノンビリ歩こうと思いまして・・・」
こちらまで言葉遣いが丁寧になってしまった。
「やはり!」主人が左の手のひらを右の拳でポンと叩いた。
「お客様の姿形を拝見した時からそう思っておりました!」
「はあ・・・」どう対応して良いのか解からない。
「わたくしに提案がございます」そう言って小さなソファを隔てて
僕の方にグイッと身体を乗り出した。
「戸隠山はまだ完全な冬山でございます。ここはひとつ飯綱山に登られては如何でしょう」
飯綱山ですか?」僕は聞き返した。
「はい!瑪瑙山から飯綱山へ縦走するコースがございまして、一日山を歩くには
調度よい山だと存じます」
瑪瑙山と言いますとスキー場のある山ですか?」
「さようでございます!」
まるで時代劇の悪代官と越後屋のような喋り方だ。
「この宿から15分程歩いた所にスキー場の入口がございます。ここが春山の登山口に
なっておりまして、ゆっくり2時間程で瑪瑙山の山頂でございます。飯綱山への縦走は
さらに3時間程掛かります」
「雪はどうですか?」
「まだまだ雪はベッタリでございます!」
「ベッタリですか?」
「お見受けしましたお客様の装備でしたら、充分対応できると存じます」
『さようか、よしよし』と思わず言いたくなるのをグッと堪えて、
「じゃあ、そうしてみます」と僕はごく普通に返事をした。

「おとうさん、いい加減にお客様を御部屋にご案内したらどうですか!
長旅で疲れてらっしゃるのだから!」
奥さんがお茶と茶菓子をお盆に乗せて、開け放しのドアから部屋の中に入ってきた。
「おお!さようでございました。これはこれは失礼いたしました!」
慌てて席を立ち、僕を部屋に案内しようとする。
「だからお父さん!今お茶をいれたんですから・・・」
「おお!そうかそうか!」また座りなおす。「ささ!どうぞお召し上がりください」
とんでもなく人好きの宿のようだ。

「まだ、名前も名のっていませんし、宿帳にも記入していませんけど・・・」
自分でも何でこんなに遠慮しているのか、と首を傾げながらオズオズと僕は言った。
「そんな水臭い!よろしいですよ!どうせ今日のお客様はあなた様だけなんですから・・・」
主人がニコニコ笑いながらゆっくりと言う。その横で奥さんが優しく頷いた。

心の中で僕は『ウヘーーーーーッ』と悲鳴をあげた。

                                       

翌日、山行の仕度を整えてからひとり食堂で朝食をとっていると、
主人がすまなそうな顔をして僕の所にやって来た。
昨日、部屋から出る度に例の小部屋につれ込まれて、
ずっと主人の話し相手をしていたため、正直言って今朝の僕はヘトヘトである。
「いや〜、残念!」主人が僕の目の前に座って言った。
「実は私も今日、お客様の山行にお供しようと思っていたのですが、ちょっとばかり
野暮用が出来まして、ご一緒出来なくなりました!」
『ホッ!』というため息が主人に聞こえなかったか気になった。

「そのかわりといってはなんですが」
そう言うと、主人が黒くて四角いモノを僕の前に置いた。
「これを持って行って頂こうと思いまして」
見るとやけにゴツいトランシーバーである。
「実は私、戸隠の山岳指導員をやっておりまして、このトランシーバーは
それで使っている物でございます」
「そ、そんなもの、僕が使ってしまって良いんですか?」
「かまいませんとも。もう私は歳を取って引退同然なんでございます」
「しかし・・・・・」
「良いからお使い下さい」
無理やり渡されてしまった。

                                         

『ガガッピピッ』とトランシーバーがいきなり鳴った。
慌てて受話口を耳にあてる。主人の声が聞こえてきた。
「こちら和田野!こちら和田野!潤平さん!応答願います」
「はい潤平ですが・・・」なんとなく照れ臭い。
「登山口に着きましたでしょうか!どうぞ!」
そう言われてもまだ宿を出てから3分である。
「いや〜、まだ道路をトボトボ歩いてますが・・・」
「さようでございまか。気をつけて行ってらっしゃいませ!」

15分程してスキー場の外れに出た。
主人の言った通り、所々土が見えているとはいえ、まだまだスキーが
出来そうなくらい雪が残っている。
リフトに添って登っていく事にした。

『ガガッピピッ』トランシーバーが鳴った。
「こちら和田野!こちら和田野!潤平さん応答願います!
如何でしょうか!」
「今、リフトに添って登り始めましたが・・・」
「さすが!それでよろしいのでございます!」
「はあ・・・。どうもありがとうございます」
気をつけて行ってらっしゃいませ!

キックステップで雪道を気持ち良く登る。
他に登山者は見当たらない。
ふと振り向くと、雪をたっぷり被った北アルプスが、
屏風のように快晴の空に浮かんでいる。
冷たく澄んだ空気が気持ち良く僕を包む。

『ガガッピピッ』トランシーバーが鳴った。
「こちら和田野!こちら和田野!潤平さん!応答願います!
今どの辺りでしょうか!」
「そろそろリフトの終りに近づいていますが・・・」
「さすが!気をつけて行ってらっしゃいませ!

きっちり15分おきに「こちら和田野!こちら和田野!」の呼びかけが来る。
山を登っているのか主人と話をしているのか解からなくなってきた。

2時間半ほどで瑪瑙山の山頂に着いた。
コッヘルとブタンガスのコンパクト・バーナーを取り出して、
早めの昼食の準備を始める。
その時、またトランシーバーが鳴った。
『ガガッピピッ』律儀に応答する自分が悲しい。
こちら和田野!こちら和田野!潤平さん!応答願います!誠に残念ですが、
これから私
、野暮用で長野の街まで出なければなりませんので、
これで失礼させていただきます。気を着けて行ってらっしゃいませ」
『ホッ!』というため息が主人に聞こえなかったか気になった・・・。

瑪瑙山から飯綱山への縦走路は主人の言葉通り、雪のベッタリついた
快適な山行だった。
飯綱山の山頂には戸隠中社、あるいは大座法師池方面からの
登山者が15名ほどいて、思い思いに景色を楽しんだり、
カメラのシャッターを押したりしていた。
真正面に、100名山にも名を連ねる高妻山のどっしりした山容が対峙している。

空には雲ひとつない。

最高の登山日よりだ。

「・・・・・・・」

不思議なものである。
宿の主人のこちら和田野!こちら和田野!」の声がまったく聞こえなくなると、
なんだか急に寂しくなってきた。
山頂での写真も早々に、僕は急いで山を下りた。

                                       

夕方、宿に戻ると、『野暮用』から帰っていた主人が玄関まで飛んできた。
当たり前のように例の部屋に招かれる。

「如何でございました?」
「お蔭様で、とても楽しい山でした。天気も良くて最高でした」
「それは、よございました!お勧めした甲斐がありました!」
そこまで言って主人が急に、一本の線になるくらいに目を細めて僕を見た。

「実を言いますと『野暮用』というのは、これだったんでございます」
そういうと僕に背を向けて、ソファの後ろに手を伸ばし、何かゴソゴソ取り出した。
見ると渓流用の一本の和竿である。
その方面に詳しくない僕でも相当高価な代物だという事が、一目でわかる
手作りの継ぎ竿だ。
「いや〜、ずっと欲しかったんですけどね。実は昨日、長野の町で釣具屋を
やっております知り合いから、やっとの事で入荷したと連絡が入りまして、
今日取りに行って来たのでございますよ」
「そうとう値が張ったんじゃないですか?」
「かみさんにバレたら、ここを追い出されかねない値段でございます」
胸を張って主人が言う。
「そんなに大きな声で言ったら、奥さんに聞こえますよ」
「いや〜っ、大丈夫でございますよ。今頃かみさんは不味い夕食を
せっせと作っている最中でございますよ」
不味い夕食を食べるのは僕である。

その時、奥さんがお茶をお盆に乗せて、開け放しのドアから入ってきた。
「ほらほら、お父さん。お客様は山登りで疲れてらっしゃるのだから、
そろそろ開放してあげなさい」

『絶対に聞こえていた』と、僕は思った・・・・・。

                                       

あれから5年。
戸隠の山には2度ほど遊びに行ったが、和田野荘には一度も
顔を出していない。

しかし、ふとした拍子に宿と主人の顔が僕の頭の中に浮かんできて、
無性に戸隠が懐かしくなる事がある。
そんな時、僕の耳には例の元気な声が必ず聞こえてくるのだ。

「こちら和田野!こちら和田野!潤平さん!応答願います!」



                       ご主人の名誉のため、宿名は一部変更しました。


八方温泉みみずくの湯の巻 浅間温泉仙気の湯の巻 白馬林ペンションの巻 穂高温泉P.青い屋根 乗鞍温泉三村荘 塩の道温泉岩岳の湯
新穂高温泉双六荘の巻 戸隠高原和田野荘の巻 奥飛騨温泉郷の巻 昼神温泉郷の巻 伊豆七滝温泉の巻 東丹沢七沢温泉の巻


著作権は、『北アルプスの風』に有ります。無断掲載並びに無断転載はご遠慮下さい。