湯煙紀行 河津七滝神温泉の巻

           



お気に入りの七滝温泉の民宿に運良く飛びこみで、宿を取る事が出来た。

川端康成の「伊豆の踊り子」の舞台となった、
修善寺から湯ヶ野に続く、いわゆる「踊り子歩道」を歩いた時の話である。
浄蓮の滝から峠道を歩き、紅葉に染まった天城の山々を眺めながら、
旧天城トンネルを抜けて河津の七滝(ななたる)へと下った。

「伊豆の踊り子」の主人公の学生と幼い踊り子が、
仲良く並んだ像の立つ初景滝を過ぎたところで、
時計の針が午後の3時を回った。

今日はここまでである。

飛びこんだ宿で僕を迎えてくれたのは、
少女のように可愛らしい声をした小柄な女将さんだった。
靴の紐を解き、案内されるままによく掃除の行き届いた部屋に通される。

宿のサンダルを引っ掛けて、土産物屋の食堂で山菜をつまみにビールを飲み、
宿の屋上にある気持ちのよい露天風呂で、ゆっくり汗を流したりして、
時間を潰しているうちに夕食の時間になった。

「ごめんなさいね。今日は部屋食じゃなくて大広間に準備させてもらったので」
申し訳なさそうに少女のような声で女将さんが言う。
「あっ、別に気にしないでください。どうせひとりなんだしノンビリ食べさせてもらいます」
「今日はお客さんと、もう一組、女性の二人連れだけなんですよ」
「あっ、そうなんですか」

大広間に案内されて中に入ると、20畳近い畳敷きの部屋に
1メートル程の間隔でポツンとふたつテーブルが置かれ、
奥のテーブルにはすでに二人の女性がテーブルを挟んで正座をし、
料理に箸を伸ばしていた。

「こんばんは。お先にいただいています」
奥に座っている女性が、部屋に入った僕に向かって会釈しながら言った。

とても綺麗な挨拶である。

ところが人見知りの僕は、この後、会話が弾みながらの食事は苦痛だなあなどと、
例によって相手にとても失礼な心配をしながら
「はあ、どうも・・・」などと、あいまいな返事を返して視線をそらし、
それにしても彼女のイントネーションは何だか変だったななどと考えながら腰をおろそうとした。

下ろそうとして、慌ててもう一度女性の顔を見直した。

「ありゃっ!?」

外人である。

白い肌につやつやと光る金色の髪をした外国人が二人でテーブルを囲んで食事をしている。

挨拶をした女性と目があった。

彼女は素敵な笑顔で僕に向かってもう一度かるく会釈した。
Tシャツの上に宿の浴衣を着て、キチンと座布団の上に正座している。
モデルのようにスタイルのよい、ハリウッド女優のデミ・ムーアに似た美人である。
その様子を見て、僕に背を向けていたもうひとりの金髪女性が振り向いて
同じように笑顔で会釈した。
こちらはだいぶ年配で怪獣ブースカのような体型だ。

おそらく親子だろう。

ふたりに会釈を返しながら、僕はとても恥ずかしい気持ちになった。
外国人が完璧に日本的な挨拶をして、それに対する僕の返事が
「はあ、どうも」である。
それはそれで日本的と言えば日本的だが、あまりにも酷い。
もう一度、部屋に入るところからやり直したいくらいだ。
何とも情けない顔をしながら、僕は自分のテーブルにあらためて腰を下ろした。

テーブルの上に並べられた料理は、
とても宿泊料が一泊6000円とは思えないような豪華なものだった。
お刺身の盛り合わせに手作りの煮物、タラバガニにタコの酢の物、
茶碗蒸に香の物、そして恐らく下田あたりの食事処に行けば
それだけで2000円くらいはしそうなカサゴの唐揚げが
ドンと一匹テーブルの上に乗っている。
僕はカサゴの唐揚げが大好物なのだ。

ビールを1本だけ注文し、美味しい料理に舌鼓を打つ。

いよいよカサゴに箸をつけた。
カサゴは絶妙な火加減でからりと揚がっており、
骨もパリパリと口の中で心地よい音を立てて、胃の中に収まっていく。
ビールを一口グビリと飲んで、迫力ある形相で僕を睨んでいるカサゴの頭にかぶりついた。

その時、隣の席で「Oh〜!」という小さな驚声が上がった。

口にカサゴの頭を咥えたままチラリと声の方を見ると
隣のテーブルの外国人女性がふたりして、
まあるい目をして僕の顔と、僕に頭を咥えられたカサゴを交互に見ている。
慌ててカサゴを口から放し、ちょっと小首を傾げて、ふたりに対して
「なにか?」という顔をしてみせた。

「そのお魚は骨まで食べられるんですか?」
デミ・ムーアに似た方の女性が流暢な日本語で尋ねてきた。
「この魚はカサゴっていうんですけど、上手に料理された物は尻尾の先まで全部食べられますよ」

Oh〜!

驚く時だけ外人である。

僕の言葉を聞いて、テーブルを挟んで、ふたりがしばらく顔を見合わせた。
ブースカの視線の方がかなり強く、デミ・ムーアの視線が押し戻されたように僕には見えた。
そして案の定、デミの視線はブースカに押されて下に落ち、
そしてそのまま彼女の右脇にあったカサゴの唐揚げに移った。
怪獣ブースカの圧勝である。

デミは恐る恐る、しかし実に器用に箸を使ってカサゴの頭を掴み、
魅力的な朱色の唇へとそれを運んだ。
ブースカとバカボンがそれを固唾を飲んで見守る。
バカボンは僕である。

ふと、もうひとつの視線を感じて広間の入り口を見ると
小柄な女将さんまでが何時の間にか入口の柱に手をやって
巨人の星の明子姉さんのような顔でデミの口元を見つめていた。
カサゴの下あごの部分を咥え、デミがしばらく固まっている。
ブースカの固唾を飲んだ音がシンと静まり帰った広間に響き渡った・・
と言ったらちょっと大げさである。

やがて意を決したようにデミは咥えたカサゴをガブリとひと噛みした。

パリパリパリ

大広間にカリカリに揚がったカサゴの頭の骨が砕ける音が響いた。

パリパリ ポリポリ

しばらくデミの口の中で魚の骨が砕ける、軽妙で小気味良い音が繰り返される。
そしてしばらくするとピタリとデミの口の動きが止まり、
唇が大きく開いて広間に歓声が響き渡った。

Ohhhhh!美味しいぃ!!

デミが自分自身で手を叩いて喜んでいる。

Oh〜!

女将とバカボンとブースカが手を叩きながら言った。
何故かバカボンと女将まで外人である。

それからしばらくの間、広い部屋の空間の中に、
3人がかぶりつくカサゴの砕ける音が響きつづけた。

5年前にご主人の仕事の関係で来日して以来、
日本の情緒にすっかり魅了され、時間が空いては
忙しいご主人に留守番をさせて温泉地を旅しているという
カナダ人のこの親子と、僕はポツリポツリとではあるが
肩に力を入れることなく話をすることができた。
丁寧な日本語は温泉宿で覚えたのだそうだ。
食事が終わって一段落したところでふたりに向かって会釈をし
「お先に・・」と言って僕は席を立った。

僕の背後から「おやすみなさい」「よい夜を」というふたりの声が
聞こえて来た。僕はちょっと振り返ってもう一度会釈をし、
「どうみても向こうの方が日本人らしい」などとぶつぶつ言いながら
音を立てないように自分の部屋へと向かう階段を上がった。

翌朝、湯ヶ野に向かう踊り子歩道の残りの道を、
ゆっくり写真を撮りながら歩きたかった僕は、
女将の好意に甘えて早めに朝食を作ってもらい、
朝の9時前に宿を出た。

宿の前の石段に腰を下ろしてもう一度靴の紐を結びなおし、
よいしょと腰を上げた時、僕の頭の上で声がした。
見上げると2階の客室の窓から、昨日のふたりが浴衣姿で手を振っていた。

「よい旅を!」「気をつけて!」

素敵な挨拶だ。

僕はふたりに向かって両手を振り、
「行ってきま〜す」とひと声大きく返事をし、
いつもより元気に手を振って
アスファルトの道を歩き始めた。

見上げる空は気のせいか
昨日よりもよりいっそう
青くなっているような気がした。




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